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お世話になった上司の49日が過ぎた。

はじめに


あっという間だった。
夏の暑さに流されてほとんど家で過ごすようになっていたのもあるかもしれない。

それは突然の知らせだった


6月、以前勤務していた会社の上司だった方が亡くなった。
突然のことだった。私には知らせが来ず、夫を通じて知った。
夫も休みの日で、昼間に連絡を受けた。
葬儀場に着いてから知ったのだが、私が辞めた後で上司も転職しており、趣味の繋がりがある人づてで以前の職場にも知らせが入ったのだ。
こうして人づてで弔問客は増えていく。

喪服入らない問題


仕事柄喪服には着慣れていた。
産後、初めて袖を通すことになるのがあの人のお通夜になるとは思わなかった。60代持病はあったがエネルギッシュな人だった。
喪服をカバーから外して足を通すともう太ももから引っかかる。
嫌な予感しかしない、何とか上衣まで持ち上げ袖を通すと背中のチャックは閉められなかった。一瞬閉めたのだが、スパンッ!!とはじけた。
ワンピースには上着がある、それで隠すしかないと思った。絶対に脱げない上着もキツイ。あついそして、袖のボタンを閉めると血管が締りうっ血しそうだった。不謹慎だがこっちの息の根が止まりそうだった。

他に何か黒っぽい服はないか?と押し入れの中を探す。
なんかあるな?と引っ張り出すとUSJの某魔法学校のローブだった。
ホグワーツ…?これを纏って通夜に行ける奴出てこい。アバラ・ケダブラだ。(不謹慎2回目)

こんなもん着ていくなら裸で言った方がマシだ。
そもそもお通夜は絶対に喪服じゃないといけないことはない。
ただそのお通夜にくるメンツを想像すると正装ある喪服は絶対だと思った。
夫から昔お前のことめちゃめちゃイビッてた先輩も来るけど本当に行くの?と何度も確認される。シャッと行って、スッと帰るから。と言って行くことにした。

生前の上司


亡くなった上司は生前、仕事のいろはを教えてくれた。
特にいつも「仕事は楽しくするもんだ」と教えてくれた。
落ち込んだりしんどい局面でもいつも笑っていた。
私は当時、勉強会のあと夜中遅くまで続く飲み会が大嫌いでいつも1次会で消えるようにしていたが、同期に毎度毎度最後まで付き合えと言われたが「神隠しに遭いました…」と乗り切っていた。

その理由が酒禁止にあった。無礼講は無礼を働いてはいけない。私はその事を肝に銘じるようにと言われていた。空いたグラスにはビールを率先して注ぎ、タバコを咥えようもんなら胸ポケットからジッポを滑らしていた。ホステスみたいな会、1時間が限界じゃね?と気づいたらもう2次会まで行く気力はなかった。

それでも年に1度だけ大きな学会がある時期くらいには飲み会にも慣れ、最後まで居るように言われずとも耐えた。
「これも仕事のうち、楽しめ」と言ってもらい新人と呼ばれる期間は一発芸を持つことを覚えた。何となく場が静かになった頃に、求められる一発芸。鳩を出したりそんな大がかりなことは出来ないが、「このフォーク曲がりまーす!アイアムユリゲラー(シラフ)」と店側には完全に迷惑な力業で乗り切っていた。もう一気飲みとかコールで盛り上がる時期ではなかったのだ。

あとはハンカチが延々と繋がって出てくるとか100均で買えるようなものを仕込んでおいた。なんで仕事以外のことにこんな労力さかなイカンのや…とため息も出たがとりあえず笑ってくれる上司には頭が上がらない。

上司の教え


あとはどんな場においても「お天気野郎(意味:機嫌に左右されて日によって仕事っぷりが変わる)」と思われないことを教えてくれた。いつも笑っていられるようになるべく努力した。機嫌がいい人には機嫌がいい人が集まるし、いい仕事が出来る。
同じ部署の間ずっと心がけていた。

秋ごろの事だ、移動時間12時間(往復)研修時間5時間の日程の出張にその上司と行くことになった。ギリ日帰りの陸路で行ける場所だったが、私は前乗りで泊りで行きたいと思っていた。だって集合時間が朝の4時だった。
それでも気合で起き、長い道のりを退屈しないようにとお互いたくさんCDを持ってきて交互にかけた。親子ほど歳の離れた上司と新人で車の中はカラオケ状態だった。研修も今でも役に立つ知識と教本を貰った。

帰り道のことだ、晩御飯時に上司が「その土地の名物を食べよう」と言い出し、「やっぱり〇〇牛ですね」と食べログを検索して近くの店に入った。1500円でランクアップできるが私はそんなにお金を持っていなかったので、普通の方を頼もうと思っていた。上司は何も言わず「2人とも同じものを、大盛りで」と店員さんに頼んでくれた。

A5ランクの名物牛はそれはもう旨くてトロけた。いいお肉にはちょこんとワサビが乗っていることを知った。「うぉぉ~!!A5のフィレ!!」とフォークにブッ刺して腰に手を当てて、手を高く上げる写真を撮ってもらった。当時流行っていたFacebookに2人タグをつけてUPする。
「あの研修行ったんすか」「すげぇ」「楽しそうな研修で何よりです」「本当の親子のようですね」とよく言われた。米も最高にふっくらしていた。数ある研修や学会の中でも1番美味しかった思い出だ。

帰り道に「こうゆう風に息抜きすんだよ」と教えてもらった。それ以来、私は仕事や育児で頑張った後は「美味しいものを食べる」をセットにしている。そうすれば次があっても頑張れることを教えてもらった。

鹿が町中にいるところでの研修会では、何の気なしに鹿せんべいを購入してあげた。鹿は腹が減っていたようでものすごい勢いで私に飛びついてきた。その様子を「うちの部下が鹿に襲われています」とネットにアップされていたのもいい思い出だ。

終わりのはじまり

Facebookは仕事の繋がりと専門学校の時の友人との繋がりが多かったため、仕事を辞める時に消してしまった。今思えば置いておけばよかったと思う。あの場所にしか見れない画像が数多くあったのに、それもすべて断ち切って逃げたのだ。

私は何度も人事異動を経験している。その理由は様々で、急に辞める人(飛ぶ)が出てその補充であったり、法改正により配置基準の問題であったりだった。その頃、同じ部署の女の先輩から詰められることが多かった。心の底から軽蔑していた。私は法改正万歳と思い、荷物を段ボールに詰めて異動した。

異動先が地獄だということも知らずにノコノコとやってきたカモネギ状態。
そんな中でも「いつも楽しく」は忘れたくなかった。
だけど半年も経てば忘れてしまった。やることが多すぎる中でも手が動かなくなっていく。理不尽な要求に押し付け仕事。

私は休憩時間外でもフラリと他の部署の休憩室に顔を出してはコーヒーを頂いて、ちょっと回復して帰るようにしていた。先輩(仲は良かった)の机に置いてある未開封のレッドブルを勝手に飲み、しかもそれを持っていく重罪まではたらいていた。(近くのコンビニにしか売ってない)

最後の日はあっけなかった、ずっと前から気に入らなかった相手と、朝のミーティングでお互い意見が食い違い、感情的になった相手と殴り合い直前になった。
私の方が椅子をぶん投げ相手の机の上を滅茶苦茶にしたことが決定打になり私が異動となった。

しかもその異動先がありえない場所だったので、その話を断ってその日のうちに荷物をまとめて挨拶もままならないまま辞めたのだ。

最悪の辞め方だと思った。昼休みにSNSで「仕事クビになった。今日でサヨナラでーす」と呟くだけで「じゃぁうち来ない?」と割とすぐに転職先は見つかった。

1回か2回しか入ったことのないような重役が集まる部屋に呼び出された。
「本当に異動は辞退でいいのね?後悔はないのね?」と念を押される。
「はい。もうあの場所で自分をすり減らしたくないです。あと5年弱使えなかった有給は消化する形で退職日の調整はお願いします。少ない額だとは思いますが、退職金は必ず振り込んでください。」
いつも前触れなく辞めていく先輩たちを見て、いつか自分が辞める時はこう言わないとと思っていた。

「やっぱり原因は揉めた相手の子よね。だけどコネの子だから…分かるよね?大人なんだから飲み込んで欲しかった。あなたもやっと1人前になってきた頃。離れられるのは痛手よ。でも守ってあげられなくてごめんね」と重役の1人が言う。

「腐ったミカンは取り除かないと周りも腐りますよ」とは言えなかった。そこまで無礼なことを言えず、後ろ足で土掛けて辞められなかった。

その日の夜にお世話になった人には個人的に電話をかけて謝罪して、辞めることを伝えた。その上司も「これから先まだ長いから。こんなのはかすり傷だし、そんなに悪いことでもない」と言ってくれた。
次の朝、昨日勤務だった人はガラリとした私の机を見て「神隠しや…」と言っていたらしい。
神隠しは私の十八番である。

さいごに


結局、あの日の葬儀は、弔問客の途切れないものとなった。
多分500人位いたと思う。家族葬が推されている中、異例な式だと思った。人徳があったんだなぁと再確認する。
そしてロビーはまるで同窓会状態で誰一人帰ろうとしなかった。
私は夫を待つ間1階のソファーに座って待っていた。
すぐに帰る派の人と鉢合わせの位置に座っていた為、何人かの知り合いと話をした。普通に話せるくらいには時間が経っていた。

三途の川を穏やかな流れの中で橋の上を渡れただろうか。
天国に到着して、ぼちぼち天国での生活にも慣れましたか?
私はまだまだ現世で生きて、あと70年くらいしたらそっちに行きます。
100歳超えるまでボケることなく図太く生きますね。

どうか安らかでありますように。

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無印良品のポチ菓子で書く気力を養っています。 お気に入りはブールドネージュです。