「幸せは誰かの犠牲によって成り立っている」は本当なのか
「幸せは誰かの犠牲で成り立っている」と言う人がいる。確かに私が今生きているのは親が自己犠牲して私を育てたからだと思うし、私が今まで食べてきた肉とか魚とか野菜の命とか、そういうものを犠牲にしてきたといえばしてきた。
精神的なことを言えば、未熟だったからこそ傷つけてきた人とか、いないとは言わない。いる。それを勝手に私の中で学びにしてしまって、今私が社会的な生活を送れるようになるまで回復したとしたら、確かに犠牲にしているとも言える。
幸せになる時は、自分も周りも幸せ(ベストな関係)になる
でも、「幸せは誰かの犠牲の上で成り立っている」と言うのはやっぱり何かちょっと違うんじゃないか、というのが私の考えだ。(とりあえず物質的に恵まれているとされている日本では)。
例えばだが、すごく自己犠牲しがちで人に尽くす人と、それに調子をこいてとても傍若無人に振る舞っているカップルがいるとする。
「片方は自己犠牲ばかりをする人で、もう片方はそのパートナーが尽くしてくるのをいいことに、調子こいて幸せになっている」と捉えられがちだが、これは2人揃って不幸になっていってると私は捉える。
つまり、自己犠牲している人間も、されている人間もどちらも幸せにならない状況である。これは家族とか友人グループとか、職場の人間関係とかでも言えることだと私は思っている。
企業で言えば、トップの人間がどういうタイプの人間かで組織の運命自体が決まってしまうと言っても過言ではない。
例えばトップの人間が独裁的だったとして、周りの人間の意見を一切受け入れずに自分のやりたいようにやる。一見下々の人間を犠牲にして好き勝手できて楽しそうに見える。しかし同時に組織ごと腐っていっているのだとしたら、下々の人間もワンマン社長も一緒に不幸になっている。
なんならその下々の人間のその家族も、そのワンマン社長の周囲の人間も、全員一緒に不幸になっていくのだ。
もしトップの人が独裁的でなく、きちんと下の人間の意見も取り入れ、「皆にとってベスト」までいかなくとも、「ベター」くらいの落とし所を見つけられる人格者だったら。
当たり前だけどそういう人なら、長い目で見た時に組織の安定を図れるし、それは皆が幸せになれる。それがベターな選択肢と言えるのではないか。そしてそういう選択肢は、いつも存在しているのではないか。
周りも自分も不幸にしていく損な生き方
それなのに、「傍若無人に振る舞ったもん勝ち」を美徳としている(ように見える)人間が存在するのはなぜなんだろうか。長期的に見た時に、どう考えても損な生き方だと思うが、どうなんだろうか。
過去には、自分が「ベターな落とし所」と思って提案したことを、敵意とみなして排除してくる人間もいた。でも、私にとってそれが愛だと判断したから起こした行動であった(ただ幼かったのもあって、やり方は良くなかった)。
当時はたとえ理解されなくても、無理して一緒にいて集団ごと不幸になるより、敵認定されて排除されてもお互い離れたことが、結果的にベターな選択だったと思っていたからだ。(まあ、それも私のエゴだったんだろうが)。