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「チ。―地球の運動について―」 はむしろ常識を押し付ける側のお話

2年くらい前に一巻読んだだけど。最近よく見るので。


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序盤は楽しく読めていたが、中盤に地動説を掲げるおじさんと会話し出したくらいから嘘くささと薄っぺらさを感じだし、一巻の最後まで行ってもそれは払拭されなかった。


単行本を買っていってもいい基準が60点なら、80点を期待していたが、実際は45点という感じだった。


狂気や情熱を感じるとのレビューを見て、その他の評判も良かったのだが、人間の何か精神性のようなものを豊かに描いている漫画とはとても思えなかった。



時代考証の拙さ

キリスト教は地動説提唱者に激しい拷問などしていないとか、そもそもキリスト教と近代科学(この場合は天文学)は切り離せるものでもないなどという批判を見るが、それだけでは批判する理由にならないと思っている。

ノンフィクション作品であっても多少の理想化やごまかし、意図的なエピソードの削除はあるし、そもそもこの漫画は(歴史を参考にした)ファンタジーということだそうで、史実にそぐわないこと自体に問題はない。


ではもやっとする原因はどこにあるのか?


それはどこを切り取っても現れる、現代現実社会の肯定にある。


現代の価値観

一応中世ヨーロッパ(のポーランド)をモデルにしているわけで、そのどこに現代要素があるかと言えば、やはり地動説の部分になる。


現在では(少なくとも日本のネット空間では)天動説から地動説への転換は、蒙昧な宗教世界から解き放たれ、科学が産声をあげた契機の一つのように考えられているが、現実は異なる。


天動説というのはそもそも地動説との対比なわけで、古代から中世まで「天動説」というものがあったわけでは無い。空を眺めるときの世界観は大枠には一つだった。


少し想像力を働かせれば分かることだが、「天動説」は近代以前の人にとって合理的な見方なのだ。

もちろん現在は地動説が合理的だとして受容されている。
観測が蓄積しての、「惑星」の文字通りの不可解な動きを説明する上で、周転円の導入よりも太陽を中心に置く方が色々とまわりがいいわけだ。


しかしそうは言っても、遠心力や年周視差への疑問など、「天動説」の方が「合理的」に説明できる事象は(中世の段階では)あった。天動説と地動説は蒙昧と啓蒙の対決ではない。


ここまでもまた、時代考証の拙さの一種ではないかと思われたかもしれないが、私が強調したいのはそこではなく、「現代」から「中世」を見下ろしていることへの無自覚だ。


現代人はテレビや教科書で、太陽を中心とした太陽系のイラストを物心つく前からなんども目にする。

太陽と地球の移動関係についても、地球は公転と自転という二つの運動をしていますと、いわば「常識を植え付けられている」のだ。


地球は平面だとか、やぱり天動説の方が良いなどと言いたいわけではない。

現代人というのは空を見て太陽と惑星のことを考えているのではない。下を向きながら宇宙の事を考えているのだ。

実際、理科の教科書では「天球モデル」などとして、太陽の軌道を地球を中心にした球形(を模した図)で表す場合がある。天動説にはこういう部分にも一定の「合理性」がある。


現世と中世とで、宗教観や政治的な思惑だけが異なっているわけではない。


この漫画にはそのように当時の人々に寄り添っている形跡がほとんど見られない。表面的な歴史的な事項をなぞっているだけで、描写から読み取れるのは現代の価値観の影ばかりだ。


人の意志の力といったものを強調するのであれば、そして体制との対決や、常識との乖離へのもがきを通じて精神の営みを描くのいうなら、そのような敵側の「合理性」も描くべきではないだろうか?と思ってしまう。

もちろんそんなことをすれば話が込み入ってしまうが、まっとうな史実漫画として描くなら必要な描写となるだろう。


ところでこの漫画のように、何か人間の精神性について描く「ファンタジー」であればそのような配慮など無用なのだろうか?主人公側の理をひたすらに強調してもいいのだろうか?


私は場合によってはそれでもいいと思っているが、この漫画のように主人公達の「理」の行きつく先が現代現実社会の価値観に行きつく場合は、やはり史実とのすり合わせを大事にしなければいけないと考える。

たとえ話

ファンタジー漫画だというのなら、例えば「カエルの内臓を使って万能薬を作り出そうとする青年の話」でもいい。そして、カエルは神聖な生き物として扱われているので体制側と対決していくという筋書きにすればいい。

こうすれば最後は人間、あるいは個人の賛美の物語に仕立て上げられる。

そして一定程度の情熱や狂気は感じてもらえるだろう。


だが、そんな話よりも地動説を題材にした方が読者にとってより親近感のあるお話になる。

それは現実ではカエルの内臓から万能薬など作れないことが知れ渡っているからだけではなく、カエルを神聖な生き物として扱う体制側に(天動説提唱者よりも)読者が同情しやすいからだ。


カエルを神聖な生き物として扱う様は、他の文化、特に原始社会のようなものを想起させるだろう。

ところで原始社会や少数派宗教への憐憫は、中世ヨーロッパ人に対してのものよりもはるかに強く、この例のような筋書きに主人公側の情熱は見出されないだろう。

もしそのような漫画があっても。精々奇妙なおとぎ話として受け入れられるのがオチだ。

ファイナルファンタジー10をプレイしたことがある人は、ワッカとルールーの対比を思い出して欲しい。
ワッカはあれ以上に悪く描かれるべきだったろうか?

では、何故「チ。」を評価する人がいるかと言えば、敵側に同情できず主人公側に同情できるような絶妙な題材を選んでいるからだ。

現代現実社会をゴール、そして出発点に据えること(だけ)で、読者の納得感をたかめる。


先にあげたカエルの話を例にしてさらに変換して考えてみる。

例えば、体制側がカエルの内臓で万能薬を作り出そうとしていて、主人公側がカエルの神聖さを民衆に訴えかける形で、カエルの捕縛を止めようとする話を想像して欲しい。

このような主人公は(その世界において)保守的だし、何か技術においての促進を止める側になっている。それでいてカエルを神聖視する様は現代現実社会とも解離している。しかし、狂気や情熱をもって、体制側と対決するお話と言える。

ところがこのような話は、さっきのたとえ話以上に意味不明なストーリーだと捉えられるだろう。


しかしそれは、題材選びや舞台背景の構築を含めた作品の作りこみ次第では?と思ったかもしれない。

では「チ。」はどうだろうか?

ここで時代考証の拙さが効いてくる。


二つの要素とも欠けている

主人公側の正しさや理性、読者にとっての親近感といった要素に関して、そのほとんどを「天動説から地動説への転換」という現代現実社会の価値観に担保してもらっているにも関わらず、そこをおざなりにしている。

これでは何のための題材で、どこに軸足を置いて読めばいいか分からない。


ついでに言えば、死を受け入れる様や科学に殉ずる様を情熱と結びつけるのも、きわめて現代臭さを感じる。


つまり読者に精神性の豊かさを感じてもらうための題材として「天動説から地動説」が必須となっているのに、作者にとっても登場人物にとっても「天動説から地動説」が題材である必然性がほとんど感じられない。


どこまでいっても、どこを切り取っても現代と現実の視座を感じる。

キリスト教を悪役として前面に押し出しても問題ないと考えているのもその一環だろう。

これは常識を疑うお話ではなく、どこまでも(現代現実社会の)常識の中から、際限なく(現代現実社会の)常識を押し付けていく話になってしまっている。しかもそれの主体と客体を問わずに。



嘘くささはこの現代現実会の無条件の肯定から、薄っぺらさは時代考証の拙さからそれぞれ生まれている。


せめてどちらかが真っ当なら、作者の情熱を感じられただろう。

終始、題材とテーマの噛み合わなさばかり伝わって来た。


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