目玉焼きとウィンナーと
おいでませ。玻璃です。
郵便局の通帳残高がいつもより多くなっているのを確認し引き出す。
そのお金を手に駅に向かう。
いつも通学のために利用する駅だが、今日はなんだか輝いて見える。
もうすぐ冬休み。
母から東京までの新幹線代が入金された。
東京で父は心機一転、タイル工事の会社に入って職人として働いていた。
都会では現場が切れることはない。
もともと左官や板金など職人としての器用さがあり、タイル工事もすぐに覚えたし、都会での運転もトラック運転手をやっていた経験から難なくこなすことができた。
社長からは即戦力として認められていて、かなり重宝されていたようだ。
母は有名な某都市銀行の社員食堂の厨房に入社していた。
旅館を経営していたときに大人数の料理を板前さんとともにさばいていた経験から他のスタッフより群を抜いて仕事の段取りが良く、のちに厨房の主任になり、メニューを考えたり、仕入れのほうまでやっていた。
この時はまだ入社して間がなかったが、ちょうど頭角を現していた頃だった。
故郷を捨て再出発の両親。
電話で話には聞いていたが、本当に"大東京“でそんな生活ができているのだろうか?
半信半疑で私は東京まで片道5時間余りの新幹線の旅をしていた。
窓を流れていく風景を目で追いながら、停車駅に着いては発車し東京に近づくに連れて、だんだん厚着をしていた洋服を一枚ずつ脱ぐような感覚になる。自由な街へ向かう私の心が解き放たれていった。
夏休みに東京生活を一か月送った私は、電車の乗り方は問題なかったので、「東京駅まで迎えに行こうか?」といった母の申し出を断り、両親の住まいがある世田谷区の最寄り駅までひとりで向かった。
約4か月ぶりに会う母は、明るいオーラに包まれていてホッとした。
連れていかれたのは、古い少し傾いた平屋の狭い家だった。
「世田谷にもこんな家があるんだ」と驚いたくらい古い借家だった。
安い物件を姉が見つけてくれたのだろう。
中に入ると、狭いながらに母らしく小ざっぱりと片付けられていて、気持ちの良い空間だった。
お昼は新幹線でお弁当を食べたにもかかわらず、ホッとした私のお腹はグ~っと鳴り、母の味を求めているようだ。
「お母さん、お腹すいた。」
「あら、お弁当食べたんやないの?これから夜ご飯の買い物行くから何もないねぇ。」
と言って、中古で買ったのか小さな型おくれの冷蔵庫を開けて、母は中をのぞき込む。
「ウィンナーと卵しかないわ。」
「あ、それでええよ!目玉焼きとウィンナー焼いたやつが食べたい。」
萩にいる頃、お腹がすくと母が冷蔵庫をのぞき込み、よく作ってくれていたメニューだ。
狭いキッチンで母が焼くジュ~という音。
なんて心地いいのだろう。
運ばれてきた半熟の目玉焼きとパリッと焼けたウィンナーは以前のまま。
私が下宿でいつもこれを作っていたのは、母が恋しかったんだと実感した。
何てことないこのメニューが、私にとっては見知らぬシェフが作る高級レストランの料理よりうんと旨い。
そうしてこの後、父も帰宅し姉も仕事終わりに訪ねてきてくれて、楽しい夕食となった。
そのまま東京でのお正月を過ごし、私はまたあの下宿へ戻った。
寂しさもあるが、あと2か月ちょっとで高校を卒業。
そろそろ身の回りを片付けなくては。
高校生活もあとわずか…。
私のはぎいろに染まった記憶のカケラ集めももうすぐ終わる。
ではまたお会いしましょう。