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この世界に点在する同志がいるとするならば

明日、もし自分が死ぬとしても未練はないな、と思い始めたのは、何年前からなんだろう。

心残りといえば、まだ生きている親より先に逝ってしまうのは可哀そうだなと思うこと、この世界が完全に平和で調和に満ちた世界になるのを見届ける前に立ち去るのは、申し訳ないなと思うこと、この2つしか心に浮かばなくなった。

もちろん、日常的に「これを食べたい。」とか、「ここへ旅に行きたい。」とか「この人に会いたい。」とかは普通にあり、傍からみたら、楽しく普通に人生を送るごく一般的な人間に分類されるんだろうと思う。

しかし、この世の中の仕組みの中で生きる自分は、本当の自分を隠し通すことに懸命になりながら、同時並行的に普通の人のように振る舞わなければならなかった。

活動や経験の中で出会う人たちの本質が見えるとき、この世の中に一緒にいたいと思える人間なんてひとりもいないじゃないか・・・と思ったりした。

優しい人、親切な人、この世の中には沢山いて、天使みたいな人だっている。昔から長く続く友達だっている。新しく知り合って楽しく過ごせるようになった友達だっている。

この人のために力になりたいな、と思う人だっている。

でも、明日、この世界とお別れですよと言われたら、「ああ、良かった。ようやく終わるのか。」とほっとする自分が確かにいる。

私にとって、この世界での経験は、楽しく幸せな経験ももちろんあったけど、もう2度と生まれてなんかこないもん!と固く心に誓うほど、苛烈なものだった。

時には。
自分がこの世界の調和を乱しているのかもしれないと、目立たないように、自分を小さく、低く見せることに一生懸命になって、どんなに小さくなっても、どんなに周囲に合わせようと思っても、瞬間的に守るものが異なる人たちとの間で涙したりもした。

子供の頃も、大人になって恋愛をしている時も、人が自分らしく自分を表現してもらいたいという願いは、ずっとあり、ん?っと思うような理不尽な扱いを受けることがあると、その人らしさなんだと思って黙って受け入れていた。そして、私が私らしく自分を表現しようとすると、その人たちは、大抵それを受け入れようとはしなかった。

でも、彼らは、自分自身を忘れてしまっているだけだったんだ。自分のホントの願いを知らないだけなんだ。この世界のシステムに必死に乗っかってただけなんだ。

それしか道がないんだと信じて。

先日、ペンキ画家 ショーゲンさんという方のYouTubeに出会った。

アフリカ、タンザニアのブンジュ村に住んでいたという方で、村でのお話をされていた。

様々な経験と彼の言葉が重なって、うん、そうだよね、と思った。

明日、この世界から旅立ちますよと言われたら、ほっとする気持ちはやっぱりまだあるけれど、この命がある限り、いつか、平和で調和に満ちた世界に私たちが還ることを信じて、自分自身と向き合って、誰と戦うわけでもなく、自分らしく静かに命を燃やしていこうと。

心の中で「カチっ」と何かがはまり、マインドセットが決まると、どんな瞬間も大切にしようと、自分自身に正直であろうと思えるようになった。

大丈夫、私たちは曼陀羅だから。

それぞれの持ち場で、それぞれの人生を生き切って、この世界を私たちが想う世界へと導いていく。

大丈夫、私たちの想いは、時空をも超えていくから。戦う必要はない。

テレビ見なくなっちゃったけど、最近、YouTubeにはまってしまっている。(笑)何故なら、私が思うこととおんなじこと言ってる人がいるから。

あなたと私の間に生まれる調和の中に神様が宿るんだよ。それが、救世主なんだよと、天描画家の大城清太さんは言った。

会うことはなくても、こうやって私たちは繋がっていくのかもしれない。
そして、それを声を上げて発信している人たちを心から尊敬している。

そして。
世界のどこかで、本当の自分自身を表現し続ける、
あなたを尊敬している。





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