気がつけば(途中抜けはあるものの)25年も平沢進という男を追い続けた一人のリスナーが語る何かいろいろな思い出
【まず始めに(宣伝も含めて)】
上記の記事では主に出会いと馬骨復帰についてのみを重点的に書かせてもらったんですが、近年の私のツイッターアカウントをフォローしてくれる人の大半が「馬骨歴1ケタ(特に2019年のフジロックや頭痛によく効く都市伝説化した賢者のプロペラ1がきっかけの人が大半だった※私調べ)」という現状におののいたのもありますが、タイミングよく「音のみぞ3号」が発刊されたおかげでまだ購入していなかった号も同時購入し2号の第2特集であるリスナーによる寄稿文を読みそれに影響されたから書いてみたくなったという体たらくではありますが、ひとつお付き合い願えればと思います。
「音のみぞ」はこちらのサイトから購入可能(平沢進本人のインタビューなどは収録されてません、あくまでも平沢ファンの有識者達や関係者による寄稿文が中心です※ココ大事)↓
https://shop2.fascination.co.jp/products/list?category_id=1
ついでというわけではありませんが、P-MODEL20周年記念書籍として発行された「改訂復刻DIGITAL版 音楽産業廃棄物」の電子書籍版(通常書籍版はいまや入手困難なのでこっちをおすすめ)や、かつて存在したパソコン通信で連載された80年代からの平沢進とAMIGAとの戦いの記録(笑)「来なかった近未来」(電子書籍のみの販売)もたいそう面白いので買って読んで。マジで。↓
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【1990年代後半の思い出】
1995年当時、北海道の一地方に住んでる17歳JKの私が平沢進という存在を知ったのはとても珍しいことで、よく通販などで利用してた東京の中古レコード屋の店長などから『ずいぶんマニアだね』などとよく言われた。(他に探してたものがメトロファルスとかPINKとかの時点でさもありなん。だいたい90年代半ばに80年代ニューウェーブを好きになってしまったばかりにだいぶ苦労してね…)
しかし今考えてもオールバックにタートルネックで腕組んでなんつーかビジュアル的に黒すぎる御人(SIM CITYの頃なのですでに40代突入)に興味持つ17歳JKも相当変わり者だなと今現在の40過ぎても思うんですよ…(待てや)
(もし当時の自分が今の平沢さんのビジュアルで知ったら果たして興味を持ったのだろうか…いや、ムダに厨二くささが増してるから拒否反応おこしてたかもしれない(ものすごく冷静に))
当時は「CD文庫」や「CD選書」といった簡素なジャケットで低価格の再販(初CD化作品も多かった)のおかげでP-MODELの作品のほとんどは手に入れやすかったのも幸いであったが初期中期の温度差によく付いていけたなと今でも思ってる節がありまして(本当にねぇ)今考えても順応性高すぎw
当時はTKサウンド全盛期、TKが絡めば100万枚はCDが売れた時代だったんでとかくクラスでは浮いてたわけですよ。
クラスの派閥もV系(ラルク、GLAYなど)、J系(CDデビュー前のジュニアがやたらドラマに出てた頃)、アニオタ系(当時はアニメ好きと知られたらカースト最底辺まっしぐらだったんだよ信じられないようだが)
そんな中で当時の平沢関連の情報源の最重要雑誌であったキーボードスペシャルとかサンレコ読んでるなら浮くに決まってますよ。
1997年10月に初めて改訂P-MODEL(すでに上領さん脱退しててTAINACOというバーチャルドラマーのデビューライブだった)を見に旧赤坂BLITZに行ったが観客の年齢層がまだ高めの頃の話、当時19歳くらいですでに上京して生活してた高校の同級生と一緒に今で言う双子コーデ(チャイナシャツ、私は青で相方は赤だった)で見に行った我々を見て10以上は離れてると思われる先輩ファンのお姉さまからライブ終わりに「こんな若い子がライブ来てくれる様になったのね…何がきっかけで知ったのか聞きたいから一緒にごはん食べよう!」と近くにあったコージーコーナーに連れてってもらい凄くいろんな話をしたことは今も自分にとっての先輩ファンとしての憧れというか指針になったと思っている。(以下のツイートはその思い出。ツリー化してるからポチっとね)
ものすごく余談だが、アルバム「電子悲劇/~ENOLA」(1997年発売版)のパソコンでしか見れないおまけデータに「非局所性ライブダイジェスト映像」というものがあり、実はこれに一瞬だけ写ってたんですよ…(内容は旧赤坂BLITZと大阪HEATBEATのライブ映像を繋ぎ合わせたもの)
言い訳させてもらうと、この当時のパソコンで見られる映像ファイルの解像度の低さのせいで見てた場所と服の色はほぼ一致してたものの確証が持てなくてずっとモヤモヤしてたんですが、近年動画サイトで拡大してみたところ横に一瞬だけ同じタイプの赤いチャイナシャツ着てた相方の姿が見えましたので20数年越しの確定とさせていただきます…(号泣)
(あえてニコ動を貼ったのはコメントが面白すぎるからです)
あの当時はネット接続もまだまだ普及前(それこそ金持ちの道楽みたいな扱いだった)、それでもすでに東京大阪つくばの今で言うテレワークを実践してたんだからちょっとよく考えなくてもおかしい。いや、そもそも福間さんを見つけたのが当時ネットで小西さんがナンパしたという逸話も本当にあの当時としても明らかに略。(今の時代なら当たり前のような話だが1994年の話ですからね)
そしてこの当時何としても情報収集のためにパソコン買ってネット接続したかった私、しかし当時のデスクトップパソコンは安くても30万はする高級品(但しスペックは今のスマホの方が高いというのは野暮というものだよ、だって20年以上前の話なんだからw)、何とタイミングよく親戚がPC-9821(NECから出てたパソコン)買ったはいいが年賀状の制作以降ほとんど使っていないという話を聞きつけ「残りのローンは自分が払うから譲ってほしい」と交渉し見事にゲット、更に当時の自室は昔土地内で借家をやっていたがすでに人に貸していないため長い間自室の無かった私の念願の自室となり電話回線も問題なく使えたことにより見事ネット環境を手に入れたのであった。(だがそれが数年後に色々大変な事になるフラグだったとは…)
改訂P-MODELは6年の活動中何と3回も札幌でライブをしてくれたのですが、過去何回札幌に来てくれたか調べたら1984年10月28日の大谷会館(創成川通りに存在したそうで札幌バンドのライブのメッカだったとか)、1985年11月4日の札幌ペニーレーン(今の二十四軒ではなくすすきのにあった時代)、1996年3月9日の札幌ペニーレーン24までなんと13年近くも待たされたんだ!!!!!(機材の量が多いから移動の問題もあるし仕方ない)
ただしこの日は親が全く知らない聞いた事ないバンドであること、まだ未成年のJKである以上一人で札幌に行かせられないうえ、椅子のないライブハウスであるという理由で親からNGが出され一生ものの後悔をするのであった。
当時別に推してたKANさんのコンサートはほぼ必ずホール(厚生年金会館)だったのと、中学時代のこと(酷いいじめを受けてた)もあって親同伴ならOKということで行ってたということをちゃんと説明しておく。そうじゃないとただ頭ごなしにダメだと言われたと勘違いされそうだからねw
その間に平沢さん当時の事務所やめてケイオス設立するし(その頃本当にファンは大変だったんだから! オールナイトイベント欠席から始まってクリスマスに予定されてたライブイベントの中止、当時メディア出演などの情報を仕入れるのに頼りにしてたテレホンサービスは更新されなくなったし…なおケイオス設立のご挨拶文章が届くまで半年近くですよ、その間にライブビデオ2本出たものの今じゃ絶対考えられないことである)
そもそもあの事務所、平沢さんの件の1年以上前にも戸川純ちゃんとトラブル起こして彼女は自傷行為までしてますからね…(めざましテレビでそれを知って泣きながら呆然としたのも辛い思い出であった)
数少ない札幌でのライブ、そのうち2回(インストアイベントも含めると3回)は足を運べたの奇跡以上のなにものでもないなぁ。
1998年1月29日のライブでうっかりやらかしたことを未だに覚えててしかもネタとして書いてくれた馬骨師匠のレポはこちらになります。手元にログ残ってなかったのでありがたいです…ラバーメン…↓
この当時はファンクラブ公式でパソコン通信のフォーラム(部屋みたいなもん)が存在し、そこで諸先輩方にネットマナーとかいろいろ叩き込まれたような記憶。当然ファンクラブ公式で運営してたからたまにスタッフさんが書き込んだり、土曜深夜の定例チャット(オンライントーク)では謎のハンドルネームの人(スの字)がたまに遊びに来たりと、とにかく牧歌的だったなぁと思い返す。
手前味噌ですが当時の見に行ったライブや万国点検隊のログは大体こちらに残してますので
見て(威圧)
https://note.com/harcoromantic/m/mde88be0e0195
https://note.com/harcoromantic/m/m1a075b6b10f8
そんなネット普及は徐々にされつつもいまだに常時接続なんて程遠い1999年の「独自で楽曲をネット配信」とかもはや狂気の沙汰でしかなかったですよ今考えても。
そのあたりの話で割と驚愕することをまさか20年後にするなんてねぇ…
ちなみに当時の回線事情、電話回線でネットしてましたんでヘビーユーザーは「テレホーダイ」というサービスにプロバイダのアクセス用電話番号を登録して夜11時から翌朝8時まで電話代定額なので繋ぎ放題でしたが当然その時間帯のネット接続率の高さで回線速度はお察しください状態でしたよ…1曲ダウンロードするのにどのくらい時間かかったか、うちの環境では一晩でしたが何か。(当時はこれが普通でした)(常時接続なんてもっと後だし、そもそもこの時期はADSLサービス開始前だよ…)
パソコン所持していてもネットに繋がっていないユーザー向けに某パソコン雑誌の付録CD-ROMにも当時サイトで公開されたサンプルデータ(某所対策として歌詞や一部メロディが違うというやつ)を収録してくださったのはマジでありがたかった。
しかしさらに剛の者は当時出始めでめちゃくちゃ高額だったCD-Rドライブを購入してMP3データを通常のCDドライブで聞けるようにと奮闘した人の話も…とこうして当時のファンの苦労はいかばかりか。
しかし今思うのは、先駆的な活動について行くことで少しでも技術革新の手助けになれば、というのが当時のファンの矜恃だった気がしますねぇ。
そして迎えた20周年記念ツアー、最終日(DVDになったあの公演、衝撃のラストは生で見て震えた)この頃はまだまだP-MODELは続いていくものと信じて疑わなかった。
翌年のインタラクティブライブ「賢者のプロペラ」は変則2デイズだった故結局行けずじまいだったのが残念だった。(そもそも12月というクソ忙しい時期にそんな変則2デイズとか行けるかボケ!と悪態突きまくったもんじゃった)
しかし2000年12月に届いたGN会報7号に書かれたいわゆる「培養宣言」によって現在の形での活動の解体が発表され、そのショックで3日寝込んだのは私だけではあるまい。むしろ私だけだったら泣くぞ。
【培養宣言後】
何か大事なものを失った人というのは生きる気力を一気に失い、ここからの記憶がほとんどありませんマジで。
まだGN会員資格は残っていたのでほぼ惰性でCDを買い(ヒラサワエナジーワークスは面白いことやったなぁと少し気持ちが復活し掛けたがソロ曲のPっぽいアレンジにはちょっと疑問があったのは事実)、つくば万博記念公園でのソーラーライブも2日目だけ参加したもののすでにこの時期には別の推しが出来た時期でどうにも数年前までの熱狂感が生まれずCDは買うがこれ以降のライブも全く参加せず、核P-MODEL始動にいたっては「ああもう無理かも」と思いあの頃にはもう戻らないんだと漠然と思った。(新しいことしか考えない人なんだから過去に戻る人じゃないって今ならわかるよさすがにね)
そして9.11に端を発したディストピア3部作、30周年の還弦プロジェクトでのリメイク商法に走りやがって感で完全に私の心は離れてしまったのでありました。
(KANさんの渡仏ショックなどもあって音楽を聞く余裕すらなく今考えてもどうやって生きてきたのかわからない)
そして悲しい事件は起こったのです。
自宅の自室は前述の通りかつて借家だった離れの家だったわけで私が札幌で一人暮らしするのにすでに車を手放した関係で少しずつ荷物を運び出していた頃、実家では両親が家庭内別居状態となり母親が私の住んでた部屋で生活するようになりました。
そして母親はこの頃から睡眠剤がないとまともに眠れない状態、そして寝タバコやらかして寝室にしてた場所の一部を焼き、その消火作業によってまだ残してた雑誌や会報、VHSやカセットテープの一部が焼けたり水浸しになりという最大のトラウマ案件が発生。(残ったポスターや写真類はすでに札幌の家に持ち出していたもしくは本家の納戸にあったもの)
今でこそ何とか立ち直れましたが、当時はKANさんの渡仏ショックなどの件もあって完全に心が折れ、音楽から何となく離れていったのです。
【それからのこと】
また音楽を聴くというところに至ったのは2010年にKANさんがライジングサンに出るというのを聞いて初めて夏フェスというものに行って、初めて最前でKANさんを見る事ができたが当時のライジングサンは1日目のみの券が存在せず通し券がないと1日目には入れないというクソ設定だったので2日目も楽しまなきゃと思い色々見て行って、夜中にやってたニューロティカが凄く楽しくて秋にワンマンやるからと小さなライブハウスに行ったのがまず音楽を聞けるようになったきっかけ。
札幌の小さなライブハウスにほぼ毎週1回は行くくらい地元の若手バンドにハマリ、その中で見つけた大切なバンドができ、やっと砕けたアイデンティティが修復したあたりでたまたまWOWOWの無料枠でやってたベルセルクの事前特番をうっかり見てしまったのです…「灰よ」について語る平沢進の姿を…実に15年ぶりに姿を見たはず。思わずこう口に出たよ。
「老けたなオイ!!!!!!!!!」
そりゃそうですよ、干支を一回り以上経ってるんですから。(自分だってゲフンゲフン)
元々ベルセルクは好きなマンガなのですがまぁ何せ連載年数の割には話が進まないやつでしたが2021年の三浦建太郎先生の突然の訃報により終了は叶わぬものとなりました。
1997年の「剣風伝奇ベルセルク」は平沢さんが音楽ほぼ全般を担当されたこともあって見ましたがまぁ救いようのないラストですから(そこまでをアニメ化するということだったから仕方あるまい)それ以降の話がようやく映像化されるならと見てしまい、そしてうっかりこれを買ってしまったばかりに(迫真)
https://susumuhirasawa.com/special-contents/release/ash-crow/
しかしこの頃はまだCD買って満足してたせいでライブ第9曼荼羅には間に合わなかった…(あとで上領さんが参加と知って大後悔した)(どうしてお前はいつもそうなんだ)
そしてココで役に立つのが公式無料配布サイトの存在であります…昔からやってきたことがここで役に立つなんてねぇ(まさかまだ続けてるとは思わなかったんだよ)
http://susumuhirasawa.com/free-music/
2018年の核P-MODELとしてのライブ「回=回」で何と生で見るのが2001年のソーラーライブ以来17年ぶりという私でしたが、皆さんおおむね受け入れてくれてありがとう。皆さんのおかげでまたこの界隈で楽しくやっております。
翌年まさか2019年のフジロックに連れてってもらえるなんて思わなかったなー、会場の音はかなりひどかったけど(低音が酷すぎて声がまともに聞こえなかった)フェスだから別に怒る理由もなかったし…ライジングで一度経験してるからなんとなくわかる強さを感じた瞬間だった。
翌日早朝のYouTube再配信でようやくちゃんとした音で見ることができてアレはありがたかった。(新潟市内までその日のうちに戻ってネットカフェに滑り込んで一夜を明かすという無理すんな40代状態w)
フジロック選曲も最高だったよなーアレは行ってよかった。
(2020.11.23追記・フジロックのフルヘッヘッヘの映像が公開終了になったためYouTubeへの動画リンクを削除しました)
今年の2K20ツアーは大阪も東京も何とか行けたけど、あのあと世界の理がおかしくなっちゃったから、そういう意味でもとんでもない強運の持ち主だったかもしれない。
大阪を見終わってすぐに書きなぐったもの↓
東京2日間の雑感↓
長い間離れていたとしても、帰ってこれるってすごいことだと言う話ですよ。(それとあるフォロワーさんに言われたことだぞw)
しかし振り返ってみると最初の数年が濃すぎたゆえにって気がしなくもないんだが、今もあまり応援する上でのテンション変わってないところを考えると一度離れたことがいい方向に作用してるんだと思うんですよ。
40年以上活動休止も全くせずにずっと走り抜けて、気がつけば孫レベルの年代のファンの方が多くなって、と書くとやっぱりおかしいわ平沢進(迫真)
そして2021年再びフジロックに出演するとかもうステルスメジャーとは何だったのか(しかも2番目に大きいWHITE STAGEのトリですよ?)
これでまた見つかってしまうではないか(歓喜)
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