灰の境界線~第八話~
トルソはイライラしながら都市内を歩いていた。
先日の悪魔との戦いが、今も鮮明に記憶に残っている。あの悪魔の言葉が、頭にこびりついて離れない。
酒場に向かう最中、横から悪魔に憑りつかれた人間が襲い掛かる。瞬時に剣を抜き、いとも簡単に切り捨てる。どさり、と倒れる人間。それを横目で一瞥して、舌打ちした。
苛立ちが募る。下っ端はこうも簡単に倒せるのに、上位の悪魔には手も足も出なかった。
「ふざけやがって」
馬鹿にされた気分だった。
トルソは乱暴に酒場の扉を開けた。しかし、いつもの喧噪はそこにはなかった。
明らかに、たむろするエクソシストの数が少ない。しかも、今いる数人ですら、顔を沈めてろくに会話もしていない。
それに眉を顰めながらも、トルソはカウンターへ向かった。
「おっさん、仕事ない?」
ジーゴは呆れながら肩を竦めた。
「今日は、それどころじゃねぇ」
「なんだよ。仕事無いなんてことはないだろ?」
「また悪魔召喚だ。上位の悪魔が数十人のエクソシストを殺しやがった。お陰で、商売が上がったりだ。こっちの数が減ったせいで、下位の悪魔の数も増えてやがる」
「上位の悪魔……」
ボティスを思い出す。まさか奴が、と考える。
続けてジーゴは言った。
「それに最近、クラウンが来ない。あいつも殺されたかもしれねぇな」
「え、マジか……それじゃ、情報が入らないじゃないか」
「そうだ。というか、お前、最近アルマを見たか?」
言われてトルソは、アルマと最後に会った日が一週間も前であったことを思い出す。顔を横に振ると、ジーゴは残念そうに「そうか」とため息をついた。
「あいつも酒場にも来やしねぇ。もしかしたら、あいつも……」
「馬鹿言うな、アルマだぞ!? あたしよりも悪魔狩りに長けてるあいつが、そう簡単にくたばるわけないだろ!」
思わず怒鳴ってカウンターを叩くも、沈んだ酒場の中には、応える者は誰もいない。
トルソの中に、言い知れない不安が沸き上がり、たまらず駆け出した。
酒場を飛び出したトルソの背に、ジーゴは「だといいが」とだけ呟いた。
トルソはアルマの家に向かった。何事もなければ家にいるはずだ。
エルもいるし、天使と悪魔の件もある。
きっと外に出てないだけのはずだ。そう思いながら走り続け、角を曲がる。そして、驚愕する。
アルマの部屋があるマンションの上部が、まるで切り取られたかのように破壊されていた。血の気が引く。
トルソは、階段を駆け上がり、瓦礫と化したアルマの部屋へと踏み入った。共に会話したリビングも、エルが立っていたキッチンも、なけなしの浴室も、何もかもが粉々に破壊されている。
強い不安感に駆られ、息が荒くなる。
冷静になれ、と頭の中で言い聞かせながら、もう一度辺りを見渡した。破壊されてはいるが、血の跡はない。
とすれば、アルマがここで戦ったわけではなさそうだ。
「どこにいやがるんだ……」
ボティスの言葉を思い出す。「こいつではない」と言っていた。
だとすれば、狙いはアルマなのだろうか。
「ちくしょう!」
トルソは部屋を飛び出した。階段を駆け下り、マンションを後にする。
その彼女の前に、一人の女が現れる。薄桃色の髪をした妖艶な女だ。
途端に、眼帯の下が激しく痛んだ。トルソは、顔を歪めて剣を抜いた。
「てめぇ、悪魔だな?」
女は頬に手を寄せながらクスクス、と笑った。
「貴女、何年経っても可愛いままね。私があげた呪いとは仲良くしてる?」
ざわ、と全身に鳥肌が立つ。
かつて、この目を抉り、呪いを与えてきた悪魔――そいつは、薄桃色の髪をしていたはずだ。
思い出すと同時に、トルソは雄叫びを上げて女に斬りかかった。
女は避けることなく、剣は彼女を真っ二つに斬り裂いた。直後、女の身体が桃色の粉になって霧散し、辺りに広がった。
それを吸い込んでしまったトルソは、全身を襲う刺激に顔を歪めて吐いた。身体が言うことを聞かなくなり、そのまま倒れ込んでしまう。
「思い出してもらえて嬉しいわ」
仰向けに倒れたトルソの視界に、女の顔が現れる。
「でも、ちょっと不便でしょう? 悪魔や天使に出会うと痛むだけ。その姿も視る事ができないなんて……ね、もう少し便利にしてあげる」
女の両手が包むようにトルソの頭に触れる。激痛が走る。
「ぐあぁっ!」
「ああ、ごめんなさいね。乱暴したいわけじゃないの。壊れかけのお人形、大事にしたい気持ち、わかるでしょう?」
よしよし、と頬を撫でるが、トルソにとっては苦痛でしかなかった。
「だから、その痛み、取ってあげる」
自身を苛んでいた痛みが、急激に引いていき楽になる。
「痛覚を遮断してあげたわ。これで、痛みも何も感じない……それと、私からのプレゼントよ」
女がトルソの眼帯に触れる。じわり、と何か熱のようなものが沁み込むのを感じる。
「これで、貴女はもっと強くなる。上位の悪魔なんて相手にならないくらい――天使だって殺せる」
うっとりとした紅の瞳が、トルソを映す。
「貴女の本当の味方は私だけ。貴女の苦しみなんて、人間にわかるわけないわ。貴女はもう、私の可愛いお人形さんなのよ。だから、私の思うがまま」
頬にキスをする。それは、呪いの口づけだ。
「だから、嫌いになった相手はみーんな、殺してしまいましょう」
手が離される。
トルソの目が、眠たげに閉じられようとしていた。その、とろんとした表情を見て女はクスクスと笑った。
「契約してあげられたらよかったんだけど、そうしたら貴女の精神がもたないものね……だから、私は与えるだけ」
女が踵を返し、その場を立ち去ろうとする。
「ま、て……よ」
聞こえた声に、女は驚いて振り返った。震える手でこちらに手を伸ばすトルソの姿があった。
「凄ぉい! まだ意識を保てるなんて!」
「あたし、は……てめぇらの思い通りには、ならねぇ……!」
途切れそうな意識を、ギリギリのところでどうにか繋いで、動かない身体で懸命にくってかかろうとする。その姿を、女はうっとりと見つめた。
「あぁ、素敵。やっぱり、貴女を殺さなくてよかったわ。強い女の子はみんな可愛いもの。でも無理しなくていいのよ。どうせ、またすぐ会えるんだから」
「おい……!」
トルソの視界が霞む。ぼやけた景色の中で、女の姿が霧になって消えていく。
『その呪いは、決して貴女を逃さない。お人形に感情なんて、いらないでしょう?』
クスクスと嗤う声が響く。
それを最後に、トルソの意識は途切れた。
ドサリと音を立ててクラウンの身体が床に転がる。
ベルゼブブが呆れた様子で見下ろす。
「姿勢が悪い。もう一度」
「だか、ら……戦いとか、慣れてねぇって、言ってるだろ!」
クラウンはよろよろと立ち上がり、息を整えると、拳を振り上げベルゼブブに向かって行った。
ベルゼブブが、早速やると決めたため、クラウンはほぼ無理矢理、鍛錬をさせられている。彼は文句を言いながら、何度も向かっていく。そして、その度に叩きのめされて、床に伏している。
その様子を、離れた場所で見ていたアルマは、何とも言えない気持ちでいた。
彼女の横では、ガブリエルがエルに言葉の発音を教えている。
ガブリエルは、練習を区切るとアルマに声をかけた。
「心配か?」
「そういうわけじゃないけど……なんていうか、あいつも苦労してんだなって」
「そうだな、彼も、望んで契約したわけではないから」
ガブリエルが目を伏せる。
「君との契約も、本当は、とても申し訳なく思っている」
「私のことは、もういいよ。生きたいって思ったのは本心だったし。それに……なんか、最近、変な感じなんだ」
また転がされるクラウン。その光景が、懐かしくてつい笑みが零れる。
自分にも、昔、鍛錬の場でああやって転がされた過去がある。
「私は、悪魔と天使のことを、わかってなかったのかもしれない」
「そうか」
「でも、やっぱり、神のことは未だに理解できない。どうしても……無理だ」
そんなアルマの言葉を、ガブリエルは悲しげな顔で聞いていた。
「がぶ、ちゃ」
「なぁに?」
エルに名前を呼ばれると、ガブリエルはすぐに微笑み返して答える。
その顔を、親が子に向けるようだと、傍目で見ていたアルマは思った。
エルは、嬉しそうな笑顔と共に、ガブリエルの手を握った。
「うた、イたい!」
「いいよ。一緒に歌おうか」
それを聞いたベルゼブブが、クラウンを投げ飛ばしてから言った。
「天使の歌声は私には毒だ。少し外に出てくる」
「た、すかったぁ」
クラウンは、ようやく解放されると言わんばかりに大の字で寝転がった。
外へ向かうベルゼブブの後ろ姿を、ガブリエルは悲しく見つめた。
「ベルって、本当に変な悪魔だよな」
「あの子は、他の悪魔と違って嘘はつかない……誰よりも、正直な悪魔だよ」
アルマの呟きに、ガブリエルはそう言うと、微笑み顔に戻ってエルを見た。
「歌おうか」
エルが頷き、歌い始める。彼女が得意な聖歌だ。
ガブリエルと言葉の練習をしたお陰か、以前にも増して美しい。
重ねるように、ガブリエルが歌い出す。優しい歌声が、心地よく響く。
アルマは、目を閉じてその歌声を聞いていたが、やがて、自分でも気づかぬうちに、口を開き、歌っていた。それも、二人とは違う、低い旋律を。
ガブリエルは驚いて歌を止めたが、気付かず歌い続けるエルの声と、アルマの声は綺麗なハーモニーを奏でていた。
クラウンも、その様子に黙って聞き入った。
やがて、歌は終わりを迎え、余韻を残しながら消えていく。
アルマは、どこかうっとりと余韻に浸っていたが、急にハッと我に返ると。驚いた目でガブリエルを見る。彼もまだ驚いた顔のままだった。
「お前、歌……」
クラウンが言い終わらないうちに、アルマは「二階で休む!」と叫んで、階段を駆け上がった。手で覆った顔は、赤かった。
その様子に、ガブリエルの顔が、またあの悲しげな微笑みに変わる。
「そうか、そうだったのか……」
クラウンとエルは、理解できずにに首を傾げた。
当のアルマは、ベッドに突っ伏して後悔していた。
「聖歌なんて……もう二度と歌わないって決めたのに……」
何故か、二人の歌声に、歌声の満ちる部屋の空気に、つられてしまった。
聖歌は、聖職者だった時代によく歌った。未だに覚えているのは、歌うことが好きだったからだ。
それも、聖職者を辞めた時に決別したはずだった。
それなのに、久しぶりに誰かと歌うことは、楽しかった。そう思ってしまった。それが、たまらず悔しかった。
モヤモヤした気持ちで、枕に頭を埋めていると、扉がノックされた。起き上がると、ガブリエルの声がした。
「辛くなったか?」
部屋には入ってこない。こちらの気持ちを理解しているのだろう。
アルマは、おずおずと扉に近づいて、背中で寄りかかった。
「別に……ただ、楽しかった」
「そうか。なら、よかった」
安堵の声に、思わず問いかける。
「天使って、神の言うことを聞いて行動するんだろう?」
「そうだな。私達はそういう存在だ」
「でも、あんたは自分の意志でここに来たって言ってたよな……神に、怒られないのか?」
ややあって、返って来た言葉は。
「心配しなくてもいいんだよ」
「でも、あんた優しいから。なんか、怒られることも、甘んじて受け入れそうで……」
「ありがとう。私は、大丈夫」
アルマは、思わず顔をしかめた。
「なぁ、あんたは、どうして人間のためにそこまでできるんだ?」
「人間が、大好きだからだよ。だから、私は、私の意志でここにいる」
アルマは扉を開け放つと、ガブリエルを抱き締めた。
アルマの中に、彼に対する言い知れない気持ちが生まれていた。
どこまでも優しい彼に、彼の優しさに、どうやって応えればいいのだろう。そう思ったら、いつの間にか彼を抱き締めていた。
ガブリエルは驚いて、それから、すぐに優しく彼女を抱き返した。
「優しい子。お前の気持ちは、よくわかっているよ。ありがとう」
天使なんて、どうでもいいと思っていたはずだ。けれど、どうしてか、彼のことは心配になってしまう。
そこへ、「おい」と低い声が響き、アルマは我に返って身を離した。
「お前、いつの間にガブリエルに心開いた?」
声のした方にはベルゼブブが、不機嫌そうな顔で立ってた。
「まぁ、いい。クラウンに武器を持たせたいのだが、この付近に武器屋はあるか?」
椅子に座っていたクラウンが、不意を打たれたように「えっ」と声を上げた。
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