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「運命」は、実は悲惨な運命ではない。(3分間クラシック#1)

3分間で、カップラーメンが出来上がるのを待つ時間で、クラシック音楽のすそ野を広げることはできるのか?

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ベートーヴェン/交響曲第5番 ハ短調 op.67「運命」

「よく知ってるよ」
「あの、♪ジャジャジャジャーン♪ってヤツでしょ」

「運命はこうして扉を叩くのだ」とベートーヴェンは、実は
「言っていない‼」
のだが、この ♪ジャジャジャジャーン♪ で表現される運命は、決して明るい運命ではない。なにか恐ろしい、これから待ち受ける、逃れられない悲惨な運命が、自らに課されるよう。ここがBGMで使われる場面は、ハッピーな場面ではないはずだ。

でも、あの ♪ジャジャジャジャーン♪ が終わったら、つまんなくなってしまわないだろうか?この曲、いきなりオイシイところが来てしまうので、あとはもう、お腹いっぱいになってしまうのだ。

以下、24分から27分にかけて「3分間」ご覧ください。
(第3楽章終わりから第4楽章始めの部分)

ベートーヴェン/交響曲第5番 ハ短調 op.67「運命」
(指揮)アンドレス・オロスコ=エストラーダ
(演奏)hr交響楽団(フランクフルト)

いかがでしょうか。
張り裂けんばかりの「喜びの音楽」である。
あの ♪ジャジャジャジャーン♪ と同じ曲である。

第3楽章の終わりの部分は、ティンパニが ♪ドドド♪ と小刻みに小さく叩かれる中、弦がなにかフワフワして落ち着かない様子でさまよう。それが徐々に安定して音程が高まり大きくなる。そして、その頂点に達した音楽が爆発する第4楽章へ突入する。
あの、恐ろしくものが待ち受けるように思えた「運命」は、「歓喜」であったのだ。

ここで「あれ?」と思う方もいらっしゃるかもしれない。
楽章と楽章の間は、一旦休憩のようになるのだが「運命」はその休憩がないのである。この作品以外にも休憩がないものは存在するのだが、それはこの作品以降のもの。つまり休憩なしで楽章を続けてしまったのはベートーヴェン。そしてこの「運命」が栄えある第1号なのである。

これは、それまでなかったクラシック音楽のおきて破り。大転換点なのである。この部分を目の当たり、いや耳当たりにすることだけでも大きな価値だと思う。

第4楽章の、なんと勇ましく強い音楽であろうか。
私は、ここで出てくる旋律を ♪か・も・めーのす、い、へ、い、さーん♪
と、なぜかいつも口ずさんでしまうクセがあるのだが。
トランペットをはじめとした金管が輝かしく鳴る高揚感はたまらない。それは第3楽章終わりのあの不安定な音楽からの反動、そして何より、先に書いた楽章を続けるという、おきて破りが絶大な効果をもたらしたのは間違いがない。

もうひとつ、ここでクラシック音楽の大転換点をみることができる。それはトロンボーンである。ベートーヴェンはトロンボーンを交響曲で初めて使用した。それまでは宗教的な儀式、例えば葬儀やミサなどで使われる楽器であったのだ。それが華々しく、明るい未来に向けた音楽の中で鳴り響くのである。

ここを聴いてしまうと、おそらく3分間では、音楽を止められなくなるのではないだろうか。カップラーメンが伸びてしまう。

最後に
この作品を「運命」と呼んでいるのは日本だけである。
なぜなら、上記の「運命はこうして扉を叩くのだ」とベートーヴェンは「言っていない」のに、この創作された逸話をそのまま受け継いでしまっているからである。ベートーヴェンの手伝いをし、伝記を書いたアントン・シンドラーという人が、伝記の中で勝手にそう書いてしまったからである。

でも、私は、あの ♪ジャジャジャジャーン♪ は「運命はこうして扉を叩くのだ」という表現にピッタリの、なんと素晴らしい表現だろうか、と思うのだ。

それに比べて ♪か・も・めーのす、い、へ、い、さーん♪ は、なんとも幼稚でお恥ずかしい。。。

PublicDomainPicturesによるPixabayからの画像

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