Nov.2022① How to fight the loneliness
幸運なことに最近の自分を遠くから見てくれている人がいて、その事実が実体を伴って目の前に現れた時、一瞬で緊張の糸が解けてしまった。
日々常に緊張してるなんて自覚はなかったけど、自分の中で、蓋をしていた感情を露わに晒してしまった。
最近は、極力「寂しい」という気持ちを表に出すようにしていたつもりで、
SNSを見て気づいた人はそりゃいるんだろうけど、それでもたかがその程度ではあって、自分の寂しさが消えることはないのかもしれないと半ば諦めて、実生活では蓋をして過ごしていた。
なので、遠くでそれを見てくれている人がいるというのは本当に嬉しいことだったし、それだけでも全身の力が抜けるようなものがあった。
と同時に、寂しさが消える機会に恵まれると、これは麻薬か何かなのかと思うくらいに、もっと、もっとと求めてしまう自分がいた。
まずい、これじゃ20代前半の頃の文字通り病んでいた自分と何も変わっていないのでは。
依存してしまいそうで、急に怖くなった。
以前見た動画で、こういうものがあって
彼が言及しているのはおそらく、所謂アメリカやカナダなどにいる「インセル」っていう、「セックスする権利」に歪んだ形でこだわる余り暴力に訴えるような男たちに対してのメッセージなんだと思うんだけど、自分は
「男も、信愛というようなものを自然に交換し合える関係性作りが大事なんじゃないか(同性異性問わず、またその関係にセックスがあろうがなかろうが)」
というメッセージなのかなと受け取っていて、そこにすごくシンパシーを覚えたというか、ああ、それいいな、そうだよな、と思ったのだった。
少なくとも日本人男性は、一般的には、寂しいなんて滅多に言うことないだろうし、精神的に互いを支え合うような関係なんかも基本的には持てていないと思う。スキンシップなんて、セックスできる相手とだけにあるものになっちゃってる気さえするし。
それで、今、ずっと寂しかったんだなと気づいてしまった自分は、性的なものに振り回されるんじゃなくて、寂しさをもっと自然に、しかも性的なものはなしで、交換し合えるような関係性があると良かったのかなと思った。
でも、いざ自分の寂しさを受け止めてくれる体験をすると、その感じに依存してしまいそうな自分がいて、怖くなる。
相手との関係性が何であれ、ひとりの人に依存することはしたくない。
どこかで見た言葉で、「依存先を複数持つことが自立することだ」というものがあって、これが当てはまるケースなのかはわからないけど、とにかく、その人なしでは立てないようにはなりたくない。かなり不安定だった20代前半の頃はそんな時期もあった。もう、ああはなりたくない。だから怖い。
何ならもう、「みんな見てるよ(大丈夫だよ)」と声をかけてくれただけでもう心は大変なことになっていた。厳重に閉じていたはずのものがあっさりと開かれて、自分ではそれをどう扱えばいいかわからなくなっている。
ありがたい話なのにね。ほんとに。
どこかできっと、頼ること、甘えること、さらけ出すことへの躊躇いが、まだ、あるんだと思う。自分一人じゃ立てなくなってしまうんじゃないか、というか。
けど、そもそも自分一人だけで安定した状態で過ごせていた時期なんてあったんだろうか。
寂しさとの付き合い方は、ずっとわからないままでいる気がする。
Wilcoの曲にぴったりなものがあって、「17歳のカルテ」でも効果的に使われていたのを覚えている。
ウィノナ・ライダーと、アンジョリーナ・ジョリーが主演の、精神病棟を舞台にした映画。
当時の自分も精神的に不安定だったので、なんとなく印象に残っている。