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時間感覚についての試論

※この記事は「時間感覚についての試論」の序章と1章のみを載せてい    ます。2章と結論、参考文献は後日投稿します。

  序論


 本論は、 身体に 時間を感覚する器官があるという 仮説 (以下、この仮説を時間感覚仮説と呼ぶ) を立てることによって、 時間の流れとは何かという疑問に答えることを目指す。 この仮説は時間をあたかも物体のように扱おうとするものではない。そうではなく、この仮説は時間の印象を認めることによって、帰納的に導かれたものである。すなわち、時間の印象があるということは、それを知覚しているということであり、そして、知覚しているということは、それを知覚する器官があるということである。この過程を辿ることによって、 時間を物体として前提とすることなく、この器官を仮定する。
 仮説を立てるといっても、本論では仮説を証明しようとはしない。そうではなく、本論ではこの仮説のための指針を考える。それゆえ、時間を 知覚する器官を身体のある部分に当てはめることや、この器官の具体的な役割については吟味しない。それは本論の意図から離れたものである。本論では、この仮説を用いて、時間の流れという印象を究明することを目指す。
 ひとまず、論者が立てる仮説について簡単な説明をしよう。 この仮説は論者が高校生の時に思い浮かんだものである。 この仮説の萌芽となった思案は次のようなものである。「 もし五感がなくなったとしても、時間が流れる感覚はあるのではないか ?」時間が流れる感覚は、感覚というよりも印象と呼ぶ方が良いのかもしれない。 ただ、その印象の形成が他の感覚器官に由来しないというのであれば、感覚と言ってもいいのかもしれない。この思案で重要なことは、時間が流れる印象が確かにあるということと、その印象が他の感覚器官によって生じているのではないということだ。本論を論じるにあたって、このような下地が あるということを先に示しておく。
 本論で扱うのは、主に時間についての印象である。それゆえ、時間が運動にどのような作用を及ぼしているのかということについては論じない。すなわち、時間がどのように存在するのかということは論じない。本論では、印象としての時間は認め るものの、時間それ自体の性格や運動への作用 については不可知論の立場をとる。 しかしながら、時間概念の全体を考えた とき、印象としての時間はその中に含まれていなければならない。それゆえ、 印象としての時間があたかもないように論じる者は、それを無視しているという点で、 不完全な 論じ方をしている のである 。 時間感覚仮説は印象としての時間を認めることによって、時間の注目されてこなかった側面について論じる。
 第1章では、常識的な時間概念と時間感覚仮説の時間論を対比させることによって、時間感覚仮説の基本的な立場を示す。第2章では、ベルクソンの質的多様性と数的多様性と、そこで用いられる音楽の比喩を検討することによって、時間感覚がどのように作用しているのかということについて論じる。

  第1章 時間と運動


 常識的な時間

 あなたは「時間を確認してください」と言われた際に、どのような手段を用いるだろうか。あなたは「時間を確認してください」と言われた際に、どのような手段を用いるだろうか。たいていの場合は、腕時計やスマートフォンの時計、壁にかかっている時計を見つけて答えたいていの場合は、腕時計やスマートフォンの時計、壁にかかっている時計を見つけて答えることになるだろう。仮にあなたの近くに時計がなければ、あなたは隣の席に座っている人ることになるだろう。仮にあなたの近くに時計がなければ、あなたは隣の席に座っている人や通りがかりの人に「いま何時ですか?」と聞くかもしれない。そして、その時間を聞かれや通りがかりの人に「いま何時ですか?」と聞くかもしれない。そして、その時間を聞かれた人は自分の持っている時計を見るに違いない。私たちが時間と聞いて想像するものは時計に書かれている数字のことである。
 しかしながら、私たちは「いつもより時間が速く進んだ」と言ったり、「何もしていないもしていないと時間が長く感じる」と言ったりもする。すなわち、時計が刻む一定のリズムよりも、私た時計が刻む一定のリズムよりも、私たちの感じる時間が速かったり遅かったりするのである。これによって、私たちは時計が刻むスピードが異なるように感じる。「これは時間を忘れるほど楽しい」という謳い文句を聞いたことがあるだろうか。この意味での時間とは、時計の時間のことである。というのも、私たちはどんな時間の印象であろうが、たえず知覚し続けているからだ。しかしながら、時間を忘れるということは、体内時計が刻むリズムが速いという状態をも言い表しているだろう。
 私たちは時間という言葉を、日常的に多くの場面で使う。たいていの場合は、それは時計のことで ある。 では、時計とは一体何であろうか。「時計を確認してください。」そこに書かれているものは、そこで聞いたものは数字である。すなわち、時計とは数量化された時間である。数量化という言葉で表されているのは、いくらでも数を足したり減らしたりできるということである。数はいくらでも足すことができるので、例えば、 3000 年や 1 万年、はたまた無限に数を足された年数が考えることができるのである。 そのような∞年が実際にあるのかないのか、 少な くとも論者には想像することはできないが、∞年を想定し 、記号として扱うことによって、 あなたと共有することはできる。それが数の能力である。時計の時間には、 いくらでも増やしたり減らしたりできるような 数 の能力が含まれているのである。
 「時計をずっと見てください。」アナログ時計の場合だと、秒針が止まって見えるというクロノスタシスと呼ばれる現象が起こる可能性があるので、デジタル時計で見てもらいたい。時計をずっと見ていると、一定のリズムで時間が進んでいることがわかる。時計のリズムは時空が歪んでいない限り、そのリズムは一定である。反対に、時空が時空が凄まじく歪んでいると想定しよう。いつも通り過ごしていた一日が、あなただけ知らないうちに一年が経っていたということになれば、あなたはその年の誕生日がいたということになれば、あなたはその年の誕生日が2回くることになるだろう。しかし、そのようなことはあり得ない。さらには、少しテイストの違う仮定をしても状況は同じである。世界中の時計が少しの時空の歪みで、1秒か2秒の誤差があったとしよう。地球人が全員気づかずに、宇宙人だけが少しの誤差に気づいていた。しかし、その仮定でさえもなお、宇宙人の持っている時計が一定であることには変わりない。つまり、時計のリズムが一定ではないとわかるのも、常にリズムが一定である時計が存在するからである。このように時計のリズムは常に一定である。さらには、既存の時計のリズムが間違っていたとしても、新しい時計が一定のリズムで進んでいるのである。
 少なくとも日常的には 、私たちは時計が一定のリズムで進んでいると考えている。世界中の時計のリズムが一定であることで、私たちは異なる時間を指している時計を比較できるようになるのである。たとえ他の国の時計が異なる時間を指していても、自分の国の時計と照らし合わせられる。自分の生活リズムを他の国でもなるべく崩さないようにできるのは、時計が比例して進んでいるからだ。時計のリズムが一定であれば、複数の時計を比較することができるのである。日常的に時計を見て時間を確認するという作業の裏には、このような前提が含まれているのである。
 これまでの議論では時計について述べてきたが、そもそも正確な時計が生まれたのは近代以降のことである。時間を確認するということに、必ずしも時計を用いなければいけないわけではない。時計が存在しなかった時代の人々がそうであったように。例えば、昼寝をして起きたら夕方になっていた場合、日が傾い ているのを見て時間が進んでいたことを確認する。その場合、私たちは身の回りの変化によって時間を確認している。変化がわかることは、時間が進んでいるということをそのまま表している。 すなわち、 時間は変化である。太陽の位置が変わっているということは、どれだけ短くとも時間が進んだということである。時間が進むことは、それが時計の秒針であろうと、宇宙人の瞬間移動であろうと変化が前提とされている。というのも、宇宙のすべてのものが変化しないのにもかかわらず、時間だけが進んでいると考えるのは無意味だからだ。変化のない空白の時間が あると主張したとしても、それは説明できない因果関係を無理やり説明しようとして導入したものにすぎないはずだ。 つまり、ある出来事と他の出来事の間に関係が何もないのにもかかわらず、 時間をクッションのようにその間に入れることによって、あたかも関係があるように 説明する のである。変化のない時間はあり得ないし、時間のない変化はあり得ない。 変化と時間は無関係でありえない。変化と時間は常に相関関係にある。
 私たちは実際に変化を確認しなくても、時計やカレンダーを確認することによって、変化を想定することはできる。例えば、 西暦 20 00 年に生まれた人が、 西暦 1000 年から 西暦 1500年の間に起こった出来事 について、実際に変化が起こったこととして確認できないが、歴史の教科書を見て、 500 年間の変化を想定することはできる。 私たちは歴史が存在すると教えられてきたし、その存在を否定できるとは考えられない。歴史という時間の系列は、変化の存在を前提としているものである。そのため、実際に変化を確認しなくても、時間の系列から変化を想定しうるのである。あくまで想定したところの変化ではあるが、私たちは変化を伴った時間の上で生活している。
 私たちが変化と呼ぶものについて、実際に観察するならば、変化とは運動を指している言葉であることがわかる。例えば、飲みかけのジュースの中にある氷が溶けたり、胃の中で食べ物が消化されたり、机に置いていた本が落ちたりする。いずれも変化が起こるとともに、その変化のうちに何らかの運動が見て取ることができる。氷が水になる際には、氷が熱エネルギーを得ることによって分子が熱運動を引き起こし、氷から水へ状態変化が起こる。運動という言葉で対象となっているものは、日常的には観察によって得られた情報を用いているものであるがゆえに、運動は変化という言葉が扱う対象よりも抽象度が低いように思われる。それゆえ、次節では時間と運動の関係から探求を始めることにする。
 本節では、時間を日常的に用いられている意味で分析することによって、常識的な時間を規定した。私たちが普段、口にしている時間という言葉は、時計が示す数字のことである。その数字の進み方は、実際どうあるにせよ、常に一定であると考えられている。私たちの社会はそのような時間概念を適用している。そのことによって、私たちは他者と時間を共有できるし、また勉強しているときだけ1時間が1時間半になっていたということも起こらな
い。簡潔に言えば、時計の数字は一定に進む。本節の後半では、常識的な時間概念と変化の関係を論じた。変化を確認するということは、時間を確認するということである。太陽の位置が変化していれば、たとえその間の記憶がなかったとしても、時間が経過したことになる。反対に、時間を確認するということは、変化を確認するということである。仮に、今日が西暦 2100 年 1 月 1 日だとし、西暦 2000 年 1 月 1 日に生まれた人が、100 歳の誕生日を迎えたとしよう。その人は、記憶があるかどうかはともかくとして、100 年間の変化を経験した。しかしながら、生まれる前か、またはそれ以上の年月に思いを巡らすとき、その人は自分の経験した出来事よりも多くの出来事について考え始めるだろう。そして、自分の人生は、大きな変化の流れのほんの一部分を占めているにすぎないことに気づくはずだ。今日が何年の何月であるのかを確認するということによって、変化に気がつくことができるのである。このように時間と変化は相互に関係し合っているのである。
 次節では変化ではなく、運動という言葉で時間との関係を述べていく。しかしながら、常識的な時間での変化と運動とは、意味上の差異はないこととする。というのも、実際に用いられている変化という言葉は、何かしらの運動が起こったという意味でも言われていると思われるからだ。

 時間感覚仮説の時間論

 時計は運動によって測られる時間である。それは私たちが視覚や触覚などによって把握される時間である。例えば、ストップウォッチで時間を測る際に、認識しているものはストップウォッチの運動である。その運動の均一なリズムによって、私たちは規則通りに電車に乗ることができるようになったり、規則的な睡眠習慣を手に入れたり、ある種の秩序をもって生活できるようになる。しかしながら、運動によって測られる時間は、あくまで比喩的に
時間と呼んでいるものである。というのも、私たちが運動を認識するさいに、その運動の初めと終わり、あるいはその中間の無数の情報が得られたとしても、その運動のある部分と他の部分が連続しているということは把握できないからである。すなわち、運動の認識はたとえ運動の対象が断片的であっても可能である。例えば、パラパラマンガのように、ある運動の対象と他の運動の対象がそれぞれ独立しているということが可能なのである。パラパラマンガであれば、既存のページ間に新しいページを差し込むことができる。すなわち、あるページと他のページには何も関連性がないのである。このように運動の認識は非連続でもあり得る。しかしながら、運動が非連続であるためには、対象同士が関連していないということを把握する場が必要である。すなわち、2つのページが非連続であるためには、どちらのページも欠けることなく存在しなければならない。それらは空間的な連続性を前提としたうえで、関連していないという区切りをつけられる。紙について非連続性を把握するためには、空間の連続性が必要である。しかし、運動について非連続性を把握するためには、時間の連続性が必要なのである。それゆえ、時計といったものの運動を時間と呼ぶことは比喩的でしかありえず、また、それらは同一なものではないのである。
 運動が連続しているかどうかを判断するためには、時間の印象によって得られる連続性が必要である。すなわち、それぞれの運動の関係を把握するためには、時間の連続性を認識することが必要である。時間の印象とは、他の知覚によって得られた印象やその記憶を比較し、そして、まさにその比較によって結び付けられた連続性の認識ではない。それは連続性それ自体の印象である。時間の連続性の認識は時間知覚によって可能である。時間知覚によ
って、時計の針の移動が連続しているかそうでないかを把握することができるのである。(時間知覚については第2章でより詳しく論じる。)
 運動の連続性は数によって、より確実なものとして考えられる。時計は数によって運動の時間的な位置を把握する道具である。例えば、10時に家を出て、18時に帰宅したとしよう。それぞれの運動は、時計という数を示す道具によって、時間的な位置にあるものとして規定されるのである。それゆえ、それぞれの運動はその間に因果関係があるかどうかということについて考えられなくとも、数によって示された時間的な位置によって、運動が連続し
ているものとみなされる。すなわち、数の前後関係によって、それぞれの運動の前後関係が規定されるのである。そして、その関係が運動の連続性としてみなされるのである。
 運動の認識には時間感覚の連続性によって把握されるものと、運動の図式化によって把握されるものがある。すなわち、それには時間の連続性の印象によって、対象間の連続性が把握されるものと、ある出来事と他の出来事を紙の上に書いたりしながら、その 2 つの出来事の間に因果関係を設定することによってなされるものがある。例えば、のどの渇きという出来事とお茶を飲むという出来事の因果関係を図で表すことができる。時間感覚の連続性の代わりに、出来事の間に因果関係を想定することによって、運動しているということを認識することができるのである。運動の認識は出来事の間の整合性によって結び付けられる。例えば、いつも通り8時に起きたにもかかわらず、寝ている間に100年経っていたということは考えられない。また、寝ている間に、地球が爆発し、爆発する前と同じ地球が再構成されたということは考えられない。運動と同様に、歴史は整合性によって組み立てられる。例えば、ベルクソンが1500年に生まれ、2000年に死んだということは、人間の
寿命といった観点や他の様々な資料から否定される。運動と歴史は因果関係の整合性によって把握される。そして、因果関係の結びつきによって、それぞれの出来事は連続しているものとして把握される。この結びつきは時間感覚の印象を表象することなく、把握することができる。というのも、私たちは自分の生まれる前の出来事について知覚することはできず、また、うろ覚えな出来事はその前後の記憶の整合性によって因果関係が結ばれるからだ。時間感覚の連続性は、そのような整合性によって得られるものではない。それは他の知覚と同様に直接的に与えられるものである。時間知覚の連続性は、因果関係によって得られる連続性とは異なり、否定されない。それは視覚によって得られた情報が幻覚であろうがなかろうが、知覚した事実は否定できないのと同じである。
 時計は数の前後関係によって運動の連続性を可能にするものである。それに対し、時間感覚ははっきりとした運動の連続性を可能にする。ただし、どちらも運動の連続性を可能にするものである。しかしながら、因果関係によって得られる連続性は、図式化され、関係づけられた連続性ではあっても、時間の連続性の印象ではない。例えば、「いつの間にか10時を過ぎて、10時半になっていた」と書かれていた場合、10時と10時半は関係づけられた連続性によって把握されている。たとえデジタル時計で10時から10時半の表記に変わったとしても、そのことによって、時間の連続性の印象は表象されない。というのも、それは2つの時間の表記を想定した後に、時間の連続性の印象を付け足しているからである。それゆえ、時計による連続性の認識は、関係づけられた因果の連続性か、後付けされた時間感覚の連続性である。
 アナログ時計は針の運動によって時間を測っている。より厳密に言えば、アナログ時計によって時間を測るということは、次のような過程を通って把握される。すなわち、ある位置の針がまずその位置にあるものとして把握され、その次に針が別の場所に移動し、その移動したところの針を把握し、最後に元の位置にあった針の知覚と移動したところの針の知覚とをひとまとまりに総合することによって、時間を把握するのである。時計による時間の認
識は、知覚した対象の総合によってなされる。しかしながら、時間感覚の認識はそうではない。というのも、もしそうであるならば、10年前の記憶を思い出すたびに、その10年分の時間感覚を得ることになるからだ。時計は数として把握されるゆえに、対象の総合によって時間を認識することが可能である。しかしながら、それは数の前後関係であって、時間感覚の連続性ではない。時間感覚は対象の総合によって認識されるものではなく、時間知覚に
よって認識される印象である。それは対象の総合に時間の連続性の印象を与えるものである。例えば、私たちは「過去→現在」という簡単な図式に、時間の連続性の印象を当てはめるのである。
 時計は私たちがそれを認識していなくとも動いている。私たちは寝て起きたときに、時計を確認することによって、今が何時であるかを確認する。それゆえ、時間感覚が知覚されていなくとも、時間が進むということは可能であると考えられる。しかしながら、時間感覚がない時間というものを私たちは想像することはできない。なぜなら、時間を知覚するまで、私たちは時間というものを知り得ないからだ。私たちが時間について考えるとき、たいていの場合、時間感覚をもとにして考えているのである。
 では、時間感覚ではない時間は、どのように想定されるだろうか?例えば、寝て起きるという出来事によって、時間感覚が表象されなくとも、寝ている間の時間を想定するだろう。言い換えれば、時間知覚が作用しなくとも、寝る前と寝た後の大きな変化によって、時間感覚ではない時間が想定されるだろう。確かに、寝ている間に起こった出来事はあるだろう。しかし、そのことを果たして時間と呼べるのか?すなわち、その出来事は別々に引き起こされたものであって、連続していないのではないか?宇宙が瞬間ごとに、まったく新しい宇宙に生まれ変わっているとしたら、そこに連続性はあるのだろうか?寝る前と起きたときの連続性や宇宙の連続性は、時間感覚による虚像なのかもしれない。そのような可能性を考えると、時間感覚ではない時間の連続性は確信できないのである。
 私たちは突如として現れる大きな変化は知っているが、時間感覚ではない時間については知らない。すなわち、私たちは認識機能が何らかの仕方で停止している際に起こっていた運動を推測することはできるが、その運動がどのような時間のあり方をしていたのかということはわからないのである。私たちが時間を認識していないときに、運動の因果関係が推論によって確定したとしても、時間は運動の因果関係とは別に流れていたということがあり得るだろう。私たちはこのことについて否定する材料を持てないのである。時間と運動が必然的に結び付けられているということを、私たちはいったん保留しなければならない。
 時間感覚ではない時間は、運動が占める瞬間という意味である。そして、ここでの運動とは非連続である可能性を持ったものである。というのも、運動の連続性は時間感覚によって得られた連続性と因果関係によって結び付けられた連続性であるからだ。すなわち、運動は時間感覚がなければ、連続性が認識されず、また、運動間の因果関係が存在しなければ、運動を図式化することができず、連続性が把握されないのである。時間感覚ではない時間は、運動が占める場という意味であるというのは、時間感覚仮説の時間論において、時間知覚が連続性を認識する瞬間を想定する必要があり、また、時間の連続性の印象は瞬間において表象されれば十分だからである。時間感覚仮説が想定するのは、瞬間としての時間である。すなわち、非連続でありうるような時間である。
 瞬間としての時間は運動の図式化のために便宜的に設けられたものである。瞬間としての時間は運動の存在を認め、それぞれの運動に固有の場を与えるために必要なものである。瞬間としての時間は運動の差異化に役立つ。しかしながら、それはそれ以上の役割を持つことはない。すなわち、瞬間としての時間は運動の図式化に関して、時間感覚の性質を含まないのである。
 運動の図式化における時間概念は、瞬間としての時間、時間感覚の連続性、そして運動の因果が曖昧に関係しているのである。というのも、私たちは時計を見る際、時間感覚によって連続性を認識しながら、時計の運動を計算し、これらを区別しないからである。しかしながら、この時間概念を吟味してみるならば、この曖昧な関係は、運動の因果の考察→前提される場としての時間の想定→時間感覚による時間の性質の付与という系列で成り立つということがわかる。というのも、時計は、まず視覚によって認識され、各々の数字の関係性を把握された後に、その関係に時間感覚の印象を付け足すからである。この過程によって、日常的な時間概念が作り上げられるのである。
 時間感覚仮説の時間論についてまとめると、次のようになる。時間感覚仮説において、知覚される時間は時間感覚によって連続性を持ったものとして考えられる。しかしながら、時間感覚によらない時間は、連続性をもっているかどうかわからない。すなわち、次の瞬間にまったく新しい宇宙が生成される可能性がある。時間感覚によって得られた時間は、時間感覚ではない時間の連続性を保証しないのである。時間感覚の連続性と運動の連続性は異な
る仕方で認識される。というのも、運動の連続性は、各々の対象が関係づけられた因果の連続性か、後付けされた時間感覚の連続性だからである。運動の連続性は運動の図式化によって認識されるものである。運動の因果関係は数によって示される時間的な位置に置き換えることができる。すなわち、数の前後関係によって運動の前後関係を表すことができる。しかしながら、その認識は時間感覚が与える連続性の表象とは異なるものである。運動の連続
性は推論されるものであって、感覚として表象されることはない。運動の推論は現実の運動と対応していることを考えると、認識の外においても運動の因果性は認められるだろう。しかし、ここではその点については立ち入らず、次のことを強調するにとどめる。すなわち、時間感覚によらない運動の因果性は、時間感覚によって得られた時間の連続性と同じであるとは限らないということである。というのも、時間感覚の連続性は運動の連続性と異なって認識されるからであり、また、時間感覚ではない時間が運動の因果性と対応するとは限らないからである。時間感覚仮説の時間論は時間と運動とを、また、認識における時間と認識の外における時間とを区別する。そのことによって、この仮説は時間の連続性の認識を保証するのである。

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