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鬼才だの天才だの使いすぎ

インターネットを見ているとよく見るコメントです。「天才」とか「鬼才」とか。世間の人はみんなこの言葉が大好きです。
もちろんインターネットや世間だけではない。メディアはこぞって天才とか鬼才という言葉を使いたがる。私はこの風潮に嫌気がさしています。

卵が先か鶏が先か、という話でもないですが、世間が天才とか鬼才という言葉が好きだからそれをメディア多用しているのか。それともメディアが使うから世間がその言葉を気に入っているのか。どちらなんでしょう。どちらでもいいのですが。

「〜は本当の天才」「この人こそ天才だろ」ネットのコメント欄でよく見る言葉です。

「鬼才現る」「令和の天才」メディアでよく見ますね。

この人たちの言葉を全部集めていったら、大抵の有名人はみんな天才じゃないでしょうか。皆誰彼構わず天才と呼びすぎな気がします。

特に私が嫌いなのは誰かを鬼才と表現したがること。

鬼才という言葉は本来、李賀にのみ使われる言葉です。他の人間には当てはまりません。

それを鬼才だ天才だと誰でも彼でも囃し立て、楽しんでいる。

私個人の意見ですが、今世間で天才と評される人の大半は秀才なのではないでしょうか。秀才ももちろん生半可なものではないですが、天才とは違います。

真に天のエンジンで動いている人間など、ほとんどいないのです。(真に天のエンジンという言葉は『3月のライオン』より引用)

天才と呼ばれるほとんどの人間が秀才でも、世間が天才と呼びたがる理由は何か。

予想の域を出ませんが、単純に響きが甘美だからでしょう。

秀才だと努力とか、人間らしいものが見え隠れしてしまう。
しかし天才ならば自分の理解の及ばないものとして手放しに崇められる。崇めるは言い過ぎですかね。

この思考停止や羨望が、天才や鬼才という言葉を多用する現代を生み出したのではないでしょうか。

私自身天才という言葉自体は好きです。自分の好きな有名人にはつい使いたくなってしまう。もちろん使えばいいのかもしれませんが、それでは本当の天才に対してかける言葉がなくなってしまう。本当の天才が現れた時、今のような使われ方をしている「天才」、の言葉を冠してもそれはあまり天才には見えない。そんな気がします。

ということで天才という言葉、誰彼構わず使うのは危険なのではないか、という話でした。

以上。読んでくださりありがとうございます。

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