算命学鑑定士の徒然日記:本の話をしよう
今日は東田直樹さんの「自閉症が30歳の僕に教えてくれたこと」という本を読んでいます。
私が彼の本を初めて読んだのは、療育施設で働いていた頃でPTの理論に基づいた療育と、保育士の感情ベースで取り組む療育との狭間にいた頃でした。
(結論それについては、どちらも大切で結局バランスだと思っています)
当時の彼は13歳。
言葉を発することのない自閉症のお子さんたちと過ごしていたときに、東田さんの言葉を読んで、もしかしたらあの子もこんな理由であのようにしていたのかもしれないな、と腑に落ちることがたくさん書かれていました。
ご本人もおっしゃっていましたが、全く同じであるという人はいない。でも、本当はこんな思いをしているのかもしれないと推しはかる手立てにはなるのだと思います。
「言いたい言葉」と「話すために使える言葉とがお暗示ではない人がいる。
と今読んでいる本の冒頭に書かれていました。
それは何も自閉症スペクトラム症候群の中にある人に限ったことではないと思います。
使える言葉だけで判断され、その人の能力や人格を決め付けることをしないようにしたいなと改めて思うのでした。
(夫との関わりでもお互いにあると思うし)
自閉症の方は変化にとても弱いのです。
その理由がわからないので手探りで様々な工夫をします。
この人がこれで大丈夫になったからと言ってあの人には大丈夫になるとは限らないもの。
そのためにたくさん姿や表情を丁寧に見つめながら関わります。
最近の次男も同じ姿があります。
次男はASDの傾向がないのですが、大変さと自分の気持ちを言葉で理由を言えないところは同じです。思考が深くて複雑すぎて的確な言葉が見つけられないのです。
変化とは「いつもしていることがいつも通りにできないこと」というより、「いつもしていないことが突然起こる」おちう感覚なのだそうです。
自分の存在がこの世から消え去るような不安に押しつぶされそうになるのだとか。
次男は単独で起こる変化はある程度我慢ができます。
でも、3つ4つと積み重なることなんて、暮らしていると大なり小なりよくありますよね。
そうなると我慢が爆発します。
大人のようだった次男が急に赤ちゃんのようになる瞬間です。
そうなるともう待つしかありません。
もう自分は10歳で赤ちゃんではないことを知っていて、私に何かしてもらうことで気が鎮まらないことも知っているからです。
変化に弱いって実は司禄星味の強い人にも当てはまると思うのですがどうでしょうか。
同じことをコツコツとすることが得意でそれが大きなエネルギーにもなりますが、
それを逆に手放すときに私は結構痛みを感じます。
しなければならない感覚がその頃にはもう大きくなっているようなそんな感じ。
言いたいけれど言えない姿
その人個人的にみんなできることが簡単ではないこと
顔には出さないけれど実はとても葛藤している
スピードの感覚が違う
人との距離感
好奇心
算命学を学んでから、本当にあなたは私だったかもしれないし、私はあなただったかもしれないという感覚になるようになりました。
般若心経の中にもそのような意味の言葉がありますね。
東洋哲学の偉人たちの時代の方がよほど多様性を認めていたような気がしてきます。
中国の哲学は「この世界はサイコー」と思っているものだと先日紹介した本にわかりやすく書いてあります。
だから仙人のように長生きしたい。
この世界を楽しむのがゴール。
だから算命学は「どうやったら人生がうまくいくか」という処方箋になれるのですね。
このまま技法や理論にどハマりするのも楽しそうだと思ったのですが、やっぱりこの世界はサイコーを体験してみたいなと思って今に至っています。