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上手くいかないとき
人生は時に上手くいかない時がある。
行きたい方角はあるのに、その方法も分かるのに、上手くその方向へ向かえない。
何だかよく分からない妨害にあったりして、人生という名の船を全力で進めているのに、全然進まないどころか、むしろ後ろへ流されているのではないかと疑いたくなるような時だ。
そこへ向かわなければいけないのに、それは明白なのに、誰もそんな事には関心を払わず、懸命にオールを漕ぐ私を、人は不思議そうに眺める。
進まない船のオールを漕ぎ続けるよりも、大海にたゆたいながら、快適な旅を思考した方がどんなに楽かということを彼らは私に問いかける。
自分でも理由が良く分からない、私だって、皆と同じように快適な旅をしたいと思っている。
出来ることなら、目的地を指し示す、この心の羅針盤を捨て去って、目指す場所の事なんてすっかり忘れ去り、大海にたゆたい、甲板のデッキチェアで日光浴しながらシャンパンでも飲んで過ごしていたい。
何でこんなことになっちゃったんだろう。
私以外の全ての人が幸せそうに見えて、心の底から羨ましかった。
とある日、ついに力尽きた私は、オールを波に浚われ、小さな小舟で大海にただようことになった。
デッキチェアにシャンパンはなかったけれど、私の船にも太陽は燦燦と降り注いでいた。それは皆と平等に。
これからどうなっちゃうんだろう?と考えても、オールもなければ、動く元気もない。
ただ空を眺め、流されるしかなかった。
私はあらゆるモノに対する抵抗をあきらめた。
そんな私に唯一残された出来る事。
それは、自分を変えることだった。
これまで通りの価値観で同じ人生を歩んでいくことは、もはや困難になった状況下で、自分を変える事でしか、生きていく道がなかったと言った方が正しいと思う。
その作業は、強制的に私に訪れた。
そして、その経験は、ゆっくりと私を本当の私へ戻す作業になった。
今でこそ、あの経験があったから今があると思えるけれど、あの頃は、そんなふうには思えなかった。
それは長い道のりだった。
古い価値観への執着がふいに顔を出し、もうそれは手に入らないのだからとそっと静かに手放して進む、そんな私を「なんか、負け犬みたいだな。」とも思えた。
社会に適合するために身に着けた考え方、合理性や効率性など求められる方向性、あるべき人間像。
全て、生まれた時から志向していたものではなかった。
価値観は、自分で形成したものは圧倒的に少ない。
大抵は、周りからの刷り込みと、大衆が目指しているからそれが正しいのだという思い込みに過ぎないものだった。
それが、長く私を苦しめていたのに、手放すことが難しい程に根深く身についてしまっていたのだということも知った。
今の時代はそんなふうに衝撃的な経験で、価値観の変革がやってくる必要はきっとない。
時代の流れに合わせて、自然体で生きていけば、ゆるやかに、そしてしなやかに人は生まれ変わっていくのだろう。
そして、必ずしも皆が変化をする必要もない。
これまでの世の中の価値観を愛し、これまで通りに生きたい人は変わらずに生きていく権利がある。
そして、既存の価値観に疑問を抱き、新しい価値観で生きていく人たちも、世界を変える船の航海者として、大海に繰り出していくのだろう。
古い世界での私の苦しみは、私のせいだった。
しかし、私はそれを体験を通して知る必要があった。
私は、シンプルに世の中を見つめる。
私が望む世界に来れたのは、自分の力だけではない。
数限りない力添えと私を信じてくれた存在たち。
そして、一番苦しいところで、自分でいることを諦めない気持ちを持てた事、それは奇跡であり、ただ感謝の言葉しか出てこない。
愛とは、優しいだけでも、ただ寛容なだけでも、ないのかもしれない。
うまくいかない事が起きる時、それはきっと愛を携えたメッセージがあるのかもしれない。