【人は変わる、残念ながら】
最初に断っておくが、この文章は恐らく不快な内容になると思う。僕自身のものすごく理不尽な感情についての内容だからだ。そしてこれは僕とある友人についてのことだ。
僕の友人は凡そ二つのタイプに分かれる。やたら自分自身について客観的に向きあい、自己分析を止めないタイプだ。僕自身こういうタイプなので、そういう人と仲良くなりやすいのだと思う。
そしてちょっと変わった人生を歩むことが多い。
もう一方は余りそういうことは考えず己についての自己分析を過剰にせずに、興味関心のまま
そしてレールに乗って生きるタイプだ。
今回は後者の友人についての僕の想いを吐き出すこととしたい。その友人とは地元からの仲で、学校の中ではズレた価値観を持って浮いていた僕を気にかけ、良く遊びに誘ってくれた。
今はすでに所帯を持ち、社会的にもそれなりの地位の仕事に就き、僕をまた子どものときとはスケールアップした遊びに誘ってくれる。それはレジャーであったり変わったところへの旅行だったりする。
僕自身がよほど嫌なものでなければ、誘いには乗るタイプだから誘いやすいというのもあるのだろう。孤独な学生時代を経験していた自分の恩人の一人だった。
しかし直近その友人と会っているときの僕の感情は穏やかな物ではなかった。それは彼に対する呆れや失望感に近い感情とそんなことを想ってしまう自分自身に対する怒りだ。
丁度先週も会っていたが、僕はその友人との会話を適当にいなしながら、何故自分がそんなことを想ってしまうのか考えていた。
冒頭に記載したように僕には大きく分けると二つのタイプの友人がいる。僕含めて、自分自身をやたら客観的にそして分析しようとするタイプは恐らく他者からの強烈な否定の経験があるのだと思う。
それは身体的なものか、精神的なものかはわからない。他人のほんの思いがけない言葉だったかもしれない。もしかすると人ですらない通念や原理だったのかもしれない。
そういうものと接触し、こう感じた経験があるのだろう。「俺は他人とは違う、同じ生き方が出来ない」
他者、社会、一般通念からの否定・拒絶をぶつけられた者は、その否定拒絶を己自身の中に取り込み、内面化してしまう。
他者からの拒否感を自分自身のものと考えるようになってしまうのだ。その状態は苦しく、耐え難いものだ。だからそこから逃げようと必死に理由を分析し、変わろうとする。
逆に何かから誰かから拒絶を受けなかった人間は、そういうことを考えるきっかけがない。だから目の前のことをこなし、社会からも肯定をうけ、自分自身を否定することをしない。
どう考えてもその方がいいにもかかわらず、自分を分析し、変わろうとしない人間を僕は気が付けば、見下してしまう。それはもしかしたら嫉妬にも近い感情なのかもしれない。
本当にふとした会話でその差を見せつけられてしまうから、ふとした考えや解釈の違いで、その事に気づいてしまうから。いつからか、僕は彼といるときに作り笑いを浮かべるようになっていた。
社会という尺度から更に客観的にみると彼の方が成功しているし、何の非もない人生を送っているのに。。。
いや勝手に彼のことをそのように理解したつもりになっているこの醜い想いこそが本質的な課題なのだろう。何の悩みもなく10年~20年と全く変わらない人間などいるはずが無い。
いろいろグダグダ言ったが、この負の感情は僕が変わってしまった事に起因するのだと思う。変わらずにそのままに見える彼を妬んだのだ。勝手に変わり、勝手に悲しみをぶつけているのは僕だ。
これを本人にぶつけることは今はできない。一体何故そのように僕が思ってしまうのか、僕は彼にうまく伝えられるイメージが湧かない。きっとさらに僕は変わるしかないのだろう。
その彼に対する惨めな感情を乗り越えて、受けれたときにまた彼と笑い合えるのだろう。その日を僕は自らの手でつかまなければいけない。勝手に変わった僕の責任だから。