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小説「淡紫色の季節」(下)


  6


 やがて更に黒く染まった空の下に、宏樹がやってきた。きっと、彼の傍にいる愛犬のタマとの散歩が、主な目的だろう。
「よお、直人」
 声だけは朗らかに、その彼は僕の元を訪れたのである。彼はタマの手綱を引いて僕の前まで来ると、そのまま手を合わすこともなく、墓を睨み付けていた。明らかに、死者を弔う態度ではなかった。
「どうだ、あの世は楽しいか?」
 呟くように漏らした言葉に、恨めしさが窺える。
「あの世から見た俺の姿は、さぞかし愚か者だろう?」
 彼が発する言の葉には、敵意しか感じられない。
「俺からチサトを奪った気分はどうだ、直人」
 タマが小さく吠える。
 何故千里は頻繁に僕の墓を訪れるのか、という疑念はあった。もしかすると、僕の行動によって二人の仲が著しく変化したのかもしれないという不安も予め覚悟していた。しかし予感は的中してしまったのだ。
「俺な、今日振られたんだ。お前の命日に、お前への罪の意識に耐えきれなくなったチサトに、俺は振られたんだよ!」
 宏樹の言葉が熱を帯びてゆく。
「直人が死んでから、チサトが変わったんだ。何かひどい事があると、いつも泣く体になっちまったんだよ」
『……ごめんな、宏樹』
「大体、どうして直人なんだよ。どうしてお前なんだよ。頭脳も運動も容姿も大して良くない、ド平均野郎の癖に!」
 確かにそうだ、と僕は心中で思った。
「――そもそも既に死んだお前に、どうしてチサトを取られなきゃならねえんだ!」
『宏樹、ごめん。本当にごめん。でも、僕には何も出来ないんだ』
 嘗ての親友から吐き出された暴言が、僕を蝕んだ。かえって僕の罪の意識が加速していくばかりだった。この状況が僕自身の責任だと分かっているからこそ、僕はここに未練を残しているのだ。
 僕の声は、彼の耳には届かない。
 自らの無力さを蔑みたい。親友の恋人に横恋慕していた僕だけに責任があることなのに、命を落としただけで、僕には贖罪の権利も無いのだろうか。二人の崩壊をただ眺め続けるしかないというのか。
 だが突如、傍らのタマが数回吠えた。
 その眼は、確実に僕を視線に捉えていた。もしかすると、僕の姿が見えているのかもしれない。
『……タマ?』
 そう僕が拙い声で呼びかけると、タマは僕の足に身体をすり寄せて来る。その感触は温かく、心まで染み渡ってくる。
 タマの様子を察した宏樹は、暗闇に向かって声を発した。
「直人っ!」
 再びタマは、二度三度と吠えたのだった。
「直人、此処に居るんだな」
『ああ』
 返事が届かないことは既に知っていたが、それでも僕は応える。自らが行った罵倒に反省していた宏樹は暫く無言を貫いていたが、やがて何かを決意したか、再び顔を上げた。
「な、直人。お前に言った事は全て、俺の本心だ。だから、絶対謝らねえ。ふざけているかもしれないが、一つだけ頼みを言わせてくれ、頼む!」
 きっと宏樹の頼みは、ただ一つ。
 千里を本当の意味で笑顔にしてあげる事、それだけだ。
 ほんの数十秒前までは、無理だと悟っていた。でも、今は違う。孤独の絶望から抜け出して、生者の温かみをもう一度得られた今なら、僕はこの未練を晴らす事が出来るはず。
 根拠の無い願望だが、可能性が一握でもあるならやらない訳にはいけない。やらなくて後悔する事は愚かだが、やって後悔するのは清々しいはずだ。実際、生前にやらなくて後悔しているからこそ、未練が残ってしまったのだ。だからこそ、成仏せずに俗世を放浪しているのだ。
 必ずやるんだ、未練を残さず成仏するために。
 成し遂げるんだ、二人に笑顔を取り戻すために。
 そう誓った僕は僅かな可能性を信じ、タマの体を抱いた。柔らかい毛が頬をくすぐり、温もりが肌を包み込んだ。その感覚に自我が混ざり、僕はゆっくりと瞳を閉じる。
「――チサトの笑顔を、俺に返してくれ!」
 懇願する宏樹の言葉を意識の渦の奥で聞いた。
 再度目を開けると、視界には宏樹の大きな足が映っていた。鮮やかとは到底言えないが、若干色付いた世界にも見える。
 周辺の草木が風に揺れる音。
 涼しい風に毛が揺れる感覚。
 二人しかいない、この墓地の静寂。
 生前の五感に似た感覚が戻っていくのを、僕は全身で感じた。
「久しぶり、宏樹」
「お、おい直人……まさか、タマの中に居るのか?」
 僕は小声で「ああ」と応じる。
 目の前のタマが突然話したのを観て腰を抜かした宏樹は、驚いて派手に地面に崩れ落ちた。
 束の間の沈黙の後、状況を全て理解した宏樹は視線を足元に落としたのだ。彼の真剣な眼差しには、死人の僕と向き合う決心が垣間見える。
「まさか直人、俺の為に戻って来てくれたのか?」
 その言葉はとても静かで、空気が肌に溶ける様に、僕の中に染み込んできた。
「――いいや、そうじゃない。チサトのために、戻って来たのか?」
 彼が言い直したその瞬間、脳裏に千里の顔が浮かんだ。彼女のあの表情が、僕の心を再び苦しめるのだ。
「勿論だよ、宏樹。お前の為であり、センリの為だ」
「どういう事だ?」
 宏樹が僕に尋ねた。
「単純な事じゃないか、僕はお前らに幸せになってほしいんだよ! 幸せそうなお前らを観ていると、嫉妬して成仏してしまいそうになるわ」
「ひ、宏樹……」
 彼は優しく僕の身体を抱きしめた。滴る彼の涙も、身体が感じてくれる。久しぶりの感覚に、僕は心が震っていた。
「あんな最悪な死に様、未練しか残ってねえよ」
「ああ、俺もだよ。直人にはチサトの事で、いっぱい世話になった。だからこそ、あの事故が痛ましいんだ」
 千里や宏樹など、仲の良かったクラスメイト達と肝試しにいった日の帰り際、僕は交通事故に巻き込まれて命を落としたのだ。五感が失われていくあの感覚を、今となっては二度と思い出す事が出来ない。いや、思い出したくもない。
「別に良いんだ、死に方なんて人それぞれだから。死んだ立場の僕には、出来る事なんか何にも無い。西野直人が亡くなった今、上原千里を笑顔に出来るのは、高見宏樹だけだから。勿論、センリを幸せに出来るのも、お前――宏樹以外には居ないよ」
 宏樹は小さく何度も頷きながら、僕を見つめていた。


  7


 周りを見渡していると、ふと思うのだ。
 この世界を五感で感じる事が出来るのは、今日が最後なのだろう。
 もうすぐ僕は終わる。
 胸を張って死ねる。
 強い自覚と共に、生前の出来事が走馬灯の様に、脳裏に思い浮かんでは消えていく。
 僕は現在、千里の家の前に居る。
「直人。着いたぞ、チサトの家に」
 声のする方に向かって顔を見上げると、自ずと涙が出そうになった。彼なりに、僕との別れを演出してくれているのだろう。
 当然僕が泣いていてはいけない。
 千里に、そして宏樹に、笑顔を届けるのだ。
「押すよ」
 そう告げると、宏樹はインターホンを押した。少し遅れる様にして、その電子音が鳴り響く。
 慌しい足音を立てながら玄関先に現れた千里は、あの淡紫色の花束を提げていた。シオンの花が発する独特の匂いが、鼻だけでなく、心まで染みてくる。
「何か用なの、宏樹?」
 千里が言い放った言葉には、気まずさが漂っていた。この場に至って、二人が今日別れたばかりだという事実を思い出す。あのインターホンを押す事は、宏樹にとってどれほど難しい事だったかと思うと、目頭が熱くなる。「チサト――俺、さっき直人に会ったんだ」
 千里は「えっ」と一言だけ呟くと、明らかに驚愕した様子で、開いた口が塞がろうとしていなかった。
「嘘でしょ、そんな訳ない。そんな事、あるはずもない!」
 彼女は全力で宏樹を押し切ろうとしていた。だが、宏樹は不思議と自信満々に語るのだ。
「いや、あるんだ」
 千里が再び沈黙になったのを見て、宏樹は僕に「来い」と小さく口にした。家の門壁の影に隠れていた僕は、二人の元へと近づいた。
「どう見ても、タマにしか見えないわよ。宏樹の家で飼っているあの犬よ」
 僕は、千里に向かって思いの丈を込めて叫んだ。
「センリ!」
 すると千里は手に持っていた花束を地面に置いて、僕と宏樹の傍へと駆け寄る。そして一呼吸を空けてから、彼女は言葉を発した。
「もう一度、言ってごらん――私の名前を。普段の私に優しく呼びかけるような感じで」
「チサト」
 こう答えた宏樹を、千里は「宏樹は黙ってて」と一蹴した。僕だけは、彼女の事をチサトとは呼ばないのだ。
 上原千里――彼女の事を多くの人々は、下の名前からチサトと呼んでいた。しかし、彼女の恋人だった宏樹に嫉妬していた対抗心からか、僕だけは彼女をセンリと呼んでいたのだ。彼女の名前を呼ぶ度に、不思議と優越感が募るのは、その為なのかもしれない。千里の周辺でこのあだ名を使っていたのは、間違いなく自分だけだったのだから。
 千里は宏樹よりも前に立ち、僕の方を見やった。そして僕の視線に合わせる為だろうか、千里は視線を下ろした。
「もう一度聞くよ、君は私の事をどう呼んでいたの」
 次に発するであろう、僅か数文字の言葉に、僕は全てを懸けていた。何しろこの言葉は、僕と彼女の幼馴染という関係を証明する言葉なのだから。
 僕は、閉じていたはずの重い口を開ける。
「センリ!」
 すると千里は臆することなく、僕の体を抱いた。彼女によって滴ったその涙を、僕は全身で感じていた。一年前よりも大人っぽくなった彼女に、ただ僕は驚くばかりだった。
「ずっと会いたかったんだよ、直人!」
「そんな事は、言われなくても知っているさ。僕のお墓を何度も掃除してくれていたのは、間違いなく君なんだから」
 目の前で犬が人間の言葉を話しているという不可思議な状況よりも、僕に会えた事に対して彼女が感情を抱いていたからのか、千里は泣き笑いの様な表情を浮かべていた。けれども、これは僕が思い続けたあの表情ではない。満開の笑顔を見たいのだ。
「泣くなよ、センリ。湿っぽいのは、嫌だから。そうやって、いつも言ってきただろう?」
 僕が呟いたのは、肝試しの日に告げたあの言葉だった。
「泣くなって言われたら、私泣いちゃうでしょ。直人と同じで、私も馬鹿なんだから!」
 僕は一年前と同じ要領で千里の涙を拭こうとしたが、犬の体を借りているだけの僕にとっては無意味な行為だった。それでも二人の間に流れる沈黙は、以前とは変わらないものにも思える。
 でも僕は、これ以上後悔なんてしたくない。
 未練なんて、残したくない。
 だが今の僕に出来る事は、ただ一つだけだ。
 僕の親友にして、千里の元恋人である高見宏樹という人間を全力で信じ抜く事――たった、それだけだろう。
 その時、一人後ろで安堵の表情を浮かべていた宏樹も、僕達に視線を合わせた。
「おい、チサト」
 宏樹が発したその言葉に、千里は顔を上げた。
「……何?」
「その、薄い紫色の花束。あいつが死んだ時間にあの交差点へ持って行くつもりだったんだろ」
「えっ、そうだけど。シオンは菊の一種だし、亡くなった人に向けて手向ける花として有りかな、って思ったから」
「なるほどな、千里にしてはよく考えたなあ」
「それだけじゃないんだけど……」
 千里の言葉に納得した宏樹は、再び視線を上げる。そして、彼は地面に落ちていた花束を持ち上げた。
「チサト、行こう。もう後悔なんてしたくないんだ。きっと、直人も同じ事を思っているはずだろうし」
 千里の元を離れ、僕は本心で「ああ」と頷いた。
 宏樹は開いていた玄関の扉を閉め、千里の手を引いた。そして彼女に先程の花束を渡すと、今度は僕のリードを握った。
「皆で、直人を見送りに行こう」
「えっ、どういう事?」
 疑問符を抑えられない千里を横目に置いて、僕達は歩き出した。
「いいから、俺についてこい!」


  8


 後ろを走る宏樹の荒い息が聞こえた為か、ふと後方を振り返った。気持ちだけが先に行ってしまい、きっと急ぎ過ぎたのかもしれない。僕は古書堂の前で一旦立ち止まって宏樹や千里を待ってから、今度はゆっくりとしたスピードで進んで行く。
 湿った風が心地良く、暗闇を駆け抜けていく。
 一年前の今日に戻ってきたかの様な錯覚が頭に浮かぶ。
 少しずつではあるが、希望が僕の心を後押ししていた。
 目的地に辿り着いた時、傍らにいた千里は唖然としていた。
 宏樹が僕と千里に、到着を知らせた。意外と千里の家から此処までは距離が長く、犬の体では体力の消耗が更に感ぜられた。
「着いたぞ、お二人さん」
 夜の交差点を行き交う車の音に混じり、彼女が息を飲む音が聴こえてくる。
 二人の目線の先には、先客が手向けた花束とサンドイッチが置いてあった。恐らく僕に向けて綴られたであろう、一通の手紙を添えて。
 千里はシオンの花束を供えると、手を合わせた。宏樹もそれにつられる様にして、彼女の動作を模倣する。
 合わせていた手を解くと宏樹は、無言のままに例の手紙を開封して、僕にその文面を見せたのだ。
「この手紙は紛れもなく、俺から直人に充てた最後のメッセージだ。だから、しっかりと聴いてくれよ」


『直人へ

 久しぶり、元気にしていますか。

 俺は、直人に二つ自慢したい事があるんだ。
 一つ目は、君の悪い所を誰よりも多く挙げられる事。
 心配性な所。
 感覚でモノを語ってしまう所。
 千里に対して、優しすぎる所。
 全部挙げたらキリが無いし、直人も悲しむだろうから、これ以上は書かない事にするね。
 この文章を書いている自分が、何だか悲しくなってくるから。
 二つ目は、君の良い所を誰よりも多く挙げられる事。
 仲間想いな所。
 何かあった時には、すぐに決断して行動出来る所。
 千里を誰よりも大切にしてくれる所。

 そんな直人の事を俺は心から尊敬しているし、もしかすると今も嫉妬しているかもしれないな。
 たまたま直人よりも早く告白したから、運良く千里と付き合えた気がするんだ。
 実は、ずっと俺も後悔していたんだ。
 恋敵だった君と休戦する約束をしていたのに、その約束を破って千里に告白してしまった事を。
 俺のせいで、直人が千里に気持ちを伝えられていない事を。
 もし直人に会えるのなら、必ず伝えたい言葉があるんだ。

 ごめんなさい。
 そして、ありがとう。

 俺は西野直人という恋敵、いや、最高の親友に出逢えた事を心から嬉しく思っています。
 だから、俺はお前の分まで千里を幸せにしてやる。
 そう神様に誓ってやるんだ。

 どうか、天国で幸せに暮らしてください。
 そしてまた、何処かで会えるのを祈っています。

                   宏樹より』


 再び目線を合わせた千里の表情は、月に照らされて輪郭までくっきりと見える。涙の跡が月明かりを反射して光の筋を作っていた。すると一呼吸置いてから、千里は宏樹を平手打ちした。
「宏樹の馬鹿。あんな事したら、直人が泣いちゃうでしょ」
 彼はあまり痛みは感じていなかったものの、何故か僕まで温かい気持ちが溢れ出してきた。
「うっせーよ、チサトの馬鹿!」
 笑顔の宏樹が千里に向かって発したこの言葉には、一切の蔑みも含まれていなかった。
 千里の涙の筋は消えない。
 でも、瞳から新たな涙は流れない。
 その上、唇には笑みが浮かんでいる。
 長年望み続けていた彼女の表情は、僕の心の迷いを忘れさせてくれたのだった。
 漸く、僕の未練は果たされた。
 これで、胸を張って来世へ逝く事が出来る。
 段々と意識が遠くなり、眠たくなってきた。
 笑顔の千里に対して、何か言葉を返そうと試みたが、返す言葉が見つからない。ただ彼女に幸せになってほしい、と願う事だけしか、今の僕には許されていなかったのだ。そうだ、その感情を伝えてあげれば良い。
「センリ」
 千里が僕の方を振り向く。
「そして、宏樹」
 宏樹も、千里と同様にして視線を下ろした。
「――二人とも、幸せになれよ!」


  9


 例の寺院の名を冠した停留所で路線バスを下車すると、何処か懐かしい空気を体全身で感じる事が出来た。
「久しぶりだね、地元は」
 千里が発したその言葉に、俺は「ああ」と頷いた。
 何とも感慨深い風景だった。
 長い年月を経て街は発展し、地元の風景は間違いなく昔とは別物に変貌している。
 それにも関わらず、地元という存在は不思議だ。
 この場所を「地元だ」と認識した途端に、懐かしい記憶が自然に蘇ってくるのだ。
 千里の家の目印だった古書堂を探そうとしたが、それを見つける前に丁字路の頂点に辿り着いてしまう。ふと左を見ると、幼少期によく遊んだ公園があるから、場所は恐らく合っているはずだろう。だが公園は廃れ、かき氷を売り捌いていた男性も、遊具で楽しそうに遊ぶ子供も、もう此処には居なかった。自前の生産機械の格好良さに惚れ、仲の良かった友達と一緒にこの公園に通っていた事は、今でもはっきりと覚えている。
「私達が幼い時は、もっとこの公園も子供で溢れかえっていたのに」
「そうだね、近頃の子達はゲームばかりに熱中しているから。今の子達は外で遊ばなくても過ごしていけるんだよ、きっと」
 そう答えると、俺と千里は変わり果てた丁字路を曲がったのだった。徐に早くなっていく足音が、心が高鳴っていく様子を間接的に感じさせる。
 今日は千里の親に結婚の許しを貰う目的で、この地元にやって来たのだ。数年前に関東に移住していた、俺の両親には、既に結婚を承諾してもらった上での地元参戦だった。
 角を曲がって間もなく、千里の両親が住むであろう家に辿り着いた。移ろいゆく街並みの中で、殆ど昔とは変わらない姿を保ち続けていた事に、ただ感心していた。
「押すよ」
 千里は、小さな声で「うん」と答えた。
 だが辺りにインターホンの電子音が響く事は、無かった。何度も繰り返しボタンを押してはみたが、やはりこのインターホンは故障していた様だった。
「ヒロ、扉を叩いてみたら?」
 何一つ変わっていない門を千里と通り過ぎ、再び家主を呼ぶ。今度は、どんどんと音が確実に聞こえてくる。
 そして家の中からどたどたと慌ただしい足音が響くと、扉を開けて千里の父親が出てきた。
「迷惑をかけましたな、インターホンが故障中で――それよりも、まずは家に上がりなさい。二人とも、今日は僕達に話したい事があるんだろう?」
「あっ、有難うございます」
 まだ元気そうな父親に誘導されて、多少ではあるがバリアフリーに改築されていたリビングの中に入ると、車椅子姿の女性が居た。
「どうぞ、其方へおかけください。お茶を淹れますから」
 千里の母親は足が不自由な体ながらも、器用に車椅子を動かしてキッチンへ向かった。
 その様子を見た千里が、心配そうに立ち上がった。
「いいよ、ママ。私がお茶を淹れてあげるから。ママは座っていてよ」
「まあ、有難う。千里も大人になったわね」
 そう言うと千里の母親は、再びリビングへと車椅子を動かすのだった。
 何も彼女を助ける事が出来なかった為、俺は少し後悔していた。だがその様子を察した千里の父親は、突然話を切り出した。
「この街も、随分と変わっただろう?」
「そ、そうですね。目印の古書堂も、分からなかったですし……」
「ああ、あの古書堂か。あそこは、もう随分前に無くなったよ。駅前に出来た大きなショッピングモールの中に書店があるんだが、その書店との競争に負けて店を畳んだそうだ」
 俺はその話を聞いて、ただ純粋に驚愕していた。道理で、あの古書堂を見ないはずだ。脳裏に浮かんでいた疑問が一つ解けて清々しい気持ちになったが、見慣れた物が一つ消えてしまうと逆に寂しくも感じるのだ。確か、学生時代に大切な友人を失った時にも、似た様な感情を経験した事があったと思う。
「何だか寂しいですね。馴染んでいた存在が、不意に消えてしまうと」
「ああ、本当にそう思うよ」
 俺は千里の父親と暫く談笑していたのだが、その会話の輪に入る様にして、千里は「お茶を淹れましたよ」と言いながら、テーブルに湯呑を置いた。
「――少し熱いから、気を付けて」
 千里が両親に注意を促すと、彼女の父親はこう告げるのだった。
「それでは、今日のメインテーマといこうか。千里に、宏樹君――此処の椅子に座って」
 俺が座った後、千里は四つの湯呑を全て並べ終えてから着座する。千里の両親と、俺と千里のペアが向かい合う様にしてテーブルに陣取った。
「今日は宜しくお願いします」
「宜しくお願いします」
「まあまあ、そんな固くなさらずに。二人とも、普段通りに振る舞ってくれれば良いのよ」
 緊張が解けない俺と千里は、次に出すべき言葉を発する事が出来なかった。だからこそ、千里の母親が呟いたこの言葉に安堵していたのだろう。
 隣に座っていた千里に向かって、俺は「今から言うよ」と小声で呟く。そして彼女が「うん」と頷いたのを見て、その両親がくすくすと微笑んでいた。
「そんな子供みたいなヒソヒソ話は、よしなさい。あなた達が一番叶えたい事を話してくれれば、それで良いんだよ」
「さあ、何だね――君達の願いは。どんな事でも構わないから、僕達に話してごらん」
 部屋中を包んでいた緊張の空気が突如晴れた様な感覚がした。悩みや雑念なんて、関係無い。
 二人の率直な気持ちを、ただ伝えれば良いのだ。
 千里の父親が湯呑に触れようとしたその瞬間、俺は椅子を引いて立ち上がった。
「単刀直入に言います、チサトと結婚させてください!」
 驚いて目が泳ぎそうになっていた両親が、俺と千里の方を再び向いたのは、ほんの数秒後だった。
「千里も同じか?」
 父親が彼女に対して念を押すと、千里は反射的に「はい」と清々しく返事する。
 千里の様子を眺めていた両親が互いに見つめ合い、アイコンタクトで意思を疎通した。結論が出たのか、父親は再び口を開けた。
「まあ、宏樹君よ。一先ず、座りなさい」
 そう促されると、俺は元の姿勢で椅子に座った。
「宏樹君が我が娘を幸せにしてくれるのなら、僕達は迷う事無く結婚を許そう。だが千里を不幸にしたら、その時は覚悟しておくんだよ」
 千里の父親が発した言葉を聞いた千里は、有頂天になっていた。
「パパ、ママ、本当に有難う!」
 千里は、ハグでもして俺と喜びの感情を共有しようと試みていた。だが心の底から喜ぼうとしているのにも拘らず、俺の心は不思議と喜ぶ事は出来なかった。
「どうしたんだ、宏樹君よ。何か悩みでもあるのか?」
 父親が俺に問いかけると、今度は母親が耳打ちした。千里の母親から何かを聞いて納得した彼は、奥の部屋へと向かった。
「――ねえ、ママ」
「何? 千里」
「パパは奥で何やっているの?」
 両親の様子を不思議そうに思った千里が尋ねると、母親は何故か笑顔で千里に答えるのだった。
「まあ、見てなさいな」
 すると、奥の部屋から戻った父親がリビングに戻ってきた。彼の手には、何処かで観た事のある淡紫色の花束が強く握られていたのだった。
「シオンだ!」
 千里はそう言って、驚愕していた。
「もう互いの家に結婚の許可は貰っただろう。それならば、まず君達がすべき事は直人君に会いに行く事だ」
「そう。直人君に嬉しい報告を伝えてあげたら、きっと彼も喜ぶはずよ。だから、今から彼のお墓に行って挨拶してきなさい」
 確かに俺と千里は上京して以降、直人が眠っている墓地には挨拶すら行けていない。生前の彼は、俺にとって唯一無二の親友であり、そして恋敵だった。こうやって楽しい青春時代を過ごせたのも、直人や千里のおかげだと言っても過言では無いだろう。
 出来る事なら、毎日彼の元に行きたかった位だ。だが関東での仕事が忙しくなった今となっては、直人に会える時間は限りなく少なく、貴重だ。
「行こうか、チサト――直人の所へ」
「ええ」
 千里の父親から花束を受け取ると、俺は千里と共に外へ駆け出していった。


  10


 以前よりも黒く錆びれた寺院の門を抜けると、更に境内の裏側の敷地に墓地はある。その立ち並ぶ灰色の墓石群の中に、直人の骨が眠る墓もあった。苔むした石、黒ずんだ卒塔婆、どこか寂しげな空気。だが、何処か懐かしさがある。そう思うのは、親しい友人達で集まって此処で肝試しをした、という記憶が残っているからかもしれない。
「此処だな」
 千里は小さな声で「ええ」と囁いた。
「――とりあえず、挨拶だね」
 俺は、手に持っていたシオンの花束を直人の墓に手向けた。そして、千里と共に手を合わせた。
「もう花を手向けた後だけど、順番とか間違ってないよね?」
「あはは、もう作法は覚えてないよ。でも、気持ちだけでも直人に伝わってくれたら良いな、って私は思う」
「サンドイッチを持ってきて、此処に供えてあげても良かったかもなあ」
「そうよね、直人はサンドイッチが大好物だったんだもの。私もそう思うわ」
 すると千里は、「報告しよう」と俺に呟いた。すっかり目的を忘れていた俺は、少し恥じらいながら再び口を開けた。
「なあ、直人。俺はチサトと結婚する事になったんだ。今日まで過ごしてきた日々は喧嘩も絶えなかったし、その度に互いを見つめなおしてきた。でも、お前以外の人間でチサトを幸せに出来るのは、地球上に俺しかいない。俺は西野直人という恋敵、いや、最高の親友に出逢えた事を心から嬉しいよ。だから、俺はお前の分まで千里を幸せにしてやる――俺の一生を全て懸けてな」
 俺がそう言い終えた時、辺りで風が吹き荒れた。夏の終わりらしい、湿っぽい風だった。
 そしてその風に煽られる様にして、一枚、また一枚とシオンの花びらが空を舞った。
「……綺麗」
 千里はまるで何かに見惚れた様に、淡紫色の花びらが空を舞う風景を眺めていた。
「きっと、結婚しても良いよって、私達に伝えてくれたんだよ」
 ふと俺は、直人と話した最後の日の事を思い出した。
 現世に未練を残していた彼が、俺達の為に全力を尽くしてくれた事。
 タマの体を借りて、笑顔を届けてくれた事。
 二人のすれ違っていた心を再び元に戻してくれた事。
 そして、俺と千里に対して「幸せになれ」と伝えてくれた事。
 いつだって、彼は俺の事を信じていてくれた。並みの恋敵ならば、そんな事は絶対に有り得ない。ただ、影でいつも俺達の事を支えてくれたのは、紛れも無く君だった。一体、彼にどうやって気持ちを伝えれば良いのだろうか。
「――私は君を忘れない」
 隣にいた千里が、突然口にしたのは意外な台詞だった。
「えっ?」
「このシオンの花の花言葉。私が、ずっと直人に向けて伝えたかったメッセージ」
 幼い頃、何かの漫画で読んだ事がある。
 人は二度、死ぬらしい。
 一度目は、身体が死んだ時。
 二度目は、他人に忘れ去られた時。
 確かに彼の立場になってみれば、いつでも俺と千里の事を見守りたいはずだろうし、誰よりも俺達が幸せになってくれる事を心から願っているはずだ。
 俺と千里は、直人と過ごした日々を忘れてはいけないのだ。
 だからこそ二人に向けて、俺はこう呟く事にした。
「これからも、宜しくお願いします」


=了=

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