沈んだ水面 第五章
『光の中へ』
競艇選手として再びゼロから歩み始めたまさきは、いくつもの小さなレースで勝利を重ね、その存在感を再び競艇界に示していた。かつてのような派手な名声や巨額の賞金ではなく、自らの技術と誠実な姿勢が彼を支えていた。
次のレースは彼にとって特別なものだった。かつて自分が裏切りと共に捨てた「A級昇格」への再挑戦。今度こそ、正々堂々とその階段を登り切るつもりだった。まさきはすでに、過去の歪んだ絆を捨て、自分の足で立っている。だが、この一戦に全てを賭けるという思いは、かつて以上に強く胸に秘めていた。
レース当日、風は穏やかで、水面も澄んでいた。観客席にはいつも以上の人々が集まり、期待の眼差しをまさきに向けていた。だが、まさきは以前のように観客や賞金のことを気にすることはなかった。彼の視界には、ただ目の前のレースと水面だけが映っていた。
「俺は、このレースに勝つためにここにいる」
それがまさきの全てだった。スタートの瞬間、彼は今まで感じたことのない集中力に包まれていた。エンジン音が鳴り響き、ボートが水面を切り裂く。スタートダッシュは完璧だった。
序盤から順調にリードを保ち、緩やかにターンを切る。まさきの操作はかつての彼とはまるで別人のようだった。迷いも焦りもない。全てが計算され尽くされた動きであり、彼の心は静かに燃えていた。
「これが、俺のレースだ」
レースは佳境を迎え、まさきはトップを独走していた。後続艇が迫るが、その距離はほとんど縮まらない。かつてのまさきなら、この瞬間に過去の失敗や賞金への執着が頭をよぎり、プレッシャーに押し潰されていたかもしれない。だが今の彼には、そんな迷いは微塵もなかった。
まさきはただ、自分の技術と集中力を信じていた。
レースが終わり、まさきはついにゴールラインを越えた。歓声が一斉に上がり、まさきの勝利を祝っていた。だが、彼はその歓声に耳を傾けることなく、水面を見つめていた。
「これが、俺の競艇だ……」
そう呟いたまさきの心には、かつての迷いや不安は全くなかった。ただ、一つの達成感が静かに胸に広がっていた。
控室に戻ったまさきは、鏡に映る自分の姿を見つめた。そこに映っていたのは、かつての賞金や名声に囚われた自分ではなく、純粋に競艇選手としての誇りを取り戻した自分自身だった。
その夜、まさきは父との思い出が詰まった古い家に足を運んだ。かつて歪んだ絆によって彼を縛りつけていた家。しかし、今はその鎖を断ち切り、自由な自分がそこに立っていた。
ドアを開けると、かつての父の姿が頭をよぎった。酒に酔い、金に取り憑かれていた父。だが、まさきはその影に怯えることなく、静かに家を見渡した。
「俺は、もう迷わない」
まさきは小さく呟き、家の中を一巡してから外に出た。空には満天の星が輝いており、その光が彼の心を照らしていた。
その後、まさきは再び競艇の道を歩み続けた。彼はもう、かつてのように賞金や名声に目を眩ますことはなかった。ただ、純粋に競技そのものを楽しみ、仲間たちと共に成長していく日々が彼の人生の中心にあった。
彼の新しいレースは、次々と成功を収め、競艇界でも一目置かれる存在となっていった。しかし、まさきにとってそれはあくまで結果に過ぎなかった。
ある日、若手選手たちと話している時、まさきはふと過去を振り返った。
「俺は、いつかあの時の自分を越えられると思うか?」
若手選手がそう尋ねると、まさきは笑みを浮かべ、静かに答えた。
「もうとっくに越えているさ。俺は、自分自身と向き合い、歩んできた。それが全てだ」
若手選手たちはその言葉に深くうなずき、まさきにさらなる敬意を抱いた。
まさきはもう、歪んだ絆に囚われることなく、真っ直ぐに光の中を歩んでいたのだった。
完
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