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ドイツで習いごと

フォルクスホッホシューレ 
Volkshochschule

この言葉を訳する時に、少し迷ってしまった。

Volkは市民。
Hochschuleは大学、専門大学などの意味。

つまり、市民のための大学だ。
でも、大学という存在とは少し違うし、相応しい言葉が見つからない。

ドイツには、どの街にも非営利団体の市民大学がある。
市が援助しており、日本の生涯教育センターに似ている。

頭文字を取り、VHSと呼ばれることも多い。
経理やパソコンなど、仕事に直結するような資格を目指す本格的なコースもあれば、様々な語学コース、更には料理やダンス、音楽などの趣味のコースも豊富に用意されている。
日本人駐在員やそのご家族も、ここでドイツ語の基礎を教わるかたが多い。

2019年、フォルクスホッホシューレは100周年記念を盛大に祝った。
100年もの間、このような市民への教育制度が続けられてきたことは、大変素晴らしい事だと思う。

デュッセルドルフでは、30以上の専門分野、コースは2400以上、加えてセミナーやワークショップも開催される。
年間12万時間もの授業が行われ、教師は900人以上もいらっしゃるという。

私は、トルコ語を学ぶために、ここに2年ほど通ったことがある。
クラスのメンバーは、空港で働くかた、トルコに旅行したいかた、トルコ料理が好きなかたなど様々だった。
私は、学生時代にトルコ人の友達と親しくなった事がきっかけで、トルコ語を学びたくなった。
いつか一緒にトルコ旅行をしようと約束したからだ。

週に1度、20時頃からスタートし、1時間半のコース。
宿題もたっぷり出る。
トルコ語は、日本語と文法が似ているため、ドイツ人が理解しにくい文法も、案外分かりやすかった。

こうして市民大学に通い、色々なかたと知り合うことで、交流も生まれた。
学生時代と違い、働いていると、新しい友達を作る事はなかなか難しい。
この授業に参加し、様々な年齢、職業を持つかたからお話を聞くのは楽しかった。
また、授業の休憩の合間に、日本に興味を持って質問して下さるかたも多かった。

前述の通り、私には親しくなったトルコ人の友達2人がいる。
2人は幼馴染で、同じ大学に入り、同じアパートの同じ部屋に住んでいた。
私の専攻学科は女性が少なかったので、教室で女性を見つけた時には、とても嬉しかった。
私は早速声をかけ、一緒に授業を受けてもいいかと聞いたのだ。
それ以来、私達はいつも一緒だった。

私の住んでいた学生寮と、彼女達のアパートも近かったので、アパートにも遊びに行った。
彼女達の母親が来ている時には、必ず呼ばれる。
何故なら、美味しいトルコ料理を作ってくれるからだ。
彼女達の母親は、手際よく料理を作っていく。
やり方を教えて欲しいと頼むと、いつも丁寧に教えてくれた。

ワインの葉で包んだサルマと呼ばれる冷菜。
茄子のひき肉詰めのトマト煮、これは今でも私の大好物だ。
トルコピザ。
餃子のようなマントゥ、これはヨーグルトソースで頂く。
お米のプリン、ストゥラッチ。
彼女達の母親は、数々の料理をあっという間に作ってしまう。

私の寮に来る時は、日本料理を振舞った。
アルコールや豚肉を口にしない彼女達のために、食品添加物までしっかり見て食事を作ることは、なかなか難しい事だった。
例えば、煮込み料理でみりんを使うこともできない。
おいしそうなチョコを買ってきたら、僅かにアルコールが入っていて、二人とも全く食べられない事もあった。
私はそのようなミスを繰り返しながら、文化や風習を、彼女達から一つ一つ教わった。

ラマダンと呼ばれる断食の間は、彼女達も断食をしていた。
お昼休みに、私だけご飯を食べるのが申し訳なくて、その時だけは別行動にしてもらったのも、懐かしい思い出だ。
彼女達は、トルコやイスラム教について、全く知識のなかった私に教えてくれた。

学生寮に住んでいたトルコ人は、日本とトルコの友好について熱く語ってくれたが、彼女達も同じく、日本人をとても好意的に感じてくれていた。

私は、ドイツで生まれた彼女達が羨ましかった。
私が必死で勉強したドイツ語は、彼女達にとっては母国語と同じ。
トルコ語もドイツ語も話し、英語も得意だった。

でも私は、彼女達の苦労を知らなかった。
彼女達の祖父母世代は、トルコの農村からドイツのルール工業地帯へ、出稼ぎ労働者としてやってきた。
そして、子供達の教育の為に、ドイツに残ることを選択したのだそうだ。
彼女達の両親は、トルコへの愛情がとても深い。
幼い頃に急にドイツに連れて来られたり、結婚のためにドイツに来た訳だから、望郷の念が強く、トルコへ戻りたいといつも話していた。

しかし、ドイツで生まれ育った私の友達世代となると、その思いは少し変わってくる。
ドイツにいても外国人、そしてトルコに帰っても外国人。
その悲しさを、彼女達はいつも強く主張していたからだ。

彼女達と一緒に行ったトルコ旅行を、私は忘れないだろう。
何も計画せず、行きたい街に行き、留まりたいだけその街に留まる。
ガイドブックにも載らないような小さな街が気に入り、私達は長く滞在したりもした。

時々、彼女達にドイツ語で話しかけてくるトルコ人がいた。
私はなぜそれが分かるのか不思議で、彼女達に聞いてみた。
彼女達の話すトルコ語は少し訛りのようなものがあるそうで、『ドイツトルコ語』と揶揄される独特の話し方なのだそうだ。
ドイツから来ていると分かった途端、値段が倍になったり、少し愛想が悪くなることもあった。

トルコが好きなんだけどね、こういう事が時々あるのよ。

彼女達は、少しだけ悲しそうな笑顔を作り、私にそう説明した。
市民大学の事を思い出すと、楽しかった旅の思い出と、少しだけ悲しそうな彼女達の顔を思い出す。

日本に戻った時、彼女達の感じた気持ちを少しだけ分かった気がした。
ドイツにいる間、私が外国人であることは明白だ。
しかし、母国日本も、私にとって今までの日本とは少しだけ違うものになっていた。
私は、自分を浦島太郎のように感じた。

ドイツであっても日本であっても、私はある意味『異端』なのだと悟った瞬間だった。

古くからの友達に、その気持ちを打ち明けた。
少し寂しい思い。
空虚な気持ち。
私の話を聞いた後、友達はこう言ってくれた。

帰る場所が二つもあることは、いいことじゃない?
Ditoは、それを選択できるんだよ。

私は、ハッとした。
そうだった。
トルコ人の友達達は、自分の意志でドイツにいるわけではなかった。
だから、あのような悲しい笑顔をしたのだろう。

私には選ぶ機会があり、そして自らの意志でドイツに来たのだ。
少し感傷的になっていた先程までの自分を、少し恥ずかしく思った。

今、私はこうして、ドイツに溶け込もうと努力しているのかもしれない。
それは、自らの選択に間違いがなかったと、そう思いたいからなのかもしれない。

*****

ドイツは、秋が各学校のスタート。
さて、今度は何を習おうか。
コロナの影響で、休講やオンラインのみの授業になった時期もあるが、最近は授業が再開されているようだ。

テニスなどのスポーツはどうだろう。
それとも、ギターでも習おうか。
いつもは、パートナーの母からドイツ料理を教わっている。
パートナーの母をびっくりさせたいから、ドイツ料理を習ってみようか。

VHSのサイトを見ながら、私は今日こんな事を思い出し、考えを巡らせている。

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