Happy Women's Map 高知県高知市 女性参政権運動の先駆者 楠瀬 喜多 女史 / Pioneer in the Women's Suffrage Movement, Ms. Taki Kusunose
楠瀬 喜多 女史
Ms. Kita Yanase
1836 - 1920
高知県高知市上町 生誕
Born in Koti-city, Koti-ken
「女に選挙権がないと言うなら私は納税しない。」
"If women don't have the right to vote, I won't pay taxes."
楠瀬喜多女史は婦人参政権運動の草分けです。高知県と内務省に訴え出て、日本で始めてそして世界で3番目に女性参政権を認める法令を成立させました。
Ms. Kusunose Kita is a pioneer in the women's suffrage movement. She appealed to the Kochi Prefecture and the Ministry of Home Affairs, successfully enacting the first law in Japan and the third law in the world to recognize women's suffrage.
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「海運夫の娘」
喜多は、土佐藩で米穀商と車力人夫頭(運送業)を営む西村屋熊治(本名 は袈沙丸儀平)の長女として誕生。父親は背中に昇竜降竜の入れ墨をして海上運送に生きる勇み肌の男で、喜多は荒れ暮れ男達に可愛がられて育ちます。娘盛りになると、弘岡町の小町娘と言われ、小山興人の私塾で漢学を学びます。18歳のときにロマンスを経て、土佐藩の剣道指南役を勤める楠瀬実と階級の壁を乗り越えて結婚。武家の妻となった喜多は、夫について剣道・薙刀を学び、鎖鎌の名人・日野根平太について奥義を修得します。幸せな結婚生活が過ぎると、喜多37歳のときに働き盛りの夫は45歳で病死します。
「女戸主」
20年のあいだに喜多の身辺では、坂本竜馬はじめ多くの討幕派志士におされ土佐藩主・山内容堂が徳川慶喜に「政権奉還の建白」を行い、新政府樹立後には板垣退助はじめ自由民権運動家が「民選議院設立建白書」を政府に提出、さらに西南戦争後に郷里の土佐で「立志社」を結成。土佐は新しい国づくりに湧きがります。夫と死別して後継ぎのいない喜多は自ら戸主を相続します。喜多は立志社の演説会・討論会に欠かさず出席するようになります。傍聴人は政治不安にさらされた士族層だけでなく、反権力・政治参加に共鳴する多くの民衆が詰めかけいつも大盛況。婦人席もどんどん拡張されます。「2年前から土佐立志社の演説会に寒暑風雨も厭わず会毎に出席しければ、自ら人間の権利義務などと言えることも悟り得た」喜多は自ら演壇に立ち、自分の意見を述べるようになります。「水を飲むにも箸を取るにもお役人の指図を一つ一つ受けねばならない世の中は安心して生きられない。」警官を会場から追い出したり、「私は日本語で話しますが、相手は英語で話すそうな。」洋行帰りの討論相手の出鼻をくじいたり、機知に富んだ討論で会場を盛り上げます。
「婦人参政権運動」
45歳の喜多が区会議員の撰挙に出向くと区長に追い返されます。「女性は戸主といえども証書の保証人に立つ事はできない、選挙権を与えられないのは当然だ。」憤慨した喜多は納税を拒否します。「納税しているのに、女だからという理由で投票できないのはおかしい。権利と義務は両立すべきものだから、選挙権がないのに納税の義務だけがあるというのは公平な扱いではない。」区長は諭します。「女子には徴兵の義務がないので男女は同権ではない。」すかさず喜多は反論します。「男子でも戸主ならば徴兵の義務を免れている。」喜多は高知県庁に抗議文を提出します(1878年)。「男女の権利義務に差異をつけねばならぬ根拠を明瞭に説明して欲しい。女に選挙権がないと言うなら私は納税しない。」高知県は直ちに回答します。「保証人にはなってよろしい。納税は国法で定められているので権利の軽重によって増減できない。」納得できない喜多は政府中央内務省に意見書を提出すると、初めての婦人参政権運動として全国紙大坂日報、東京日日新聞などでも大きく報道されます。
「民権喜多」
上町町会を巻き込んだ3ヶ月にわたる抗議行動に県令もついに折れます。1880年日本で始めて町村会議会の女性選挙権と被選挙権を喜多は勝ち取ります。20歳以上の町民に戸主・非戸主の別、男女の別に関わりなく議員となる資格が与えられ、20歳以上の戸主に男女を問わず選挙権が与えられます。隣の小高坂村でも同様の町村会規則を実現します。喜多は立志社の紅一点の女性民権弁士として各地を遊説して周ります。ところが、1884年に政府は「区町村会法」を改正、規則制定権を区町村会から取り上げ参政権は男性のみと規定します。続いて1890年の「集会及び政社法」により、女性は政治的演説会また集会に参加することを禁止され、政党に加入することも禁止されます。それでも喜多は、国会が開設されると上京して帝国議会の傍聴席に出かけたり、自宅を訪れる河野広中、杉田定一、永田一二、頭山満、岸田俊子など政治を志す若者と盛んに議論をしながらよく面倒をみます。奥宮健之また甲藤武雄を養子に迎えるも、大逆事件また日露戦争で死別。喜多は在家のまま剃髪して仏門に帰依します。晩年は元代議士・光森徳治が設立して資金繰りに苦しむ盲唖学校の経営を引き継ぎ、「義士伝」で人気の浪曲師・桃中軒雲右衛門と慈善興業を企画しながら、大正デモクラシーの潮流の中84歳で逝去。
-高知市立自由民権記念館 Kochi Liberty and People's Rights Museum
-『自由民權女性先驅者 : 楠瀨喜多子・岸田俊子・景山英子』(住谷悦治 / 文星堂1948年)
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