Happy Women's Map 岡山県岡山市 日本初の女性記者・女性大阿闍梨 竹越 竹代 女史 / Japan's Firsy Female Journalist and Great Ajari, Ms. Takeyo Takegoshi
「惑わずに刹那に心打ち込め」
``Don't get confused, focus on the moment.''
「ちょっと一服煙草を吸うべきほんの僅かな時間でも、すぐに座禅に向けた故に、私のは煙草禅ですよ。」
``Even if I only have a short time to smoke a cigarette, I immediately turn to zazen, so I am ``tobacco zen.''
竹越 竹代 女史
Ms. Takeyo Takekoshi
1870 - 1944
岡山県岡山市 生誕
Born in Okayama-city, Okayama-ken
竹越 竹代 女史は日本初の女性記者で「大阿闍梨」です。『國民新聞』『家庭雑誌』『東京婦人矯風会雑誌』で執筆、『婦人立志篇』『ウェスト女史小伝』『ウェスト女史遺訓』を出版。後年は在家で仏教研究・修行を続け「三部都法伝灯大阿闍梨」の高位称号を授かります。
Ms. Takeyo Takekoshi is Japan's first female journalist and ``Great Ajari''. She has written for ``Kokumin Shimbun'', ``Katei Zasshi'', and ``Tokyo Fujinkyofukai Magazine'', and has published ``Fujin Risshi Hen'', ``Ms. West's Short Biography'', and ``Ms. West's Lessons''. In later years, she continued to study and practice Buddhism as a layman, and received the high-ranking title of ``Sanbu Toho Dento Great Ajari''.
「竹の子」
竹代は岡山藩主の側近として藩校で青年教育に携わる父・中村秀人と、藩医学校の教授で儒学者・石坂堅壮の次女として資才を受け継ぐ母・中村静子の長女として誕生。小学校にあがって2年目に父親が逝去すると、自宅に児童を集めて琴裁縫を集める母の手一つで育てられます。影山英子女史の自由民権運動で郷里が荒れる中、母とともに岡山基督協会の牧師・金森通倫から洗礼を受け、同氏が創設した岡山女学校に入学します。成績優秀な竹代は、金森牧師のすすめで大阪のキリスト教系梅花女学校に入学します。米国人牧師ドーデーに信頼を得た竹代は秘書を務めながら授業を手伝い、母また弟妹を助けるために卒業後も母校に残ります。勉強家の竹代は、ハーバード大学に入学した友人・上代よし子に続いて洋行を期待されます。しかし思いがけず、岡山基督教会の後任・阿部磯雄牧師ならびに駒尾夫人を仲人として、政論新聞『大阪口論』の記者・竹越與三郎と結婚。大阪教会にて牧師で梅花女学校の校長でもある宮川経輝立ち合いのもと挙式します。「父母の着せし衣を脱ぎ捨てて 明け行く世にならえ竹の子」母・静子は資力の乏しい娘婿を心配するも、20歳の竹代は決意の程を手紙で吐露します。「お身が車夫一般の生活を忍び給へば、世は下婢一等の生活を厭わざるべし。」心配する級友たちを、白いバラを髪に飾って笑顔で迎えます。
「女性記者」
まもなく夫・與三郎は徳富蘇峰に招かれて新しく創刊される『国民新聞』の論説担当記者に就任。一緒に上京した竹代も徳富に請われて『国民新聞』『家庭雑誌』にペンネームで投稿を始めます。すぐに科学記事「天地間の一怪事」「花と虫」「光線の話」、新進気鋭の女学校の訪問記事、下田歌子女史・中島俊子女史・川口雲井女史・豊田英雄子女史・影山英女史との対談記事を本名で執筆、西洋女性伝をまとめた『婦人立志篇』が刊行されます。やがて東京婦人矯風会のメンバーと交流を深めるようになり、社会運動を行いながら機関誌『東京婦人矯風会雑誌』を創刊。竹代はWWCTU(世界女性キリスト者禁酒同盟)から派遣されて来日したウエスト(M. A. West)女史の全国講演を世話して、講演内容を『ウェスト女史小伝』『ウェスト女史遺訓』にまとめます。「女史の博は己に我会より発行せる女史の小伝に詳かなればこれを云わず、その容貌秀傑にして温厚に、才能と愛情とは溢るるばかりに見ゆ。その信仰と勇気とは言うまでも無し。人をして一見して離れがたき思あちもむ。殊に何人に對そるにも胸襟を開きて親しみ給ひ…」「米国の博覧会婦人部は余を以て名誉会員の一人として推薦状を送り来たれり。是れ實は前後一會の面會を得たるウエスト女史の推薦によるものなりと云う。此かることを語るは恥ずかしさの餘り、自ら両腋に汗の出ることながら、女史が胸襟を開きて人に接し給ふの一端とも思ふてかくは記しつ。」
「大阿闍梨」
竹代は左手で3人の子供をゆりかごで揺らしながら、右手で雑誌の執筆・編集作業を意欲的に続けます。6年目、夫・與三郎が徳富と政治対立して『国民新聞』を退社すると、竹代も執筆活動を終え内助の功に徹します。伊藤博文、陸奥宗光、西園寺公望に見出されて政治活動を深め出世していく夫は、キリスト教思想から離れ女性問題もひどくなっていきます。竹代は6人の子供を育てながら度々煩悶するようになり、頼りにする熱心なキリスト教徒である母・静子は逝去します。「生まるるも死ぬるも同じ人の身ぞ 泣くな我が子よ笑へ我友」フェリス女学校に続いて日本女子大学で舎監を務めながら最後まで伝道に従事していました。「漆樋は真黒だ!」竹代はふとしたことから西久保にある禅宗・全竜寺で浅野斧山師の仏法講義を熱心に聴き入るようになります。続いて後任の原田祖岳師のもと座禅修行に励み「仏道印可」「法統」を受けます。さらに東京神田で日本禅学道場を開く猛僧・中原鄧州に師事して難行に取り組み「居士号」を許されます。そして真言密教・高野山の座主・土宜法大僧正に面会を求め「阿闍梨」と「希書」の秘書を授かり、天台宗・浅草寺の救護栄海大僧正から「大阿闍梨」を受けます。なおも駒澤大学・東洋大学・天台大学などで仏教講義を聴き、禅宗・真宗・華厳宗などの各宗門で修業を進め「結縁灌頂(即身式)」「加行(荒行)」を受け浅草寺で「伝法灌頂」の儀式を経て「三部都法伝灯大阿闍梨」の高位称号を許されます。「仏教婦人青年会」を組織するも、油井真砂女史の千里眼を人々に紹介して営利問題に巻き込まれ解散。在家で仏教修行を続けながら75歳で逝去。「晴れ曇る思いは雲のしはざにて もとより月は常照の月」
-『婦人立志篇 上』(竹越 竹代 著 / 警醒杜1892年)
-『ウエスト女史遺訓』(竹越 竹代 著 / 東京婦人矯風会1893年)
-『竹越竹代の生涯』(竹越熊三郎 著 / 大空社1965年)
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