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『刃に刻む』第十話

これは研師の話です。
刃と過ごした時間は心に刻む。
研師が濁った刃を磨いていく、景色が鮮明に映し出されることで、色褪せた思い出に新しい命を吹き込んでいく。
人との出会いの数だけ、時間は刻まれる。

靴磨きや研師のように新しい命を吹き込む仕事は世の中であまり尊重されていない。
世界でトップ級の企業を築いた経営者も、若かれし時代の大勝負の前には靴を磨いて成功していくサクセスストーリーは良くある話。
影の立役者に少しでも目を向けて深掘り出来たらいいなと思い、描いてみました。

#LimitlessCreations



『命を託された刃』


秋が終わり、冬の冷たい風が工房の周囲に吹き付ける季節がやってきた。
九州の山里も次第に冬の寒さに包まれ、工房の外に広がる木々は葉を落とし、静寂に包まれている。

そんなある日、工房の扉が重々しくノックされた。
祐一が扉を開けると、そこには一人の中年の男性が立っていた。
背が高く、鍛えられた体躯に深い皺の刻まれた顔立ち。
その目には強い意志とどこか悲しみを宿している。

「桐生さん、初めまして。私は、東京で料理人をしている藤本と申します。」

その名を耳にした瞬間、祐一は驚きを隠せなかった。
藤本孝は、東京でも有名な和食の料理人で、その腕前は一流と謳われている。
料理人としてその名を知らない者はいないほどの人物だ。

「藤本さん…あの藤本孝さんが、俺の工房に…?」

祐一は信じられない思いで藤本の顔を見つめた。
藤本は軽く頷き、少し疲れたような笑みを浮かべて答えた。

「ええ、でも、今日は自分の包丁を研ぎに来たわけではありません。
実は…お願いしたいことがあって、ここまで足を運びました。」

藤本はそう言いながら、祐一に一本の包丁を差し出した。
祐一が受け取ると、その包丁は驚くほど軽く、しかしその刃先には深い歴史を感じさせるような不思議な力を宿していた。

「これは…」

祐一が刃の部分にそっと触れると、まるでその包丁が祐一に語りかけるかのように、彼の指先にわずかな震えが伝わってきた。
その感覚は、これまでに祐一が扱ってきたどの包丁とも違うものだった。

「その包丁は、私の師匠の遺品です。
師匠は料理の道を極めた方で、若い頃からこの包丁一本で数々の料理を作り上げてきました。
…しかし、病に倒れ、亡くなる直前にこの包丁を私に託したんです。」

その言葉に、祐一はじっと藤本を見つめた。

「…師匠の遺品を、なぜ俺のところに?」

藤本は深く息をつき、静かに語り始めた。

「師匠は亡くなる前、こう言いました。
『藤本、お前にこの包丁を預ける。
しかし、この包丁を使うにはお前はまだ早い。
この包丁は、ただの道具ではなく俺の魂そのものだからだ。いずれ、お前が本当にこの包丁を使うにふさわしい料理人になったとき、心を映し出せる研師にこの刃を託せ。
そして、その包丁を研ぎ直したとき、初めて俺の道を受け継いだと言えるだろう』と。」

祐一は藤本の話をじっと聞きながら、その刃の奥に宿る師匠の存在を感じ取ろうとしていた。

「つまり、あんたは師匠の想いを受け継ぐ準備ができたってことなんですね。」

藤本はゆっくりと頷いた。

「ええ。私は今までずっと、師匠の言葉の意味を考え続けてきました。
自分は師匠の包丁を使いこなせるのか、この包丁の刃に込められた想いを自分の料理に映し出せるのか…。
でも、いくら考えても答えは出ませんでした。だから、私は桐生さんにこの包丁を研いでもらい、師匠の想いをもう一度この刃に映し出していただきたいんです。」

その言葉に、祐一は深く頷いた。
藤本の師匠が亡くなる直前まで持ち続けた想い、それを藤本が引き継ぎたいと願っている。
その覚悟と決意が、包丁を通して祐一に伝わってくるようだった。

「分かりました。この包丁を俺の腕で最高の状態に仕上げてみせます。
あんたの師匠がこの刃に託した想いを、しっかりと研ぎ出しますよ。」

藤本は深々と頭を下げ、感謝の言葉を述べた。
そして、祐一はその包丁を持ち、作業台の前に立った。

祐一は、砥石に水を含ませ、包丁を慎重に当てた。
その瞬間、包丁から伝わるのは、まるで強い意志を持った生き物のような力だった。
彼は目を閉じ、ゆっくりと刃を滑らせる。

ザリッ…という音が工房内に響くたびに、祐一の心にはかつての料理人、つまり藤本の師匠の姿が浮かび上がってきた。


—昔日の料理場。

そこには、年老いた料理人が立っていた。
彼の前には新鮮な魚と野菜が並び、包丁を手にした彼は静かに目を閉じていた。
次の瞬間、彼は迷いなく包丁を動かし、魚の身をあっという間に捌き、野菜を見事なまでに均等に切り分けていく。

「包丁は、持ち主の心をそのまま映し出す。
お前が本当に心を込めなければ、この刃は何も語らない。」

そう呟いた彼の手元には、完璧なまでに整えられた食材が並んでいた。
その刃には一切の歪みがなく、まるで鏡のように彼の姿を映し出していた。


—しかし、その包丁が使われなくなる日が訪れる。

病に倒れた師匠は、徐々に体力を失い、最後には包丁を握ることさえできなくなった。
彼の目の前で、包丁はただ静かに横たわり、その輝きを失っていった。

「…俺は、この包丁に恥じない料理を作り続けることができたのだろうか?」

それが、彼の最後の言葉だった。
彼は自分の作ってきた料理を振り返り、包丁に込めた想いを確かめるように、その刃を見つめ続けた。
そして、最後に藤本に包丁を託し、彼の言葉を残したのだ。

「この包丁を、お前が心を映せる研師に預けろ。
そいつが、この刃に俺の心を研ぎ出してくれるだろう…」

現実に戻る。

祐一はその言葉を心の中で繰り返しながら、包丁を研ぎ続けた。
刃の鈍さを取り除き、研ぎ澄ませるたびに、刃先が次第に光を取り戻していく。

「お前の心を、確かに感じたよ…」

祐一は静かに呟き、さらに包丁を研ぎ進めていく。
その刃先に込められた想いを、そして藤本が受け継ぎたいと願った師匠の魂を、祐一はすべてこの刃に映し出す覚悟で挑んでいた。

時間を忘れるほどの集中の中、祐一は包丁と向き合い続けた。
やがて、研ぎ終えた刃はまるで鏡のように周囲の景色を映し出し、刃先には凛とした輝きが宿っていた。

「これで、完成だ…」

祐一は深く息をつき、研ぎ終えた包丁をそっと持ち上げた。
その瞬間、包丁の刃先が静かに光を放ち、まるで師匠の声が祐一に語りかけているように感じられた。

翌日、藤本が再び工房を訪れた。
祐一は研ぎ上がった包丁を手渡しながら、藤本の目を見つめた。

「お待たせしました。これが、あんたの師匠の包丁です。」

藤本は包丁を受け取り、じっとその刃先を見つめた。
その目には、師匠の姿が映っているかのような強い光が宿っていた。

「…師匠、これで俺は、あなたの想いを受け継ぐことができました。」

藤本はそう呟き、深々と頭を下げた。

「桐生さん、本当にありがとうございます。この包丁で、師匠の料理を超えてみせます。」

祐一はその言葉に頷き、静かに答えた。

「君ならきっとできるさ。
この包丁は、君を導いてくれるはずだから。」

藤本は包丁を大切に抱え、工房を後にした。
その背中には、料理人としての新たな決意と覚悟が満ちていた。

祐一は彼の姿が見えなくなるまで見送り、深く息をついた。

そして、そっと呟いた。

「包丁は心。人の想いを研ぎ、磨き続けることで、命が宿り続ける。」

祐一の言葉に応えるように、工房の中の包丁たちは優しい輝きを放ち続けていた。
その刃の奥には、師匠と弟子、そして研師の想いが重なり合い、静かに息づいていた。


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