甘ったれオヤジに花束を
好きになれない人がいる。
はっきり言うと嫌いだ。
こういう言葉は好きじゃないし、わざわざ書くことでもないと思われるかもしれないが、書いたのには訳がある。
ひとつは「みんな大好き」なんて自分の影に目を背けて偽善面するのはもっと嫌いなこと(実際みんな素晴らしくて大好きなんだけれど)。
もうひとつは「嫌い」な人は感謝してもしきれない、かけがえのないギフト――自分を自由にする鍵をくれる人だから。
その人は店の来店客だった。
別のスタッフの指名で、その子が指名されるのは納得、という構図。
というのは、その人はとんでもなく甘えの構造を持った人で、そのスタッフは共依存タイプだったから。
それは、ただ、わかってしまうから。
担当ではないからプライベートは知る由もないが、妻を「戸籍上の人」と呼ぶ彼はどうやら浮気が原因で妻が里帰りをしたらしい。
そんな話やら「東南アジアに行けば、お金だけ出せば相手してくれる・・・」なんてことを大声で言う。
スタッフはクスクス笑いながら適当にあしらいつつ足つぼをやっている。
話の内容はさることながら・・・その声の波長、その足がもう、甘えの構造を体現していると言っていいような様相。
甘えだけでなくて、自分の人生の責任から逃げている、そういう人なんだってみえてくる。言い訳、他人のせい。
からだや声からエネルギーを感じる身としてはもう同じ空間にいるのが苦痛でしかない。
それは甘すぎるスイーツを食べすぎてしまったときのようにべったりとした感覚として残る。
ただただ、時間よ早く過ぎてくれ、と祈るばかり。
でもね。
もっともっとその人を感じると、その人の幼少期も感じてくる。
言い訳したくなった時の痛みとか。
小さい時からの甘えと逃げの構造から変化するきっかけを失ってしまっていること。
なんかうまくいかないことを嘆いていること。
本当は傷ついているけれど、もうそのやり方しか知らずどうにもできずにいること。
指名を貰っているスタッフから
「あちこちの店で出禁になっているらしい」と聞いた。
出禁になるほどなにやらかしてるんだ?と驚くと共に少し胸が痛くなった。
理由を理解しても不快感は消えない。
嫌なのに張り付く感覚。
「なぜ?」
それは問いを発すると同時に解消していた。
単純に
彼が
自分ができないことをやっているから、だ。
これは本当にわかりにくい感覚だ。
第一にわたしは「甘えたい」とは思わない。
彼みたいになりたいなんて、微塵も思わない。
だから彼は自分と対極にある、と考えるのは罠だ。
「甘えたい」とは思わない。
寧ろ自分に「甘えることを許していない」。
すべてはまず自分の努力で取り組んでしかるべきだ。
そんな風に考えたのは本当は自分ではないはずで、親や先生など誰かから教え込まれたものだ。
小さな子は「自分でやってみたい!」とは思っても自分でやるべきだなんてまず考えちゃいない。
自分が人生最初に聞いた「甘ったれるな」という言葉は自分が発したものではないはずだから。
甘えたい気持ちを忘れちゃうぐらい、頑張りすぎてきてしまったわたしたちはそれが難なくできる人をうらやましかったり妬ましく感じるのだ。
その中で自分と価値観の相違がある人を特に敵視してしまうのだと思う。
さも自分が正しいのだと、甘えてしまってはいけないと自分に鞭を入れるかのように。
そう、敵視して文句を言っているとき、大抵鞭打たれているのは自分自身なのだと思う。
人を叩いているようで、叩かれているのは自分自身。
だって、そうやって自分を許すことがまたできないでいるのだから。
「相手は自分が生きたかった可能性を生きてくれている人なんだ」
ちょっと極端だし、人権が尊重されない発言は全く同意できないけれど、あの人はわたしの「甘えられない」弱さをみせてくれたんだなぁと、そのために表れてくれたのだなぁとありがたい気持ちになった。
その人に祝福があるようにと祈りたくなった。
わたしの中で「甘え」が程よく馴染むまで、彼への違和感は残ると思う。
彼は店のスタッフの子との共依存のテーマの為に暫く来てくれるに違いない。でも彼女も随分変わってきた。そのうち関係性を手放す時が来るだろう。
「嫌いな人は自分を映す特別な鏡」だけれど、本当は周りの人はみんな鏡だ。
わたしがなにかを認め、赦し、手放すほど見えている世界は変わる。
わたしは世界を大好きになるようにできている。
宇宙が愛でできているように、わたしも愛で満ちていく。
満たしていく。
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