[読書]松村進吉『丹吉』
よう、オレだぜ。今回紹介するのはコイツだ。
いやはや大変面白かったぜ。
本作は丹吉という化け狸が弁才天の神使として認められるための試練を受けることから話が始まっていく。丹吉は江戸時代に生まれ、助平心から何人もの女人と関係を持っていたが、男衆から逆恨みされることで袋叩きに合い、陰嚢の形をした石に封印されちまっていた。それが令和の時代にもなって《プチ弁天》の見栄のために神使見習いとして受肉を遂げることになる。
氏子である松浦とち子との精神的なつながりを通じて、丹吉は現代社会の文化に詳しくなっており、娯楽映画やネットミームなどの楽しみ方を心得ている様は実に愛嬌があり、声を出して笑わせられる箇所がいくつもあったな。
物語の前半は、基本的にはとぼけた会話が続けられ、人間に正体がバレそうになるたびに忘術を駆使する羽目になるのだが、そのテンポも心地よく、道化芝居の真骨頂とも言うべき、ドタバタ劇が繰り広げられる。
たとえば、出雲大社の大国主命の神使である武闘派の兎との出会いがまさにそうだな。兎は修行の眼目である妖怪退治を成し遂げられず、20年もの間、主のもとに帰ることができないでいる。もう日本からは妖怪の姿がほとんど消え失せてしまっていたからだ。それで諸国を旅した果てに、とくしま動物園の小動物と触れ合えるコーナーか何かで、あたかも夜職の女性のように幼きケント君を誑かしていたところを丹吉に見咎められるわけだ。
兔は「どうせ丹吉は神使候補の資格を失って妖怪堕ちするだろう」と命を狙いながら、丹吉は「妖怪がいないなら神使をクビになる」と怯えながら、二匹は心暖かな(?)関係を築いていくのだが、その関係は言わば《「追いつ、追われつ」は道化の基本芸の一つ》(同書、p.86)となっており、丹吉は神使として真面目に働くよう尻を叩かれることになる。
ぐうたらで短気、女性にだらしなく、長い物には巻かれがちで、言い訳ばかりだが、いざという時には義侠心を見せる丹吉はトリックスター的なアンチヒーローとなっているぜ。
そして物語の後半に出てくる化け狸たちもただただ可愛らしい存在じゃねえ。しっかりと妖怪をしており、凄惨な阿波狸合戦や狐たちとの政治闘争など、かなりヤクザな世界が背後に広がっていることが窺える。
オレは徳島に行ったことがないので、ローカルな場所の話をされても風景をいまいち想像できないのだが、それでも狸たちが「土地と因習、過去に縛られた存在」であることは伝わってきた。神話的な世界に片足を突っ込みながらも、同時に俗っぽい世界を生きる連中は、ある意味「境界」の中に閉じ込められている。それはニンゲンと同じだと言えるだろう。
しかしながら地方特有の閉塞感のあるニンゲンの世界と自由だが危険な妖の世界を大騒ぎしながら行き来する連中を見ていると、「こんな連中がいてくれたらいいのに」と読み手の心を賦活する面があるようにも感じられもした。
アメリカの神話学者ジョーゼフ・キャンベルの著作中に神話を失ってしまったことで生じる現代人の孤独について言及している箇所があるので、引用してみるぜ。
ニンゲンを化かす存在を信じるということ――それは荒唐無稽だ。どうせ信じるなら、救う存在を信じたらいいじゃないか。だが、何があっても自分たちのことを見守ってくれるような隔絶して立派な存在よりも、信じる側が身を正さないと危ういなと思ってしまうぐらい頼りにならず、油断できない存在の方が、かえって現代に生きる者たちの心に親しみが湧くこともあるのかもしれないな。
ヘッ、こんな連中がいてくれたらいいのによ!