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ぬか床
少し前まで、台所に立つ全ての作業と亡母が結びついてしまい、野菜を切れば母が切った形と重なり視界がぼやけ、味噌汁を作ると同じ味に手が止まってしまう日々だった。皿を必要以上にそっと置く癖、冬の味噌に柚子の切れ端を入れておくこと、ぜんぶぜんぶ母を思い出して必要以上に泣いていた。
母が亡くなり、私たちきょうだいは
「お母さんのぬか漬けが食べたいなあ」
と誰ともなく言った。
ぬか漬けは夏の味。かつて皆が集まると母はひょいと卓から抜け、まもなく東の窓からぬかの香りが漂ってくるのだった。あ、お母さんがぬか漬け出してる!と。
ようやく、すっきりとした気持ちで母を思い出せるようになってきた。
ぬか床を作ろう。生ぬかをゆっくり乾煎りする。生姜、にんにく、ミョウガ、鷹の爪を入れる。キャベツの芯を捨て漬け。漬ける度にお礼の塩。ネットレシピはいらない。手が覚えていた。懐かしい味ができた。
私のぬか床は梅干し漬け用のプラスチックの樽。蓋は本体にかぽりと被せるだけの、昔ながらの安価なもの。ざっかざっかと深く混ぜることができるので好き。冷蔵庫には入れない。朝に混ぜて野菜を漬け、夕方蓋を開けるとふんわりと表面が盛り上がっている。ふふ、息をしているぞ。
お盆に集まれるなら、きゅうりとナスを漬けて持っていこうかな、でも出したてじゃないと美味しくないしなどと思っていた。兄からの返信は「今年の法事は、なし」。
いつか集まれる日まで漬け続けられるかな。またくじけちゃうかも。そうしたらまたやり直せばいいね。私もぬか床も生きてるんだから何とかなるさ。
私が生きている限りは母も生きているような気がする。そう心から思えるようになった夏の入り口のおはなし。
お読みいただきありがとうございました。