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Happy Women's Map 岡山県岡山市 日本女性初過激派・女性解放運動の先駆け 福田 英子 女史 / Japan's first Female Extremist and Women's Liberation Activist, Ms. Hideko Fukuda

-『妾の半生涯』(福田英子 著 / 岩波書店1958年)


「進まんか、私に資と才とがない。退かんか、寒と飢とは襲って来るだろう。生死の岸頭に立って人のとるべき道はただひとつ、誠を尽して天命を待つのみ。」
"To advance, I lack both resources and talent. To retreat, I would face cold and hunger. Standing on the brink of life and death, the only path for a person is to devote oneself completely and await fate with sincerity."

福田(旧姓 景山) 英子 女史
Ms. Hideko Fukuda(Kageyama)
1865 - 1927
岡山県岡山市北区野田屋町 生誕
Born in Okayama-city, Okayama-ken

福田(旧姓 景山) 英子 女史は、日本女性初の過激派で女性解放運動の先駆け。自由党左派過激派の同志らとともに朝鮮クーデターを企てた紅一点の実行犯。出所後は、女性のための職業学校を設立、日本初の社会主義女性雑誌『世界婦人』を創刊、女性の真の解放を訴え続けます。
Ms. Eiko Fukuda (née Kageyama) was Japan's first female extremist and a pioneer in the women's liberation movement. She was a key figure in the plot to overthrow the Korean government, collaborating with fellow radicals from the left-wing Freedom Party. After her release from prison, she established a vocational school for women, founded Japan's first socialist women's magazine, Sekai Fujin, and continued to advocate for the true liberation of women.

「マガイ」
 英子は、備前岡山藩の下級武士の家に5人兄弟姉妹の真ん中に生まれます。父・景山確は寺子屋を開いて100人以上の生徒を教え、6歳年上の母・楳子も手伝います。やがて明治維新を迎えると、父は巡査に、母は県の女子教練所さらに芸娼妓のための私塾を開きます。教育熱心な両親のもと、秀子は身なりに構う時間を惜しんで短髪・男装で勉学に励み、「マガイ」と罵られながら岡山県立研智小学校に入学、15歳で小学校の助教員の資格を取得します。まもなく女の心得として茶の湯、生花、裁縫、諸礼、八雲琴、月琴を日課の中に据えられ、17歳で髪を伸ばして束髪の仲間入りをした英子に縁談が申し込まれます。「父兄に威圧せられて、ただ儀式的に機械的に、愛もなき男と結婚する」ことを断固拒否した秀子は、これまでの給与を全額家に納めるとともに母の私塾を手伝い始めます。「独立自営の道を得せしめてん」

「自由の女闘志」
 やがて郷里に自由民権論客が多く集まり来るようになり、18歳の秀子は紅一点の岸田俊子(中島湘烟)女史の名演説にすっかり魅せられます。秀子は有志家の夫人令嬢等に諮って女子懇親会を組織して大いに盛り上げます。自由の歌を合奏したり、女子演説会を開いたり、「天賦人権自由平等」を説いてまわって、「女子古来の陋習を破らん」女闘志と呼ばれます。まもなく警官に謹慎処分を受けた英子は、上京を決意。家族には1週間の遊学と偽って、解党大会に参加する自由党員の有力者に会いに大阪に向かいます。郷里の親戚はじめ小林楠生の協力のもと、自由党擁護者で奈良の豪農・土倉庄三郎を訪ね、続いて板垣退助との面会を果たします。英子は旅費と学費の援助を得て、東京の『自由燈新聞』記者・坂崎斌の自宅に下宿を開始、築地の新栄女学校に入学します。

「姉妹の契り」
 英子はひとまわり年下の少女らと机を並べて英語を学びながら、坂崎氏から心理学と社会哲学の講義を受けます。そこで英子は富井於菟と出会います。英子あこがれの岸田俊子女史のもとで学び、絵入自由新聞の記者として活躍していました。2人は意気投合して姉妹の契りを結びます。「婦人に独立自営の道を教え、男子の奴隷から解放しよう」。朝鮮事変のニュースに世論が沸き立つと、2人は朝鮮改革運動のための資金調達に駆り出されます。坂崎家を出奔して地方遊説しながら賛同者と資金集めに苦労する中、於菟は神戸で醤油醸造を営む実家に援助を仰ぎに行ったきり戻ってきません。秀子は、髪結・洗濯屋・仕立物屋となって春夏秋を待ちます。やがて現れた於菟はキリスト教に身を捧げることを告げ英子のもとを去ります。

「クーデター」
 英子は於菟の分まで二倍の働きをしようと奮起します。敬愛する小林楠生の寄宿先を訪ねると体中の思想をぶつけて説得、大井憲太郎・磯山清兵衛・新井章吾・稲垣示らとともに朝鮮クーデターの実行係に紅一点で参加します。爆弾の運搬係を買って出て、爆薬を入れたカバンを肌身離さず持ち歩きます。駅員に怪しまれたり、不注意で発火したり、恐怖で冷や汗をかきながら宿で渡韓の指令を待ちます。旅館に呼び出された英子が見たものは、大勢の芸者に囲まれて酒宴の真っ最中の同志たち。そして翌日には磯山が大金を持って逃走。英子は台所道具や家具を買い揃えて炊事を執りしきり、珍しい肴をつくり、ざるを提げて豆腐屋に通い、米屋の借金と2・30人の同志の無賃宿泊の言い訳に奔走。3週間後にようやく計画を立て直し渡韓費が整うと、同志たちは遊郭通いを再開。英子は独り宿屋の一室に端座し深く憂いに沈みます。「かくまでに濁るもうしや飛鳥川 そも源をただせ汲む人」

「女囚人」
 長崎で渡韓の船を待つ英子らに「荷物濡れた東に帰れ(大事発露の恐れあり)」との電報が届きます。中止組と決行組に分断する中、明朝の渡韓をひかえた英子は小林楠生に絶縁状をしたためます。「生きて再び恋愛の奴となり、人の手にて無理に作れる運命に甘んじて従うよりは、むしろ潔く、自由民権の犠牲たれ」「一度渡韓せば、生きて再び故国の土を踏むべきに非ず。」眠りについた英子の部屋に、提灯を手にした警官十数名が押し入ります。英子は収監され、手紙は世間に公表されます。「東洋のジャンヌ・ダルク」として人気者になった20歳の英子は国事犯として特別待遇を受けながら、様々な背景を持つ女囚人たちに世話を焼かれたり、読み書きを教えたりしながら3年を過ごします。「好しこの身自由となりし時、あらゆる不幸不遇の人をも吸収して、彼らに一縷の光明を授けんこと、強ちに難からざるべし。」

「絶対的な解放運動」
 大日本帝国憲法発令に伴う恩赦で同志らと共に釈放された英子は、市民から熱狂的な歓迎とバラの花束を受け、父親はじめ中江兆民ら同士に出迎えられます。「今日は女尊男卑だ。貴女は満緑叢中紅一点だ。」英子は大井憲太郎と結婚の約束をして、2人相伴って演説会に懇親会に関西一円を周ります。やがて酒色におぼれ英子の友人とも不貞を働く大井と決別した英子は、神田錦町に女子実業学校を設立。母と兄弟夫婦とで経営にあたります。まもなくアメリカ帰りの法学士で労働運動に従事する福田友作と結婚して3人の子供をもうけます。「新光明に照り渡された」短い結婚生活は福田の発狂死で終わり、31歳の英子は新宿に角筈女子工芸学校を設立。福田の書生でキリスト教社会主義者の石川三四郎に感化されながら、堺利彦や幸徳秋水らの「平民社」創立を助け、『平民新聞』『新紀元』の活動を助け、日本初の社会主義女性雑誌『世界婦人』を創刊。女性の結社権を求める国会請願運動を起こし、足尾鉱毒事件の谷中村民救済支援を続け、『青靴』2号に婦人解放論を寄稿します。「絶対的な解放とは婦人としてではなくて人としての解放であります。」

-『妾の半生涯』(福田英子 著 / 岩波書店1958年)
-『わらはの思ひ出』福田英子、1905年

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