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Happy Women's Map 青森県青森市 日本初のシャンソン歌手 淡谷 のり子 女史 / First Japanese Chanson Singer, Ms. Norikok Awaya
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「力いっぱいの、その女の戦いの苦しさに、私はときどきわあーっと喚声をあげたくなることがある」
"In moments like these, I sometimes feel the urge to let out a heartfelt cheer for the strength and struggles of that woman's fight."
淡谷 のり子 女史
Ms. Noriko Awaya
1907 - 1999
青森県青森市 生誕
Born in Aomori-city, Aomori-ken
淡谷のり子女史は日本のシャンソン歌手の先駆けです。特に戦時中の弾圧下でも美しい化粧また衣装を身にまとって死地に赴く兵士また家族の心を慰めるように歌い続けました。
Ms. Noriko Awaya was a pioneering Japanese chanson singer. Especially during the wartime oppression, she continued to sing, adorned in beautiful makeup and costumes, offering solace to soldiers in the battlefield and their families.
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「ごんぼ掘り」
のり子は青森屈指の豪商の呉服屋「大五阿波屋」に2人姉妹の長女として生まれます。30人を超す奉公人を抱え店先はいつもにぎわい、のり子は当時は珍しい西洋人形や洋菓子を与えられ何不自由なく育ちます。のり子3歳の時に青森大火で店は焼失、父・彦蔵は再建を目指して商売に奔走するもまもなく店は人手に渡ってしまいます。次々と「差し押さえ」の紙が家財がに貼られていく中でも、のり子は気に入った布地・帯を「ゴンボ掘り」する大のおしゃれ好き。リボンをひらひらさせて女学校に通い出し始めるころ、親戚からも見放され酒と女に溺れていた父は家族を置いたまま別の女性と姿を消してしまいます。「女だって必死になったら飢え死にすることはないでしょう」黙って夫に従って耐えてきた母・みねは、故郷を離れ2人の娘を連れて上京します。のり子と妹・とし子は母の勧めで、三浦環のような歌手また音楽教師になるべく東京音楽学校(現東京芸術大学音楽課)また青山学院所学部のピアノ科に通います。のり子はクラシック音楽の基礎を徹底的に学びオペラ歌手を目指します。実家が徐々に貧しくなるとともに、妹・とし子が目を患い高額な治療費の工面に奔走します。のり子は学校を1年間ほど休学、絵画のヌードモデルを務めるなどして生活費を稼ぎます。なかでも画家・田口省吾からは学費・治療費など献身的なサポートに加え求婚を受けますが、妹・とし子の目が快復すると、のり子は復学して再びオペラ歌手を目指します。声楽の指導法を確立したリリー・レーマンの弟子でもあるソプラノ歌手・久保田稲子の指導を受け、のり子は29歳の時に東洋音楽学校を首席で卒業、声楽家としての一歩を踏み出します。「どんなに苦しくても生活に負けないことよ。本当の芸術を極めていかなかったら音楽をやった甲斐ないじゃないの。」
「からきじ」
世界恐慌が始まる頃、のり子は卒業後もそのまま母校に残って研究科に籍を置きます。母校主宰の演奏会ではクラシック歌手として活動するも、家計を支えるために「久慈浜音頭」「マドロス小唄」など流行歌も歌い、東京・浅草の「電気館」のステージに立って映画館の専属として歌います。「低俗な歌を歌った」ことが堕落と見なされ、母校の卒業名簿から抹消されます(後年復籍)。レコード会社でシャンソンのカバー曲「ドンニャ・マリキータ」「暗い日曜日」を吹き込むと大ヒット。日本にシャンソンブームを巻き起こします。続いて「別れのタンゴ」「傷心の歌」のヒットでタンゴの女王、「別れのブルース」「雨のブルース」のヒットでブルースの女王と呼ばれ、売れっ子歌手となります。レコード会社のセクハラ男達から逃げ回る中、ジャズピアニストの和田肇と結婚するもまもなく離婚。酒好きが高じて酒場を経営したり、漫才師を引き連れて上海で豪遊したり、恋愛をエンジョイしながら「淡谷のり子」楽団を結成。第二次世界大戦中では、どんなに婦人会はじめ軍部に強制されてもモンペをはかず、細い眉を描き、濃い口紅をつけ、パーマをかけ、美しい衣装を身にまとってステージに上がります。戦後は、米軍のキャンプまた将校クラブで歌い始め、妹・としこのピアノとともに各地を巡業します。レコード会社と宣伝屋のセクハラ男達による「新人あさり」はじめ新人歌手による「女の切り札」が入り乱れる中、のり子は自らの楽団と舞台はじめラジオ・TVで歌い続けます。のり子は「じょっぱり」ならぬ「からきじ」気質を通して、歌手として音楽批評家として大活躍しながら92歳で逝去します。
-青森市 Aomori-city
-日本コロンビア NIPPON COLUMBIA Co., LTD
-『酒・うた・男 : わが放浪の記』(淡谷のり子 著/ 春陽堂書店1957年)
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