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僕は人の気持ちがわからない

私は哲学の入門書を書いています。また、性格類型論が好きなので、それも専門として勉強しています。

この性格類型論を勉強しだしたきっかけについて今日は書こうと思います。

まず、最初に私は人の気持ちとか感情を感じるのがとても苦手です。苦手なコトを書くと文章までカタコトっぽくなってしまうのはご愛嬌ということで。簡単に説明しますと人間のコミュニケーションには2パターンあると思うんですよね。

一つは相手の気持ちになって、相手になりきって相手が嬉しいだろう言葉を返すパターン。

二つ目は、相手の気持ちがわからないのでいままで積み重ねてきた経験上、「こういった言葉を返すのが正解だ」と言語ゲーム的に「正解」を返すパターン。

この二つでいうと私は完全に二つ目です。相手の気持ちを汲み取るという段階なく、ただ正解であろう言葉を経験上知っているだけ。これはチンパンジーのアイちゃんが、リンゴをみて赤いボタンを押すという行為となんら変わらないんじゃないか、と自分では思っています。

友人と話すと結構このスタイルのコミュニケーションをとっている人は多く、それが良いことか良くないことかは抜きにして、コミュニケーションや共感能力が重視される社会において立派な処世術のひとつとして確立しているのだ、と思います。

しかし、こういうことをいうと稀に「共感できないということに共感できる」というパラドクス的な共感を呼ぶことがあります。私はこれを〝遠い星との交信〟と呼んでいるのですが、これが自分にとってはとても貴重な目指すべき光源となっています。

普段生活している中ではなかなか共感という感覚と薄くしか付き合えていないのですが、どこかで共感してくれる人がいる、という事実は遠い星の光を感じているようでもあるのです。

性格類型論を勉強しだしたのも、それがきっかけで人のことを体感的に理解できないのでせめて頭で理解したいと思いたまたま知った性格類型論にはまっていった次第です。性格類型論でその人の人格をそのままラベリングできるともおもっていませんが、ひとつの指針となるとは思っています。逆に性格類型論を学んでいない時はコンパスのない状態で暗中に沈んでいくような状態であったからです。

人の気持ちがわからない、ということと冷たいということは全く別です。人の気持ちがあまり理解できない、と自分で言ってしまっていることを甘えだと感じる人もいるかもしれません。しかし、人の気持ちがよくわからない者代表として物申すとすればそれは色が見えない世界と似ていると思っています。

赤いリンゴが目の前にあり、「なぜこのリンゴが赤いとわからないの?」と聞かれても、見えないものは見えないのです。見ようとしますが、なかなか見えないので「リンゴという形状のものは赤いんだ」という知識によりリカバーしようとして、現在があるといった感じです。

この内容に共感してくださる人がいればそれは遠い星の交信なので、自分としてはひとつの光となります。

ドイツの哲学者人ジンメルの言葉で

「最高の処世術は、妥協ではなく適応である」というものがあります。

妥協することなく適応できる手段、スキル、角度をみつけてみるのは世の中に紛れるひとつの手ではないでしょうか。また妥協するか否かは分母の数だと私は思っています。理解してくれる人がいないのであれば、分母を増やしてみると案外届いていなかった星にこちらから光を届けることもできるのです。


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原田まりる
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