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「問い」=答えをだすもの、という前提を取っ払う。
現代において「答えのない問い」は大切っていうけど、
答えを出さないまま置いておくと悶々とする。考え続けてしまう。
コレ!という答えがないとわかっていても、スッキリはしない。
「答えは人それぞれ違う」とは思える。
けど、”私の答えはコレ”を出すことが苦手な質問もある。
社会人のとき、「(私)さんはどうしたい?」という質問が苦手だった。
新人の私の脳内は、「正解」を求めて探してしまっていた。
私は営業職だから担当地域を持っていて、担当地域での売り上げを上げないといけない。
相手が言ってほしいことは何だろう?
絶対に売り上げがあがる方法は何だろう?
と、とにかく頭の中をぐるぐるしていた。
今なら質問の意図は何となくわかる。
別に、正解をいってほしかったわけではなくて
「私ならどうしたいのか?」を考えてほしかったのだと思う。
(だって絶対に売り上げが上がる方法なんてないんだから)
この場面に限らず「私はどうしたい?」という問いは
私の事なのに正解が分からなくて、正直考え続けるのがしんどい。
だから、「私はどうしたい?」と考えることに苦手意識があった。
これは「今、答えを出さなければいけない」と思っているから苦しいのだ、と分かった。
メンターさんにも
「分からなくてもいいし、すぐに答えがでなくてもいい。
だけど自分に問いかける癖だけつけておこう」と言われた。
それは答えがわかるのが今じゃなくて時間が経ってから
気づくことも多々あるからだそう。
るん読のなかでも、問われて初めて気づく自分の価値観や、考えがある。
もしくは、こうだったなーと改めて気づく価値観がある。
問われなければ、考えることなかったな~なんてこともある。
そんな風に思うと、「問う」とは答えに価値があるのではなくて
考えること・目を向けることに意味があるのだと思った。
それに、今出す答えと、5年後の答えは変わっているかもしれない。
今、多分私は人生の岐路に立っていて、
「どうしたいの?」と聞かれるとちょっと苦しかった。
でも、考えること・その問いに目を向けることに意味や価値があり
今すぐに答えをだす必要がないと思うと
「問い」は苦しいものから、楽しむものに変わってきた。
これからは気軽に、「わたしはどうしたいんだろう?」と
正解のない問を、自分に問いかけていこうと思う。
ひとこと:この考え方、もっと早くしりたかったなぁ~~。