ブルックナーのジャズ・シンフォニーから、ブルックナーの心の呟きを妄想してみた(クラシックの編曲作品を聴く楽しみ)
CDプレイヤーを通して流れ出した音楽を聴き始めてから、しばらくたったわたしは思わず笑ってしまった。
それは、予め想像も出来ない「挑戦的」な音楽が面白おかしかったからではない。
まあ、確かにヘンテコに聞こえる部分も多くある音楽なのだが、わたしの体は、いつしかブルックナーの音楽に合わせて揺れ動いていた。
つまり、あの、眉間にシワ寄せながら聴くのが似合っているようなブルックナーの交響曲に合わせて体がスイングするという前代未聞の自分自身に、ふと気が付いたからだ。
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クラシック音楽作品をジャズにアレンジした作品は結構存在していて、バッハやモーツァルトやショパンの名曲にジャズのイディオムが加わると、原曲とは一味違うカッコ良さがある。
でも、その中にはブルックナーは入っていない。アレンジされる候補からは完全にスルーされている。
その理由は「ブルックナー」と「ジャズ」の間にある距離が、お互いの姿が見えないほど、遠いもの同士だからだ。
ただでさえ、ブルックナーが所属するクラシック音楽業界のファンの世界において
『ブルックナーの音楽は、なかなか理解できないよね』
という会話が交わされているわけだから、ジャズ音楽業界から「ぜひジャズでアレンジしてみたいんだけど」というお誘いが来ることは無いわけだ。
しかし、そのなかなか理解できないブルックナーの交響曲を「ジャズにアレンジしちゃいました」というCDが存在していた。
そのCDのパッケージ裏には
というコメントが大きく書かれているのだが、マイルス・デイヴィスを愛するジャズ音楽ファンの皆様から、そしてクラシック音楽、特にブルックナーをとことん愛する、いわゆる「ブルオタ」の皆様からは
『いったい何言ってるのかわかんないですけど・・・』
という声が聞こえてきそうな過激なコメントである。
この作品の編曲をし、演奏もしているトーマス・マンデルのコメントなのだが
とのこと。
これだけでは肝心なマイルス・デイヴィスのことにも触れられていないので、個人的な解釈を付け足してみると
即興演奏と言えば現代においてはジャズだ。だから、即興演奏を得意としていたブルックナーは、現代においてはジャズ・ミュージシャンにあたり、その代表的なプレイヤーはマイルス・デイヴィスだ。だから「ブルックナーは19世紀のマイルス・デイヴィスだ」
ということなのであろう。
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しかし、即興演奏はブルックナーだけが行っていたわけでなく、それ以外のオルガン奏者や作曲家たちで即興演奏を得意としていた人物は多い。
だから、なぜ「ブルックナーは21世紀のマイルス・デイヴィス」なのか?
が、トーマス・マンデルの言葉だけでは、まだ釈然としないのが気になる。
そもそもマイルス・デイヴィスの音楽をそんなに良く知らないので、マイルス・デイヴィスをジャズに置き換えたうえで、こんな過激な個人的妄想をしてみた。
『実は、ブルックナーは、交響曲においてもオルガンのように即興演奏を取り入れたかったのではないか?』
交響曲では基本的に即興演奏というものは登場しない。楽譜に書かれた通りに演奏されるものである。
先のトーマス・マンデルのコメントを引用すれば、ブルックナーは「即興演奏を披露するコンサートで、後に交響曲となる数々の要素を繰り返して試みていた」。そして、そのアイデアを交響曲の楽譜に落とし込んでいったのである。
しかし、交響曲が完成し、演奏されるにあたって「これは演奏できない」とか、初演を聞いた批評家や知人から「あの部分はこう直したほうがいい」などの辛辣な意見がブルックナーに対して浴びせられた。
それにより、交響曲の楽譜をどんどん改訂していく作業にかなりの時間を費やしたのだが、それが「版」とか「稿」という、現代のブルックナーに付きまとう大きな問題のひとつになっていったのだ。
ブルックナーは、改訂作業中に、きっと心の中でこう呟いたのではないか。
「交響曲が決まった演奏ではなく、オルガンの即興演奏のように、自分がその時感じたように、都度変えて演奏できたらいいのに・・・」
それなら、数々の要素を交響曲中でも繰り返し試みて、批評家の厳しい意見をもらったとしても、次回はまた即興演奏によって解決でき、その時のベストの作品として鳴り続けることができるのだ。
このCDはブルックナーが心の中で呟いたかもしれない、即興演奏による交響曲を実現させたことになった、と言える。
しかし、もしそれが現実になっていたら、現代においてブルックナーの交響曲は「版」や「稿」の問題以上に謎が多くなっていただろう。楽譜にも記録されず、もちろん録音技術も存在しない当時の即興演奏という一期一会の、ブルックナーのベストの交響曲がどのようなものであったのかが残されないためだ。
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もう1点、このCDで気になったことがある。
このCDに収録されている交響曲第5番のジャズ版が音楽が演奏され、収録されたのは2007年なのだが、このCDが発売されたのは、それからかなりのブランクが開いた2020年である。
いったいなぜ、こんなに時間がかかってしまったのか?
その正確な理由を見つけることができなかったので、再び個人的妄想をしてみた。
『おそらく2007年の段階では、ブルックナーの交響曲をジャズにアレンジするという試みは、かなり実験的な段階のものであり、これを広く世に知らしめることには、まだ時期尚早であったからではないか?』
2007年はどのような年だったのかを振り返るにふさわしい行事として、毎年末に発表される「今年の漢字」というものがあるが、その年、清水寺の境内で、数々のメディアが注目する中、書かれた一文字は
「偽」
であった。
食品偽装表示や、年金記録問題、防衛省汚職、テレビ番組の捏造などが大きな問題となった年だから、嫌なイメージを醸し出す漢字が選ばれてしまったのである。
そんな渦中でこのCDが世に出たとしたら
『これは「偽」ブルックナーだ!』
と大きく非難されていた可能性があるのだ。
そんな時代にはさすがに表に出せず、密かに生き延びて、世に出るタイミングを伺っていた。
そして、多様性という言葉も定着し、様々な価値観があってしかるべし、という時代が到来。また、コロナウィルスの蔓延という、人類の危機も匂わせる前代未聞の2020年が訪れた。
あの長く眠っていた音源を登場させるには、この機会しかないだろう。
ということで、ついに表にて出たのである。
ご注意いただきたいが、以上は先にも書いたように、わたし個人的な勝手な妄想である。
もとのブルックナーの交響曲第5番だが、最終的に完成したのは1878年であるが、初演されたのが16年ものブランクを経た1894年。すでにブルックナーの体調は悪く、遺言書を書いていたような状態で、2年後には天に召されるのである。
ブルックナーは他の交響曲の作曲や改訂作業で忙しいこともあったのだろうが、やはり、この世に出すことを、ずっとためらっていたのではないだろうか。
このふたつの長いブランクは、勝手な妄想が元ではあるが、なにかお互い共通するのが興味深い。
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この挑戦的なジャズアレンジによる演奏だが、決して「編曲者が勝手にやっちゃいました」というものでは無く、毎年8月、ブルックナーが活躍し、今は永遠の眠りに付いているオーストリアのザンクト・フローリアン開催される「ブルックナー音楽祭」で演奏されたもの。
つまり、ブルックナーに関わる公式なところのお墨付きがある演奏なのだ。
そして、クラシック音楽をジャズにアレンジしたものは、小品の名曲が多いようだが、これはブルックナーの1時間以上もかかる交響曲がまるまるアレンジされているのは驚きだ。
しかも、ブルックナー初心者として、まず聴くことをお勧めされる、聴きやすい第4番や第7番ではなく、ただでさえ長い、ブルックナーの交響曲においても大規模な交響曲第5番というのもトーマス・マンデルのただならぬ凄い意気込みを感じる。
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まあ、とにかくこれは聴かないとわからないことがいっぱい詰まった、ビックリ箱のような音楽だった。
ブルックナーの交響曲特有の、最初のモヤモヤした音楽から突如響き渡る鮮烈なエレキ・ギターや、第3楽章のスケルツォの、ノリノリでスイングしてしまうビートが効いた音楽は、刺激的で、かつとても面白い。もしかしたら、ブルックナーはこのような音楽を求めていたのではないか、とも思ってしまう。
これを聞いた後に、本来のオーケストラ版を聞くと、これまでの印象とはガラッと変わっていて、ブルックナーがさらにわたし自身のそばに近づいた存在になっていた。
『ブルックナーの音楽は、なかなか理解できないよね』というクラシック音楽ファンのかたも、もしかしたら、別角度から光を当てたブルックナーに開眼するきっかけになるかもしれない。
そして、さらに気になるのは、ブルックナーの交響曲を聞いたことが無い本家ジャズ音楽ファンの方は、このCDを聴いてどう思うのだろうか、ということだ。
これをきっかけに、オーケストラで演奏される本来のブルックナーの交響曲を聴くきっかけとなれば、クラシック音楽ファンとしても嬉しく思う。
そういえば、プログレッシブ・ロックにおいても、クラシック音楽作品の長大なアレンジバージョンも存在しているので(エマーソン、レイク&パーマー「展覧会の絵」など)、プログレ・ファンにも聴いていただきたい。
まだ2つの交響曲しか存在しない、ジャズアレンジ版による、ブルックナー交響曲全集が登場すること、そして生演奏で聴ける機会がいつか訪れることを切望している。
このコンサートの様子がちょっとわかる映像がある