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わかりやすく伝えるとは

はじめに

6月はデザイン系noteに力を入れ、たくさんの方に読んでいただけました。

私はこれまで、多くのデザイン初学者向けの書籍執筆に関わってきたこともあり、記事を書く際には「わかりやすく伝える」を強く意識しています。そのスタンスは多くの書き手にとって当たり前のことかもしれません。とはいえ、ただ平易な文体や構成で書けばいいか、といえばそういうことではなく、それは手段としての「わかりやすさ」に過ぎません。「伝える」って、主語が自分で一方的なので、伝わるかどうかは別問題。だから、メッセージが相手にちゃんと「伝わった」(もっと言えば、行動してくれた)ことがわかることが重要で、理想的なゴールなのではないでしょうか。

noteの記事で「知見が得られた」「役に立った」「やってみました」という意見をいただき、自分が「伝えたい」ことが読み手に「伝わった」感触を、読み手の反応や行動から伺い知ることができたので、このnoteでは、自分が実践している「わかりやすく伝える」思考について書いてみたいと思います。いわゆる「起承転結」や「結論ファースト」といったテクニカルなことではなく、コミュニケーションのお話です(対人コミュニケーションにも当てはまる内容です)。

なお、今月特に読まれたnoteはこちらです。


コミュニケーションの主役は受け手


私が意識している「わかりやすく伝える」ポイントのひとつは、

「お互い理解し合う」ことで「相手に伝わる」

ということです。私は学生時代に広報学を専攻していました。ゼミで学んだのが「Osgood- Schramm model of communication」などの概念。私がそのときから20年以上、ずっと意識している図です。

伝える
Osgood- Schramm model of communication

これらの概念をふまえ、文献を自分なりにまとめてみました。

・コミュニケーションの3要素は「送り手」「メッセージ」「受け手」
・「メッセージ」には生命はない。記号の集合として存在するだけ
・「送り手」と「受け手」の間で解釈が同じであることはない
・「受け手」は自分の役に立ちそうなものだけ選択し、解釈し、配列する
・「メッセージ」は「受け手」の文化的経験で解釈が左右される
・「受け手」が「送り手」にフィードバックし、それを手がかりに「送り手」は次の行動を考える

Wilbur Schramm : The Nature of Communication between Humans

送り手から発せられるメッセージは、受け手の文化的経験によって喚起されるものなので、必ずしも送り手の意図を正確に受け取ってもらえるとは限りません。そして、伝わったかどうかは受け手からのフィードバックを得てはじめてわかります。「伝える」の主語は自分ですが、「伝わる」の主語は相手です。コミュニケーションが成立するのは「伝わる」で、常に相手が主役です。

“伝わる”には、「受け手」の文化的経験を探ることを怠らず、フィードバックでどう解釈されたかを見て次の行動を考える。それを繰り返すことでお互いの「解釈」を徐々に解き明かし、相互理解を深めていく必要があります。人はどのようにお互いと関係しているかを理解すること。その視点がないと、一方的に伝えるだけでフィードバックすら得られません。相手に伝わらないのは、伝わるだろうと思いこんでいたり、解釈を押し付けていたり、相手のフィードバックを解釈しようとしなかったりという場合が多いのです。

私がnoteを書くときに意識した「わかりやすく伝える」は、読み手の文化的経験を喚起するために、徹底して自分の経験談(具体性)を盛り込んだことです。

ただし、実はそれだけではありません。「具体的=わかりやすい」というのは至極当たり前のことで、応用が利かないものです。そこで、「空気の流れを良くする」「川の流れのように」「見るのではなく、観る」などの抽象度の高い言葉を用いて法則化し、応用可能なものにします。一つ一つの具体的な細かいネタが記事を通して有機的なつながりに導かれていくのです。

それに対しての「知見が得られた」「役に立った」「やってみました」が、送り手である私に対してのフィードバックです。「知見が得られた」は抽象度の高い部分のフィードバック、「やってみました」は具体的な部分のフィードバックと言えるでしょう。このことにより、今後同じような記事を書くとき、読み手と解釈が共有された状態でコミュニケーションをとることができます。


抽象のハシゴを昇り降りする

抽象という言葉がでてきましたが、これが二つ目のポイントです。

同じく学生時代に『思考と行動における言語』という、言語が人の思考と行動にどのように作用するかを説いた一般意味論の本に出会いました。

「われわれはどうやって知るか」という章のなかに「抽象のハシゴ」という概念が出てきます。

目の前に牝牛「ベッシー」がいるとします。ベッシーは他にまったく同様なものがいない唯一無二の存在ですが、他の動物とカタチ、機能、習慣などで似ている点を抽象(選択)すると、それを「牝牛」として分類します。同様に抽象化を繰り返すと、抽象レベルが「家畜」「農場資産」「資産」「富」とあがっていく、これが抽象のハシゴです。抽象レベルがあがるにつれ、共通の性質は減り、外在的に存在しない(指させない)ものになります。


この章で印象に残っていることは、

・言語を学ぶというのはただ語を学ぶことだけではない、語をそれを代表する物事に正しく関連づけるということである
・新しい抽象の発明は一つの大きな前進である。それは話し合いを可能にする
・高いレベルの抽象が体系的により低いレベルの抽象に照合できる人はただしゃべっているのではなく、何事かを語っている人である。
・抽象のハシゴのあらゆる段階において活動し、素早くなめらかにそして秩序あるしかたでより高いレベルから低いレベルに、低いレベルから高いレベルに動ける人は、巧みに美しく活動できる人である
・一定レベルの抽象に立ち止まっているのは退屈

S.I. ハヤカワ : 思考と行動における言語

抽象レベルが違う議論はかみ合いません。事実を言葉で正しく関連づけながら、相手を理解して抽象のハシゴを昇り降りすることが大事です。

例えば、ITリテラシーの低いクライアントと高いクライアントがいたとしたら、相手の抽象レベルに合った言葉をしっかり使い分ける必要があるということです。専門知識がない人に難しい専門用語を使って解説することほど虚しい場面はありません。その逆も然り。「クライアントが理解してくれない」これは果たしてクライアントのせいでしょうか。抽象レベルを合わせられないこちらのミスリードともいえます。

まずはどの抽象レベルで語るかを決めること。「送り手」として、どんな層に読んでもらいたいかのターゲットを決めるといってもいいでしょう。そして、具体的な事例を書いて「わかりやすさ」を示しつつ、それを抽象の世界に落とし込み自分の中にあるほかの知識と結び付ければ、新たな説得力や魅力がプラスされるということです。

「一定レベルの抽象に立ち止まっているのは退屈」なるほどなと思いました。私は、ひとつのテーマの中で具体と抽象を織り混ぜるように工夫しています。


まとめ

記号は・物そのものではない
地図は・現地ではない
コトバは・物ではない

『思考と行動における言語』での至言です。言語と現実は違うということ。コミュニケーションモデルで触れた送り手と受け手の解釈は違うということ。ブログでも、提案書でも、メールでもチャットでも、正しく言葉を理解し、相手を理解し、抽象のハシゴを意識しながらコミュニケートして信頼関係を築くことが「わかりやすく伝える」の下地になるのではないでしょうか。

・「お互い理解し合う」ことで「相手に伝わる」
・「相手を理解」して「抽象のハシゴを昇り降りする」

を意識して、「伝わる」を実感したいものです。


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