灰の境界線~第二話~
目が覚めれば、廃教会の中で寝そべっていた。
慌てて身体を起こし、腹に触る。離れていたはずの胴体は何事もなかったかのようにくっついている。
が、裂かれた感触が思い出され、アルマはその場で吐いた。
「仕方ない。契約直後で気も振れていることだろう。ましてや、天使と悪魔、同時に契約をすればな」
声に振り返れば、そこには椅子に座って悲しげに顔を逸らす大天使と、見知らぬ銀髪の美しい女が立っていた。
「あ、あんたは……」
えづきながらでは、そう言って睨むのが精いっぱいだった。
女は余裕のある仕草でガブリエルの隣に座った。
「自己紹介が遅れたな。私の名は……そうだな、お前たち人間が言う『ベルゼブブ』だ」
「な、七大罪の……【暴食】!?」
「ああ、そういう異名も付けられていたな。まぁそれはいい」
驚愕に目を見開くアルマに対し、ベルゼブブを名乗った女は平然としている。その顔を緩く笑ませて彼女は言う。
「おめでとう。貴様は晴れて我々の契約者だ」
意識を失う前の事を思い出す。そして、この女の言葉を思い出し、顔を青くした。
「あ、悪魔とも天使とも契約って……!」
「そのままの意味だ。お前は生きるために、我々と契約をした」
「何でそんなことした!? 私は、どっちも味方なんかする気はない!! というか、お前らは敵対してるんだろ!? 何でそんなに近い!?」
アルマは、ひとしきり思ったことをぶちまけた。
ベルゼブブは、ガブリエルを見ながらため息をついた。
「この者は、天使達の中でも特別でな。私は天使と戦うつもりはないし、興味もない」
「だ、だとしてもおかしいだろ!? 何で一緒にいられるんだ!?」
「悪魔と天使が共に居てはおかしいと? それはお前達、人間の偏見だろう」
ベルゼブブは足を組み直すと、真っ赤な瞳でアルマを見据えた。
「お前は望んだんだ。生きることを。しかし、サタンの呪いを受けては、簡単に生き残れると思うな。奴の呪いは我々七大罪の中でも最強格だ。対抗するには、天使と悪魔の加護、その両方が必要になる。となれば、契約する以外方法はない」
「だとしても……!!」
「諦めろ。お前はもう、我々を受け入れたのだ」
アルマは絶望した。この世の終わりだとすら思った。
そんな彼女の姿に、ガブリエルが涙を零す。
「すまない……お前を助けるには、この方法しかなかった」
「あぁー……いいよ、わかったよ……」
そう泣かれては居たたまれなくなり、アルマはようよう状況を受け入れる。そして、彼の隣を睨む。
「けど、納得がいかない。大悪魔ともあろう者が、何で私を助けた? お前は、人間が嫌いじゃないのか?」
「別に。私は人間が嫌いで悪魔になったわけじゃない」
「はぁ?」
「敵意を向けられれば反撃もしよう。だが、関心もない者に、わざわざ関わってやる道理はない」
思わぬ返答に、素っ頓狂な声が出た。
悪魔は人間が嫌いで、だから、あの手この手で引き込もうと悪さを働くものだ。それが、アルマの中での常識だった。
「……へ、変な悪魔もいるんだな」
「お前が知らないだけだ。悪魔に関しても、天使に関しても、な」
ベルゼブブは平気な顔で椅子から立ち上がると、アルマの前に立った。
「契約者、名を」
アルマは諦めて名乗った。
「……アルマ」
「そうか。我々の名前は呼びにくいだろう。ベルでいいぞ」
「私の事もガブでいい」
便乗するようにガブリエルが言う。
妙な心地だった。何で天使と悪魔がこんなに馴れ馴れしいんだ、と思う。
ガブリエルは、アルマの前に来ると、視線を合わせるように座った。
「私たちと契約したことで、より天使と悪魔がはっきり見える様になるだろう。その時は、私達が力を貸す」
「契約したからには、好きなように命じればいい。お前が望むのならば姿を消すこともできるし、顕現もする」
一呼吸置いて、アルマは言った。
「……とりあえず、今は、一人にしてくれ」
「いいだろう」
「わかった」
言われた通り、二人の姿が消えた。
アルマは頭を抱え、ぐしゃぐしゃと搔くと、立ち上がった。気分は悪いが、先程吐いた分、幾分かマシになった。
よろよろと、アルマは家路に着いた。
アルマが向かったのは古びたマンションだ。外装はところどころ剥げ、内装が見えている部分もある。
階段を上り、3階まで向かう。並んだ扉の中、一つだけ小奇麗な扉があり、それを開ける。
中は綺麗に整頓されている。家具は壊れているものも多いが。
その部屋の奥から、ひょっこりと顔を覗かせる金髪の少女がいた。アルマの姿を見るや、嬉しそうに駆け寄った。
「オ、カエリ!」
ぎゅっと抱き着いてくる彼女に、アルマはようやく緊張の糸が解けて、表情を緩める。
「ただいま、エル。お留守番、ありがとう」
ぴょこぴょこと動く、猫のような獣の耳がついた彼女の頭を撫でる。
しかし、エルと呼ばれた少女は、何かを察したのか、顔を上げてアルマの目を見る。
「ツ、カレ、テル?」
「……うん、疲れた」
「ゴ、ハン、アルヨ!」
「作ってくれたの? ありがとう、でも先に風呂に入りたいかな」
「ワ、カッタ!」
そう答えて、彼女は駆け出す。浴槽に向かったのだろう。アルマは見送りながらリビングに向かい、ボロボロのソファにドッと腰を下ろした。深いため息をつき、頭を背もたれに乗せる。
今日の出来事を思い出しても、混乱するばかりだった。
不意に、ノックの音が聞こえた。慌てて身体を起こすと、聞きなれた声がした。
「あたしだ。アルマ、いるか?」
「トルソ?」
扉を開けると、トルソが立っていた。笑みを浮かべて、上げた片手には酒瓶が握られている。
「ちょっと、様子が気になって来たんだが……って酷い顔だな、真っ青だぞ。何があった?」
「……トルソ、もう私、何を信じたらいいかわかんないよ」
純粋な心配の声に、アルマの口から嘆きが漏れる。
アルマは、彼女を招き入れると、事の顛末を語った。
トルソは最初こそ黙って聞いていたが、段々と顔を青くしていった。そして、全てを聞き終えると、片手で口を塞いだ。
「……マジか」
最初に出た言葉がそれだった。
信じられない内容ではあったが、他の誰でもないアルマが一番そう思っているだろうことは容易に想像がつくし、何より、それこそが全て事実であると物語っていた。
「もう、どうしたらいいか……」
「待て待て、それよりお前、体を裂かれたって、腹は大丈夫なのか? 傷跡残ってんのか?」
げんなりと頭を抱えるアルマに、トルソはお構いなしに腹部の裾を捲った。
腹回りを一周するように、線の傷痕が残っている。
「ほんとに、死にかけたんだな」
静かに呟くトルソに、アルマは頷くしかなかった。
だが、トルソは顔を上げたかと思えば、急にぱっと表情を輝かせた。
「いいじゃん! 契約だろうがなんだって、お前が生きてるならそれでいいよ! よかった、よかった!」
そうして、アルマをぎゅうっと抱き締めて、背を叩いた。
アルマは、目に熱いものが溜まるのを感じた。
その様子を、離れた場所で見ていたエルは心配そうにしていた。
トルソは、身を離すと、酒を開けて一口あおった。それから、改まった声で言う。
「天使と悪魔、双方との契約ってのは初めて聞いたな」
「そう、悪魔との契約なら悪魔崇拝者がやってるのは知っているけど……天使との契約なんて、聞いたことがない」
「だよな。ていうか、変わった悪魔もいるもんだな。人間を助けるなんて」
「私、死んだら魂、喰われんのかな……」
「天使がついてるなら、まぁ、多少は大丈夫なんじゃないか? それより気になんのは、サタンのことだ」
こくり、とアルマが頷く。
「サタンが封じられていたのは初耳だけど、まさか、こんな身近に現れるなんて」
「もしかしたら、悪魔達がやたらと活発だったのは、そのせいなんじゃ?」
「そうかもしれない。天使が降りてきたことより、サタンが復活したことで活発になった可能性も否めない」
「ま、それでもあたしらの仕事は変わらないけどな。悪魔を祓って、金をもらうだけ。サタンなんて、ついでと思えばいいさ」
確かに、トルソの言う通りだ。別に、ガブリエルの言葉に従う必要なんてない。自分達は自分達の事をするだけの話だ。彼女の言葉を頭の中で反芻して、アルマは、ようやく気持ちが落ち着いてくるのを実感した。
「でも、契約の事は他の連中には言うなよ。特に聖職者には。命を狙われる可能性もある」
「わかってるよ」
「ただでさえ、お前はエルの事も匿っているんだ。しばらくは、依頼もほどほどにな」
そう言うとトルソは、ずっと離れた場所からこちらを見ていたエルに、手招きをした。エルの顔が、ぱぁと笑顔に華やぐ。駆け寄ってきた彼女を、トルソは穏やかな表情で撫でた。
「何にせよ、どうなろうと、あたしはアルマの味方だからな。なんかあったら、話せよな」
「うん。ありがとう」
「そうだ、エル、なんか歌ってくれよ」
トルソに言われると、エルは嬉しそうに微笑み、歌い始めた。
拙い言葉遣いからは想像できない、美しい歌声が流れる。それは、聖職者達が歌う聖歌だった。
二人はエクソシストだが、彼女の歌う聖歌は、とても心地よく響き、穏やかな気持ちにさせてくれる。
エルの歌声が響く中、反対側の建物の屋根に、ガブリエルとベルゼブブが立っていた。窓から覗く三人の様子に、ガブリエルは優しく微笑む。
「あの歌のお陰で、あの部屋には悪魔が寄り付かないんだな」
対しベルゼブブの目は鋭い。
「まさか、あのような者がいるとは……あの娘が、神への信心を失くした理由が、少しわかった」
彼女は腕を組みながら、後ろへと目線を向ける。少し離れた場所では、相変わらず悪魔たちが好き勝手に人に憑いて悪さをしたり、欺いたりしていた。
その光景に彼女は深いため息をつく。
「しかし、お前が地上に降りてくるなど、無茶をする。神が嘆くぞ」
「それは……」
「まぁいい。私が傍にいれば他の悪魔がお前に寄り付くこともなかろう」
「そこまでしなくとも……」
「そこまでしないと、我々も気が気でないんだ。お前は、我々にとっても『大切』な存在なのだから……闇雲に力を使おうなどとは考えるな」
ガブリエルは、返す言葉が見つからず、黙るしかなかった。
「しかし、あの娘なら確かに何とかできそうだ。サタンが力を完全に取り戻す前に、早く見つけなくては」
「彼女には、負担をかけさせてしまうな」
「仕方ない。お前を視てしまった時点で、あの娘の運命は決まっていた。それだけのことだ」
「運命……」
呟いた直後、背後から悪魔達の囁き声がにじり寄ってきた。
ベルゼブブは顔を歪め、ガブリエルの手を掴んだ。
「教会に戻るぞ。あそこなら、お前の力も隠せるだろう」
二人はその場を去り、辺りは悪魔の囁き声で満たされていった。
聖歌が響く、あの部屋以外は。