認知症の叔母とのはじめての旅行:想像以上に疲労困憊で倒れるかもと思った話
認知症の叔母と、その姉の元気な叔母(数年前まで介護福祉士)、そしてわたしの父(自分の怒りがコントロールできずとても短気)を連れて、2泊3日の旅行をした。
後期高齢者3人を引き連れた旅行は、人生初、帰路にたどり着くまでに自分が倒れてしまうかもしれないと恐怖を感じた旅行となった。
叔母の認知症は軽度とは聞いていたが、これがもし本当に軽度だとしたら、わたしは確実に親を施設に入れる。
3日間しかお世話をしていないけれど、本当に疲労困憊した。3日目の帰路は心身ともに限界で、ひたすら自分の意識を保つことに集中しなければ倒れてしまうのではないかと思うほどだった。
叔母の認知症の症状は、精神状態が良いときと悪いときではっきりと差が出た。場所が変わったことによる症状の悪化はかなりひどく、介護士の叔母でさえ困惑していた。
まず、朝起きるたびにパニック。
初日は夜中1時間おきに徘徊したので、わたしはほとんど眠ることができなかった。
しかし、認知症の叔母の隣のベッドで眠っていた介護士の叔母は、全く起きることなく、ぐっすり眠っていた。「徘徊していたことさ気付かなかった」という。
元気な叔母でさえ、初日の時点ですでに心身ともに疲弊していたのだと思う。
通常の状態であれば、数分間は記憶が保持されるのだが、朝、パニックを起こすと記憶の保持が10秒もたず、数秒に1回のペースで同じ質問を繰り返す。
介護士の叔母と父は、次第にいらだち、「だぁ~かぁ~らぁ~、何回も言ってるでしょ!!」と口調がきつくなる。
すると、叔母はさらにパニックを起こし、泣き出す。
介護士の叔母でさえ(疲れていたせいもあると思うし、自分の妹だからというのもあるが)、いら立って声を荒げてしまう場面が旅行中何度かあった。
父は今回の旅行では基本的に叔母の世話はしていないので、関係ないのだが、叔母がパニックを起こすのを見たり、何度も同じことを言うのに嫌気が
さして、「俺はもう話したくない。関わりたくない。」と言い出す始末。
二人には事前に、「認知症は、怒ったり、大きな声を出したり、苛立った返答をすると、症状が悪化するから、『また同じことを言っている』と思っても、毎回優しく接してね」と伝えてあったのだが、実際、そういう場面に出くわすと、やはり自分の理性よりも感情が先に動いてしまうようで、なかなかコントロールが難しいようだった。
わたしは病気の人に苛立っても仕方がないと考えているので、叔母がパニックを起こして何度も同じ質問をしても感情的になることはなかった。
とにかくなだめることに必死だったし、苛立つ介護士の叔母と父を見て、逆に冷静になった部分もある。
叔母がパニックを起こしたときは、介護士の叔母と父には、少し離れてもらい、叔母のパニックが治まるまで、とにかく根気よく、同じ質問を繰り返す叔母に、ゆっくり同じ説明をする。
それを20分ほど繰り返していたら、徐々に落ち着いてきて、叔母が饒舌になる彼女の社長時代の苦労話に話題をもっていった。すると、次第に笑顔がこぼれるようになり、会社を経営する大変さや苦労話を語り始める。
そして記憶も数分間保持される状態に戻る。
認知症の人の精神状態がどれほど記憶力の保持に影響を与えるか身をもって学んだ。
叔母は認知症になってから、家で過ごすことが多くなり、次第に食が細くなっていった。夜もあまり眠れないようだと従兄からきていた。
ところが、今回の旅行では、最初こそ「食べたくない。お腹すいていない」と言っていたのに、徐々に食欲が増していき、2日目の夜には自分から「お腹がすいた」というようになった。
食欲も旺盛で、「美味しいね」とニコニコしながら毎食1人前をペロリと完食した。
また、宿でアロマオイルトリートメントを予約し、直前までぐずって行きたくないと言っていたのをなんとかなだめて連れていき(2時間くらい何度も同じやりとりを繰り返す。「アロマトリートメントってなに?」「それはね、、」って15回くらい説明した、、、。しまいに、父と叔母の口調がきつくなりはじめ、「行かない」の一点張り。)、受けてもらったら、それがとても気に入ったようで、しきりに「とーっても気持ちよかった。また受けたい。もう一泊したい。」とご満悦。
その夜は、22時から4時まで一度も起きることなく、起こしに行くまでぐっすり眠っていた。
「よく眠れた?」と聞いたら、「すっごくよく眠れた」と、昨日のようなパニックは起こさず、目覚めもとてもよかった。
そこまではよかったのだが、そこから朝のツアーに出かけるため、準備をしているとき、またしても父と介護士の叔母が彼女を急かしてしまったことで、パニックになり、泣き出す。
ツアーの時間が迫っているため、父と叔母はさらに口調がきつくなる。
もう本当にカオスで、再び二人にはちょっと離れてもらい、わたしが説得を試みる。前日同様もはや記憶は数秒しか維持されず、同じ質問を繰り返す。
前日よりもパニック度がひどいので、もうツアーはキャンセルしようかなと思ったのだが、父と介護士の叔母がこのツアーを楽しみにしていたので、判断にとても迷った。
徐々に落ち着いてきたので、出かけたのだが、集合場所でも父がまた急かすので、また逆戻り。
わたしのほうが父にキレはじめ、「お父さんだけ先に行けばいいでしょ!!」と声を荒げると、父が少し我に返る。
小学生の子供じゃあるまいし、義姉のパニック状態を見ても、自分の気持ちを優先する父にあきれてしまう。
なだめてすかして、少し落ち着いたので、叔母の若いときの話に話題を振ると、また叔母が饒舌になり始める。
叔母は若いころ嫁いだ先の家で本当に苦労をしたので、その話をすると饒舌に語りだすのだ。
記憶力の維持も元に戻り、無事にツアーを終えることができ、ほっとした。
2日目の夜、荷物の整理を終え、叔母とリビングで少し話をしていた隙に、自室で眠っていたはずの認知症の叔母がすべての荷物をひっくりかえしていた。
さすがに介護士の叔母も声を荒げた。
怒られて半べそをかいている叔母を、わたしがベッドに誘導する。
もはや、3才の子どもだ。
わたしも叔母も疲労がピーク。
叔母は自分でしっかり歩くことができるのに、なぜか歩けないふりをする。わたしか、介護士の叔母にべったりと寄りかかってひとりでは歩けないふりをするのだ。旅行中ずっとそうで、楽しいことがあるときだけ、すたすた歩いた。常に誰かに寄りかかられていると、ものすごく体力を消耗する。
そして、部屋で過ごすのがつまらなくなると、散歩に行きたがる。
散歩に行きたがるのだが、外に出るとすぐに「つまらない。もう歩けない」とダダをこねる。抱っこすることもできないので、なんとかなだめてすかして部屋まで戻る、の繰り返し。
すべてがこんな調子で、父は途中から一緒に歩くのを嫌がった。気持ちはわかる。
3日目の叔母は絶好調で、記憶を数十分保つことができていた。
帰り際には、「2泊3日なんて短かったね。すごく楽しかった。でも、みんなにわたしのせいで迷惑かけちゃった」というので、驚いた。
旅行前から見当識障害はかなりあったので、日にちや自分や周りのことを理解できることにわたしも介護士の叔母も驚いたのだ。
そして、これは介護士の叔母からあとから聞いたのだが、帰りのタクシーの中で叔母の見当識が正常になり、「この先症状が悪化したら自分は施設に入れられるのか、家で最後を迎えたいけれど、どうしたらいいのか。」と相談を受けたらしいのだ。
この3日間叔母と一緒に過ごして、叔母自身が自分のことをここまでしっかりと認識できている様子はまったくなかったので、介護士の叔母も非常に驚いたという。
「安心+安全+食事+睡眠+楽しい」の5つが揃うと、もしかしたら認知症の症状は好転することもあるのだろうか。
自然の中を散策し、動物と触れ合い、みんなで楽しく食事をして、アロマの香りでマッサージをしてもらい、ぐっすり眠る。
たしかに、こんな風に毎日を過ごすことができたら、認知症の人じゃなくても、病気が良くなるかもしれない。
ただ、周りのひとは本当に本当に疲弊する。何をするにも、叔母のことを第一に動かなければならないので、まったく計画通りにはいかない。予期せぬことが次々起きて、疲れている身体に鞭を打って、最善策をひねりだす。
何もしなかった父でさえ、本当に疲労困憊状態で、しまいには「こんな旅行こなければよかった」と私に愚痴る。疲弊している私に追い打ちをかけないでくれと静かに念じるが、自己中の父には届かず、ひたすら文句を言い続ける。ほんとうにまいる。
介護士の叔母がいうには、「おそらく、認知症の叔母の姿を自分の老後の姿と重ね合わせて、不安になったのではないか。わたし自身も今回の旅行でとても考えさせられるものがあった。最後にこうして旅行ができてよかったけれど、本当にせつなかった」と話してくれた。
たしかに、父と介護士の叔母にとっては自分たちの身にいつ起きてもおかしくない現実を目の当たりにしたのだろう。彼らにとってそれは、なんとなくわかっていたことだし、想像していたことではあったけれど、実際に、こうして目の前で元気だった妹の変わり果てた姿を見て、色々考えることがあったのかもしれない。
わたしはどうかというと、年齢的なこともあるけれど、とにかくお世話をすることに必死で、旅行中は自分のことや父の老後のことなど考える余裕はまったくなかった。とにかく叔母をなだめること、叔母が楽しく過ごせること、薬を飲み忘れないようにすること、ケガをさせないこと(これは他の二人にも注意を向ける必要があった)に必死の3日間だった。
わたしはもともと父と暮らす気はまったくないので、父と一緒に暮らして介護をするという選択肢は持ち合わせていない。もちろん、父が施設に行くのであればその事務手続きは他の兄弟と協力してやるし、ときどき様子を見に会いに行く。
自宅で可能なかぎり過ごしたいと父がいうのであれば、介護保険を使って可能な限り対応するし、経済的な余裕があるのであれば、実費も含めて検討する。
今回の旅行を振り返って、改めて介護することの大変さ・難しさを感じたし、わたしが父と同居して介護することはないとはっきりわかった。
それは、介護自体の大変さが身に染みたということもあるけれど、数年ぶりに3日間父と過ごして、やはりこの人は昔から変わらない、と失望したことが多かったからだ。
父とこれからも良好な関係を保つには、年に1度、数時間会って近況を報告しながら家族で楽しく食事をすること。これがベストなのだと結論付けた。
この先、叔母に会うことはおそらくない。
ここには書かないけれど、旅行中、従兄が約束を何度も破り、わたしたちの信頼を裏切ったことが原因だ。
父は激怒し、介護士の叔母はただ失望し、わたしはあきれていた。
叔母にとっては妹のことがあるので、今後も連絡を取るのかもしれないが、わたしはもう叔母の件からは手を引く。
従兄が最後まで誠意をもって対応してくれていたら、わたしは今後も叔母に会いに行ったと思う。けれど、もうそれはできない。
叔母には何の落ち度もないわけで、本当に心苦しく思うし、今後の叔母の進行を考えると切なくなるのだけれど、実権を握っているのは従兄なので、どうすることもできない。
従兄が他の親族に対しても今回と同様の対応をするのであれば、周りからの信頼は失われ、おそらくみんな離れていくと思う。
心身ともに疲労困憊した旅行ではあったけれど、子どもの頃からお世話になっていた叔母が何よりも楽しく過ごせたことでほんの少しでもお返しになっていればいいなと思う。
3人が疲労困憊しているのをよそに、叔母は最後まで食欲旺盛で元気で饒舌でご機嫌だった。
帰り際、ほんとうに愛おしそうに、名残惜しそうに、こちらを見つめて手を振ってくれる叔母の姿を目に焼き付けながら、心の中でさよならを言った。