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満月に託した思い
魚座満月さん、こんばんは
清濁併せ持つ感情をすべて飲み込んでくれてありがとう
嫌な感情も 歪な感情も 醜いところも すべて含めて人間だから
そんな自分も相手も受け入れられますように
そしてこれからも大切なひとやものと向き合えますように。
魚座満月さんが「だいじょうぶだよ」と見守ってくれているようです
今回伝えたいこと
だれかにわかってもらえないとしても、あなたがあなたでなくなるわけではないよ。だから自分を大切にしてね。人生を歩む中で、いろんな出会いがこれからたくさん待っていて、必ずあなたのままがいいって言ってくれる人に出会えるから。
相手を受け入れるって、決して自分を消すわけではないよ。我慢するわけではないよ。自分も相手もちゃんと立ってはじめて受け入れるという土台に立てるんじゃないかな。同じファイティングポーズじゃないとスタートの鐘がならないように。
しんどいこと、つらいこと、苦しいこと、背負いすぎないでね。
重いものを抱えていると、いろいろなものがみえなくなって
そこから見える景色は自分も相手をも傷つけてしまうかもしれないから。
だから、どうか抱え込みすぎないで。
いろんな感情、気持ちどれも大切だから
とにかく自分に素直であれ!
(口にできなくても自分の心に嘘はつかないで)
そんなことを思います。
ここからはわたしの心の整理のnoteです
どうして↑のように思うのかを綴っています。
長文でかつネガティブ祭りなので、しんどい方は気にせずスルーしてください!
こんばんは。
今日は魚座の満月ということもあり、懺悔なのか解放なのか、はたまた許しなのか
そんなテーマを綴ってみたいと思います。
だれにでも親のここが嫌!という部分があると思うんですが、
わたしも例にもれず、こういうところが嫌だと思うことがあります。
それは母自身の価値観の中での優しさです。
わたしの母はほんとうにやさしく愛情深い人で、わたしはめちゃくちゃ愛情をもらって育ちました。
(だからこそ大人になって自立という観点でしんどかったけれど、それはまた別のお話)
それ自体は何の問題もないのですが、その優しさがときに刃になることがあります。
母の与えてくれる優しさと私の欲してる優しさが違うからです。
与えてくれるものと与えて欲しいものが違う。
母は言葉が強い(推しが強いっていうのかな)人で、小さな頃はその母の世界観をただ受け入れるばかりでした。
(否定的に書いているけれど、受け入れることでその優しさの恩恵もしっかりもらっています!)
受け入れるたびに、同時にわたしのままではダメなんだという思いが無意識に重なっていく。
わたしという「自我」が取り込まれていくような、、、(今思えばですが)
ほんとうは
わたしはわたしのままで愛してほしかったんだと思います。
そのままのわたしを
まるままのわたしを見てほしかったんだと思います。
愛されていたけれど、愛されたかった。
(今思うと、相手をありのまま愛すというのは口で言うほど簡単じゃないというのもすごくわかります)
大人になるにつれて、だんだん自分のことばで伝えられるようになっても
いつも話は平行線でした。
「どうしてわかってくれないのだろう」
心の穴がズキズキしました。
でも、母の愛情だということもすごくわかる。
その矛盾がさらにわたしを悩ませました。
ときどき、
わたしの好きなものが母と同じだったら
わたしの好きな生き方、価値観が母と同じだったら
母ももっと子育てしやすかったんじゃないかなとか
楽しく過ごせたんじゃないのかなと思ってしまうこともあります。
、、、でも、そんなたらればは、どうしたってたらればなんですよね笑。
わたしはわたしでしかいられないし、
たぶん、母も母でしかいられない
でも、それでいいのかもしれません。
(ということばがふいに今でてきたのでびっくりしています)
それでよかったのかもしれません。
と書いたところで
今、このnoteの着地点もどこへ向かっているのかわからくなってます笑。
ただ、今日は、この思いをただただ解放してみたいと思いました。
わたしはほんとうに、負の感情や醜い気持ち、汚い部分を抱えるのは得意なのに、出すことは苦手で、
でも、それが今日またひとつ解放できたことが自分なりの進歩かなと思います。
書いていて、急に楽になってきたので、やっぱり持ちすぎはしんどいんだなと思いました。
いや、いやなものはいやだよ!笑。うん。
口に出すとことだまになりそうで、どこかこわかったけれど
重いものを持ちすぎると、余計大きくなってくるということを
なんとなく実感したように思います。
今、書く前より心が軽いです。
あと、あんまり受け入れすぎたり、持ちすぎたりするのも後々自分を苦しめる気がします。
次、自分が与える側になったときに、
わたしは〜だったから、あなたも〜であるべき
というふうになってしまうことが
わたしはとても、とてもこわいです。
実際、わたしもそうなりかけたことがあります。
そしてそこでハッと気づきます。
わたしは絶対そうならないと誓っていたのに
むしろ近づいていたことに。。。
潜在意識なのか、なんなのかわからないけれど、
ほんとうにこわいです。
不思議なことに、今こうやって〜が嫌だ!と吐き出すことで
こういう嬉しいこともあったな、救われたこともあったなといろいろ思い出が溢れ出していて驚いています。
(書くことでモヤモヤが解放されて良い部分をみる余裕が生まれた?)
今回、嫌なところをさんざん書いたけれど、
好きなところ感謝してるところもたくさんあります。
それはまた別の機会に!
今の私たちはいかに。
また、長年のバトルの結果、少しずつ、ほんとうに少しずつですが、
母なりに理解してくれようとしていることがわかるときがあります。
そんなとき、相手ばかりに求めていた自分に気づき、
歩み寄ってもらうばかりではなくて、わたしも歩みよることが大切なんだと恥ずかしながらそのとき気付かされました。
受け入れる癖が板につきすぎて、相手にも受け入れて欲しいという思いが募りすぎていたのかもしれません。
あっでも、ここでいう歩み寄りは好きなことを曲げるというよりかは
相手がどうしてそんなことを言うのだろう?とか
相手の好きなことを知ってみるとか
そういったことに目を向けるという意味です。
(自分軸は大事だと思っているので!)
と、ふとここまで書いてきて
子供のころ、満たされなかった思いはどこにいくのか。
ふと頭をよぎったけれど、今は難しいことを考えなくてもいいような気がした。
今はただ、小さな頃の悲しかった自分を認める
それだけでいいような気がした。
なんとなく今ここで向き合うことで
すべてがいい方に向かいそうな
そんな気がしたから。
そろそろほんとうに着地点が見えなくなってきたので、
この辺りで終えたいと思います。
(これは私からみたストーリーであり、母からはまた違ったストーリーが見えているのだと思います。その点をご了承いただけると嬉しいです)
今日はほんとうにただただ自分のエゴを解放するためだけに書いた記事になりました。
ここまでお付き合いしてくださった方、ほんとうにありがとうございます。
みなさんのおかげで、またひとつ重い荷物を下ろすことができたような気がします。