#12 古民家暗中模索中 ルーツ編その2
DAY25の続き 父の文字
とにかくこの家は物持ちがいい。
父や叔父、叔母の成績表、卒業証書、教科書はもちろんのこと、じいちゃんの新婚時代のばあちゃんにあてた手紙、じいちゃんの法定日誌、ひいじいちゃんの日記、昭和初期の神社にまつわる総代会についてのものなどありとあらゆるものが置いてあった。
叔父や叔母のものは連絡して、捨てていいかを確認して処分する。
しかし個人的におもしろいと思うものはとっておくことにした。
今回は父にまつわるもの。
紙類を入れた箱が出てきた。
その中に、父の小学4年生の時の書を発見した母。
母は伸びやかで綺麗な字ね、と眺めながらしみじみしている。
わたしはこんな文字を書いていた父が想像できない。
ところが、もう少しこの紙類を探っていったところ、父の20代に書いたと思われる叔父宛のハガキが出てきた。
まるっこい、若い女の子が書くような楷書。
健と書いているが、きっと叔母が代筆したのだろうと思っていると、母がそれも父の字だという。
ええ?!こんな字を書いていたの?!!
またもやびっくり仰天!!
すると母は、父の字は変化したのだという。
昔はとても細かくて、繊細な文字を書いていたけれど、一人で仕事をするようになってどんどん変わっていったのだと。
そういえば50代の頃の父はよく家で書を書いていた。
その姿は、休みの日に中国の書家、顔真卿(がんしんけい)という人の書をお手本に何枚も何枚も真剣に書いていた。楽しみよりもまるで修行のような様相であったような気がする。
文字を変える
いったいどうやってできたんだろうか。
そういえば、藤田嗣治の展覧会へ行ってきたと私に宛てたハガキがある。偶然にも何十年もあとにわたしも藤田嗣治展に行った際には同じ絵葉書を買っている。
ここから話は少し逸れる。
父と離れて暮らしている時は、こうして時々父がハガキをくれた。
私の誕生日には必ずメッセージをハガキやファックスや手紙などで送ってくれたし、それ以外にも、この写真のようにどこに行った、何を読んだ、おもしろかった。と短い文章だった。
わたしは当然他の3人の姉妹たちも同じようにもらっているとばかり思っていたのだが、父の葬儀の後、私だけに送っていたことがわかり、びっくりしたことがあった。
東京で表現教育というわけのわからない分野を目指して一人暮らしをしている私のことがたぶん一番心配だったからだろうと家族全員が声を揃えて言う。
どんなハガキでも、父はわたしの近況を尋ねることもなく、いつも自分の今の心持ちを書いていた。
20代30代の若さだけのわたしにとっては、おじさんである父の心境には全く関心がなくて、また不思議なことを書いてるな、くらいにしか思っていなかった。
晩年、父と暮らすようになって偶然に見つけたものがあった。
領収書を貼り付けるために、引退した父の事務所の裏紙を使っていた時のことだ。
事務所で使っていた紙を家の裏紙として使っていたのだ。
引退してから何年も経っていたが、大量にあるため、使っても使っても減らなかった。
毎年確定申告の時期に、わたしが領収書を貼り付ける台紙にと、その紙を使っていた。その機械的な作業をいやだな〜と思いながらやっていた。
ふと、ほんとうにふと、何気なく一枚だけ裏返して、何が書いてあるのかと見た。
すると、なんと、それは父が仕事の合間に私に26歳のバースデイメッセージを送ったファックスの送信完了の紙だったのだ!
「以下の文面を無事に送信できました」という機械の文字とともに、父の直筆の一部が記載されていたのだ。
そこには、誕生日を祝う言葉とともに、哲学を勉強することで生命の神秘に触れることがある、というようなことが書かれていた。
私はそんなファックスをもらっていたことは全く忘れていたのだった。
30年近く経った今になって、ようやく父の言いたいことがわかる。
なぜならわたしはそのFAXを発見する数年前から西田幾多郎の哲学書を読む会をひらいていたのだ。その後何年にもわたって西田幾多郎の文章に惹かれ続けることになる。
ちなみに読書会を開き始めてから父が彼の全集を集めていたことを知った。
本題に戻る
とにかくわたしが知っている父の字はいつも大きくはみ出すような感じであらゆる方向へシュッと伸びていた。そんな字のような人だと思っていた。
だからそれとは全く違う20代の頃の父の文字を見た時、本当に驚いた。
弁護士という仕事をするようになってから変わったのか、または意図的に変えたのだろうか。と考える。
わたしが小学生の頃、学校の帰りに父の事務所によって、お茶を飲んだり事務員さんと話したり、漫画を読むのが好きだった。
父は事務所では、お客さんとよく話し、時には叱責したり、怒鳴ったりしていた。
家ではほとんど喋らず本ばかり読んでいた。
しばらくは父の文字の変遷が頭について離れない。