灰の境界線~第四話~
アルマはどんよりした顔で、ソファに寝そべり、窓の外の明るさをひたすら眺めていた。
身体が重い。頭が痛い。気持ち悪い。絶不調だった。
昨日、ベルゼブブに憑依された反動だろう。こんなに負担が大きいとは思わなかった。
今日も依頼があるはずなのに、まったく体を起こす気になれない。
「これが、悪魔に乗っ取られた者の末路か……」
自分が助けた人間達も、悪魔が離れた後こんな状態になっているのだろうか。
そう考えていると、食器洗いをしていたエルが心配そうに駆け寄ってきた。
「ダ、イジョブ? キ、モチワルイ?」
「大丈夫……ちょっと寝れば元気になるよ」
心配をかけまいと無理やりにでも笑顔を見せるが、エルは顔を横に振って、近くに転がっていた毛布を拾い、アルマの身体にかけた。
「ネ、ンネ! ヤ、スム、ダイジ!」
「……ありがとう、じゃあお言葉に甘えて寝かせてもらうね」
有難く毛布をかぶるアルマに、エルは満足そうに笑って台所に戻っていった。
(もうすっかり人間と同じように生活できてるな)
彼女の姿に、そう思って感心していると、ふと”あの時”の光景が脳裏に過る。
血だらけの大地、たくさんの遺体、腕の中で泣きじゃくる彼女。
顔を強く横に振って毛布をかぶる。
(もう、あんな思いはごめんだ。悪魔なんて、天使なんて……神なんて、信じるもんか)
しかし、寝ようと目を閉じた矢先、窓を叩く音に邪魔された。
勢いよく起きて窓を見ると、そこにはベルゼブブの姿があった。
「おまっ! 何でここに!?」
「前からお前の家は把握している」
「そ、そうじゃなくて、何の用だ! 今日は休みたいんだが!?」
「話をしようと思ったが……まぁ、無理なら日を改めるか」
ベルゼブブは、アルマの様子を見ると、そう言って離れようとしたが。
「ワァ! ダ、レ!?」
エルの声で、アルマはハッと振り返った。
急いでエルに駆け寄り、ベルゼブブから庇うように抱きしめる。その様子にベルゼブブは目を細めた。
「お前が聖職者を辞した理由は、その娘か」
キッとアルマの目に鋭く睨まれる。
ベルゼブブは、変わらぬ口調で言った。
「安心しろ。その娘をどうにかしようなんて考えておらん。手を出すつもりはない」
「本当にか?」
「ガブリエルに誓って」
「何でガブなんだよ」
「私の誓う相手なんて、奴だけで充分だ」
疑心暗鬼になりながらも、アルマはエルから離れると、窓を開けて彼女を招き入れた。
ベルゼブブは、そのまま窓辺に腰を下ろす。
ふと、今更ながらアルマは気づく。
「エル、こいつが見えるの?」
アルマの質問に彼女は、不思議そうに首を傾げた後、大きく頷いた。
「特殊な存在として生み出された娘なんだな」
ベルゼブブの言葉に、ぐっと下唇を噛むアルマは、エルの頭を撫でながら語った。
「……この子は、悪魔崇拝者と聖職者が生み出した、半神魔だ」
「神魔と言えば、悪魔が創り出した魔物か。私には関係のない話だが。しかし、聖職者が生み出しただと? てっきり悪魔崇拝者の被造物かと思ったが」
「聖職者の一部の連中が、悪魔崇拝者と手を組んで、死んだ人間を元に造ったんだ」
ベルゼブブの目が細められる。
「まさか、神の加護と、悪魔の力の双方を用いて生み出したと?」
「そうだ。この子は相反する二つの力を注ぎこまれて生まれた、半神魔なんだ」
はっきりと答えるアルマに、ベルゼブブはため息をついた。
「馬鹿げている」
「本当にな。こんなことして、神が許すのかって思ったよ。でも、神は奴らを罰してはくれなかった。どんなに祈っても、助ける方法なんて――なかった」
ぎゅう、とエルを強く抱きしめる。
「この子だけなんだ。助けられたのは。他の子達は、ダメだったんだ。もう悪魔崇拝者達の言う通りにしか動かなくて、殺さないといけなかった」
「そうか」
「信じられなかったよ。まさか、聖職者が関わってたなんて。でもあいつらは、金欲しさに神の力を悪魔崇拝者どもに売ったんだ。あんな、欲丸出しな連中に、何で神は力を与えたんだ……!!」
苦しげに叫ぶアルマを、エルは心配そうに撫でる。
アルマには、それが居たたまれなかった。
「この子だけでも守りたくて、私は聖職者を辞めたんだ。できれば、この子には幸せになって欲しい。人間扱いされなかった分……生きられなかった他の子達の分……私の勝手かもしれないけど、そうでもしないと、心が壊れそうだった」
「……なるほど」
ベルゼブブは窓から室内に入り込んだ。
そして、エルの前でしゃがみ込み、ふわりと笑った。とても悪魔が見せるような顔ではなかった。
「お前、名前は?」
「エ、ル」
「そうか、エルというのか。言葉も上手に話せているな」
「ウ、ン! ネー、サン、オカゲ!」
「そうか。お前は頑張り屋なのだな」
ベルゼブブは、躊躇うことなくエルの頭を撫でた。
エルは嬉しそうに撫でられていたが、その光景にアルマは呆気に取られていた。
「あんた、本当に悪魔なのか」
「言っただろう、お前は何も知らないのだ。悪魔に関しても、天使に関しても……神の事は、どうでもよいが」
「……エルを、拒絶したりしないのか?」
「人間の愚かさには呆れるがな」
ベルゼブブは離れて、再び窓に向かった。
「私は人間が何をしようと別にどうでもいい。他の悪魔連中が人間を憎もうが殺そうが、私には関係ない。しかし、命を冒涜することは、誰よりも嫌っている」
「……なぁ、あの惨状は、神が望んだことなのか?」
思ったことを、尋ねる。
あの時、あの場所で、神にぶつけた言葉を、今度は彼女に問う。
しかし返答は、意外なものだった。
「そんなこと、人間が勝手に思って決めつけているだけだろう。責任を力ある者に転嫁してどうする」
ふわりと彼女は外へ出た。
「少なくとも私は、神は冒涜を受け続けている、としか思っていないがな」
それだけ言って、ベルゼブブは姿を消した。窓が勝手に閉ざされる。
アルマは、それを見送る事しかできないまま唖然としていた。
一体、何が真実だというのだろうか。戸惑うばかりだった。
廃教会の椅子に座り、両手を重ね合わせ、祈りを捧げるガブリエル。
その背後から忍び寄るのは、黒い影。
ガブリエルは気配を感じて、祈りを止めた。
「私を捕まえたいのか?」
問いに返ってきたのは低い声。
「まさか、ガブリエルが地上に来るなんて、神は何を考えている」
言葉と共に黒い影から姿を現したのは、長い白髪の美しい男。黒い衣服で身を覆う姿は、まるで王様のようだった。
ガブリエルの後ろに来て、ワインレッドの瞳でその背を見つめる。
「どうしてお前ひとりなんだ? 他の天使達はいないのかい?」
「今回は私の意志だ。神にはまだ、伝えていない」
「どういうことだ?」
ガブリエルは立ち上がって、男を見た。心配そうに見つめてくる男に、ガブリエルは微笑む。
「あの子を、サタンをもう一度封じ込めるために」
「……そのために、自らの意志で降りてきたと? なんて無茶なことを」
男は顔を歪めたが、ガブリエルは首を横に振った。
「神はもうお気づきだろうが、神が、あの子を封じ込める時、どれだけの力がかかると思う? きっと人間達にも害を成すことになるだろう。そうなる前に、私があの子を抑え込まなくては」
「それはわかるよ、ガブリエル。けれど、無理に動けば……君の霊体は、消えてしまうかもしれないんだよ。私達に、それは耐え難い」
心の底から心配する声に、ガブリエルは申し訳なさそうに顔を伏せた。
「人間の事なんて放っておいていいんだよ」
しかし、彼にそう言われれば、決意の籠った目を向けた。
「それはできない。私とて人間を愛しているのだから」
男の顔に影が射す。
「苦しいよ」
「え?」
突然、強く抱き寄せられる。その力に、ガブリエルは思わず顔をしかめたが、男は構わずガブリエルの身体を抱きしめた。
「お前が人間を愛し続けていることが、苦しい。私はこんなにも、お前を愛しているのに」
「ル……」
「お願いだよ、私を愛してくれ。人間を見捨て、私だけを見てくれ。そうしたら私は――」
「ルシファー!!」
ドンっと手で押して跳ねのける。ガブリエルは苦しげに顔を歪めながら横に振った。
「私は、神の使徒……神の掟に逆らいはしない」
「……ならば、お前を堕としてみせる。絶対に。私の元に――」
それだけ呟いて、男は影となり、消えて行った。
ガブリエルは、その場に座り込んで顔を覆った。すすり泣きが漏れる。
「なんで、どうして……子供たち……」
どうしてこうなってしまったのか。
彼の言葉は、風にかき消される。
酒場に入ると、まず聞こえてきたのは怒鳴り声だった。
「あの悪魔はやべぇよ! 俺達でも無理だ!」
アルマは驚いて声の方へと顔を向ける。カウンターに、数人のエクソシストたちが集まってジーゴに詰め寄っていた。ジーゴは腕を組んだまま無表情だ。
「もう五人も殺されてるんだ!」
「俺達全員でかかっても傷一つ与えられなかったんだ、聖武器も効かなかった!」
「あんな奴、どうやって倒せっていうんだよ!」
アルマは人混みに割って入った。
「一体、どうしたんだ?」
「アルマ、聞いてくれよ! でっけぇ悪魔に出くわしたんだ! しかも憑依とかじゃなくて、顕在化した悪魔だ!」
え、と驚いていると、ジーゴが話を続ける。
「昨日、お前が休んでいる間に、クラウンから情報が来てな。悪魔崇拝者連中が何か儀式を行ったらしい。それを止めに行ったはいいが、どうやら悪魔召喚は成功しちまったようだ。しかも、その召喚された悪魔がやたらと強いらしくてな。こちらの攻撃も当たらねぇし、効かねぇっていう」
「武器が通用しないってことか……」
「それでいて、名前もあったらしいが……なんていった?」
ジーゴが、錯乱しているエクソシストに聞くと、彼は汗を拭って答えた。
「なんか、シトリーって名乗っていたぞ。豹の顔して、羽を生やした人型の悪魔だった」
「シトリー……」
「そんなおっかねぇ奴が、今も廃墟都市を徘徊している。エクソシストに倒せなきゃ聖職者を呼んだ方が手っ取り早いが……」
聖職者、という単語に一同は顔を歪める。ここにいる全員、聖職者を嫌っているのだ。
しかし、アルマは少し考えた後、ジーゴに聞いた。
「都市の中は、どうなってる?」
「あぁ、下っ端悪魔どもが前より好き勝手に暴れている。今や5人に1人が悪魔に憑りつかれている状態だ。このままほっといたら、街中みんな悪魔の餌食になっちまう」
「だったら……とりあえず、そのシトリーって奴は放っておいて、下っ端悪魔を優先的に叩いたらどうだ? どのみち、敵わない相手と無理して戦っても危険なだけだし」
アルマの言い分に、他のエクソシスト達が冷静さを取り戻す。各々のやり方や目標が定まって、意気揚々とした空気に変わり始めた。
ジーゴはため息をついて不満を垂れた。
「また金が減っちまうぜ」
アルマは次いで尋ねる。
「ジーゴ、シトリーはどこを徘徊してるか、わかるか?」
「あ? 西の孤児院らへんと聞いたが……おい、まさか行く気じゃねぇだろうな?」
「さすがに一人じゃ突っ込まない。聞いただけ」
沸き立つエクソシスト達に背を向けて、アルマは酒場を後にした。
「そんなヤバい所、行ったらこっちが危ないっての」
「シトリーか。そいつも、ゲーティアの悪魔だな」
廃教会の中で、アルマはベルゼブブと話していた。
ガブリエルは椅子に座ったまま、心配そうに顔を俯かせる。
「悪魔召喚……プルソンが言ってた。サタンを復活させるために手を貸すと」
「もしかしたら、サタンの封印を解こうとしているのは悪魔崇拝者かもしれんな」
やれやれ、とベルゼブブは、腕組みしながら、近場の壊れた柱に寄りかかった。
タバコの煙を吐き出しながら、アルマは続ける。
「ゲーティアの悪魔って、72体いるんだよな」
「確かにいる。が、数より力だ。あいつらは私より格下だが、召喚されれば、召喚者の言う通りに行動はする――その者の命を代償にな。それが奴らの契約方法というわけだ」
「サタンの封印って言っても、そう簡単に解かれることはないだろう?」
「無論。しかし、その封印の解き方を理解できる悪魔を召喚できれば、話は早い」
ベルゼブブの髪から蝶が一羽、現れてどこかへと飛んでいった。
「悪魔召喚の方法が正しくとも、悪魔達は気まぐれだ。望んでいた悪魔とは違う奴が召喚される場合もある。恐らく、悪魔崇拝者はそれを承知の上で、望む悪魔が出るまで召喚を繰り返すつもりなんだろう」
「くそっ、身勝手な連中め……!」
アルマは苛立ちを隠せず、拳を椅子に叩きつける。乾いた音に、ガブリエルが心配そうに顔を向けるが、ベルゼブブはきっぱりと言い放った。
「問題ない。お前が戦えばいいだけの話だ」
「は?」
「お前は、昨日プルソンを地獄に送り返した。上出来だ。同じように、シトリーとも戦えるだろう」
他人事のような言い方に、アルマは椅子から立ち上がる。
「待てよ。あんたは戦わないのか」
「契約で言ったはずだ。お前はサタンと対峙するようにと。私達は力を貸すだけだ」
「なんで私がそこまでしなきゃならない!!」
「生きる事を代償に私達と契約したからだ。それ以外の理由などない」
はっきりとそう告げられ、アルマは頭を抱えた。
「どうして私なんだ……」
「確かに、下っ端は私が倒してもいいが、こちらとしては理由もなく同胞と戦う気もない。お前を間に挟んだ方が気が楽でな」
「結局は、お前の自己満足じゃないか!」
「忘れたのか? 私とて悪魔だぞ」
悪びれもしない悪魔の姿に、苛立ちが募るも返す言葉がない。
「まぁ、ガブリエルとも契約したお陰で、お前はまだまもとでいられるのだ。ガブリエルには感謝すべきだ」
「なんで」
「私だけで契約すれば――その精神、消えていたぞ」
ベルゼブブは、アルマを指差して告げる。
「私は地獄の王ベルゼブブ。この私の強大な力を得て、まともでいられると思うな。私に憑依された時、感じただろう。快楽、喜悦、高揚感を。それだけで済んだのもガブリエルがいたおかげだ。もしいなければ……お前は欲望のままに人間すら手にかけていただろう」
ごくり、と息を飲んだ。あの時、味わった感覚が、危険だったことを思い知らされてぞっとした。
「だから、ガブリエルと共に契約したのだ。お前の精神を守るためにな」
「どうして、そこまでして……私はあんたに、何かしたわけじゃないんだぞ」
「そこは求めていない。ただ、ガブリエルに力を使わせたくなかったから共に契約しただけだ。それ以上は聞くな」
天使と人間の為に動く悪魔なんて、本当に変わっている。アルマは彼女にそんな印象を抱いた。
その隣で、ガブリエルが小さく笑う。
「本当はいい子なのに」
「喧しい。いい子だなんて言葉、二度と使うな」
「ふふっ」
不満げに眉間に皺を寄せるベルゼブブに、優しく笑うガブリエル。その様子は、まるで親しい家族のようでさえあって、アルマはますます呆気に取られた。
しかし、そこでベルゼブブは何か考えた後、「そうだな」と話を続けた。
「見返りが欲しいわけではないが、もし、お前が問題ないと言うならば……料理をさせてほしい」
「は?」
驚きの目でベルゼブブを見る。それはガブリエルも同じだった。
ベルゼブブは少し、目を逸らす。
「料理というものに興味がある。作ってみたいものがある。それだけだ」
「い、いいけど……そういうのに興味あるの?」
「悪いか?」
「え、いや……なんか、変な感じだ」
アルマは頭を掻いた。あまりに予想外の提案に、先程の苛立ちもどこかへ行ってしまった。
「悪魔って、悪い奴らだよな?」
「当たり前だろう」
「でも、あんたはなんか……近すぎて、怖い」
「それも正しい感覚だ」
ベルゼブブはそっぽを向いているものの、その顔は薄く笑っている。
ガブリエルも笑顔ではあったが、その目はどこか悲しげだった。
アルマは、二人の笑顔を交互に見て、天使って、悪魔って、何なんだろう、と思った。