父の灯すあかり
おいでませ。玻璃です。
只今、脳梗塞による右片麻痺と失語症の父を同居介護中。8年目になる。
父が元気な頃は、お酒にタバコにギャンブルと悪の揃い踏みだった。
お酒はビールが好きで昼間からよく飲んでいたし、タバコもヘビースモーカー。ギャンブルも父と言えばオートレースと誰もがいうほど若い頃からのめり込んでいた。
家では「The 昭和の父親」という感じで、座ったらビールとツマミが出てくるのが当たり前。
テレビのチャンネル権も父にあるので夏の間はいつもプロ野球中継。
おかげで私も野球のルールはしっかり覚えた。
姉さん女房の母に甘えがあるのか、我儘ですぐ怒鳴る。
私もよく怒られていた。
小さい頃から気が強い私は父に怒られても絶対に謝らなかったので、家の近くの漁港の海までズルズルと引きずって行かれて海に落とされそうになったこともしばしば。
そんな父との思い出として印象に強く残っている事。
「我が家は野次馬家族」
都会にいると救急車や消防車のサイレンは日常茶飯事で聞こえてくるので、ほぼ気にならない。
しかし田舎に住んでいると、夜の静かな空気の中を切り裂くような消防車のサイレンは珍しく「火事はどこだ!?」と大騒ぎだ。
各自自分の部屋にいても、サイレンが聞こえると、示し合わせたように茶の間に集まり、
「行くか?」
「車に乗れ!」
と、消防車のサイレンを追いかけて火事の現場を見に行く。
今思えば、被害に遭われた方にとても失礼な話だが、その当時は我が家のイベントのようになっていた。
父はいつも火事の現場に行って先頭で見ているので、消防団の方とも顔見知りになるという常連具合。
そんな父の現在大好きな番組は「警察24時」。どんなに大病をしても、野次馬根性だけは変わらないようだ。
私のわくわくポイントは、火事の現場を見るという事ではなかった。
現場の帰りに必ず寄る遅くまで営業している商店でお菓子を買ってもらえることだった。
この頃はコンビニなんてない時代。
夜にお菓子を買うというのは子供にとっては嬉しいイベントだった。
やりたい放題、好き放題やってきた父が生活習慣病で倒れたのも当然と言えば当然だが、我儘な父を介護するというのは私にとってはとても気の重い事だった。
それが病気をしてからの父は私たちに常に気を使って息を潜めるように暮らしている。
たくさんの言葉を話せない中で、私の事は「かあさん」夫の事は「とうさん」と呼ぶ。
私たちがいないと自分が生きていけないと感じているのだろうか。
「自分は何もできない。世話になりっぱなし」と小さくなっている父が唯一私にやってくれている事。
それは私が仕事から帰った時に暗くないようにリビングの電気をつけてくれる事。
障害のある身体の父にとっては、電気をつけるというのは簡単なことではなく、ベッドから起き上がり、車椅子に乗り換えて、リビングに行き電気をつける。
手間のかかる事だ。
でも、毎日電気をつけてくれる。
先日体調を崩していたのだが、それでも車椅子に乗り換えて電気をつけてくれていた。
そんな父の思いを受け止めて、今日も私は介護をする。
うちで介護をする事を勧めてくれた夫に感謝しながら。
ではまたお会いしましょう。