個人コレクションの可能性と、現代アートにおける地域性の限界~「エモーショナル・アジア 宮津大輔コレクション×福岡アジア美術館」展評
もともとサラリーマンコレクターで、現在は横浜美術大学教授でもある宮津大輔のコレクションを軸にした展覧会「エモーショナル・アジア 宮津大輔コレクション×福岡アジア美術館」が、12月25日まで、福岡市の福岡アジア美術館(以下、アジ美)で開催されている。展示されている作品54点は、宮津所蔵品が33点、アジ美が21点と、ほぼ6:4の割合。個人コレクションが館蔵品をうまく補完し、アジアの現代アート全体への目配りを深くしている。個人によるコレクションの可能性を感じさせる展覧会だった。(文中敬称略、10月1日鑑賞)
収蔵品同士が相互補完してコラボ
宮津は一般企業に勤めながら約30年で約400点もの現代アートのコレクションを形成した。生家が資産家だった訳でも、遺産を引き継いだ訳でもない。「アンダー1000ドルの男」と自称するように、高額な作品には手を出さず、サラリーマンコレクターとして、給料の中で買える範囲で集めてきたという。その代わり、なるべく早く(有名になって、市場価格が上がってしまう前に)目当てのアーティストを見つけることが重要だそうだ(同じことは、やはりコレクターの笹川直子も以前、話していた)。本展は、そんな宮津のコレクションから、アジア美術に焦点を当てて抽出。アジ美の収蔵品と取り合わせて、「現代のアジアの姿を映した東アジア、東南アジア地域の45作家の作品を紹介する」(同館の紹介文による)ものだ。
収蔵品同士のコラボレーションとして象徴的だったのが、リム・ソクチャンリナ(カンボジア)の写真「国道5号線」シリーズだ。ソクチャンリナは、カンボジアで、大規模な道路拡張工事によって削り取られたり壊されたりした、沿道の痛々しい住宅の姿を写真に収め続けている。宮津が同シリーズの5、7(2015年)、アジ美が4,10(2020年)を所有。それらが本展では並んで展示されている。2点ずつ制作時期が異なるものの、並列で見ても違和感はない。開発が人々の暮らしに残した爪痕の深さと、それでも生きる人々のたくましさが描出され、時を超えても一貫した作者の問題意識が浮かび上がる。
写真でいえば、アマンダ・ヘン《もうひとりの女》(1997年、アジ美所蔵)と、ジョン・ヨウイ(江宥儀)《春》(2018年、宮津所蔵)も、時代と地域を超えた異同が鮮やかだ。前者はシンガポール、後者は台湾の女性作家で、いずれも自らの裸身を晒して、社会や家族関係を写し取る。あるいは、ハン・ティ・ファム《家族を再定義する》(1990~91年、9点、アジ美所蔵)と、その隣に掲げられたツォン・イーシン(曾怡馨)《オランピア》(2014年、宮津所蔵)。ファムは米国に移住したベトナム人女性で、同性愛者・アジア人・女性というマイノリティー「三重苦」を静止画に落とし込む。イーシンは台湾在住の男性で、マネの「オランピア」を下敷きに、LGBTQ当事者を彼らの自宅で撮影した。1990年代から2010年代へと時代は移っても、儒教社会のアジアでは「家族」「社会」の規範や呪縛が重苦しくのしかかり続けていることが分かる。写真というフラットな表現手法ゆえに、テーマの普遍性がより鮮明に浮かび上がった。選定・配置も含めたキュレーションが、作品に通底する問題意識をより強調したように感じられる。
コレクションの相互補完の点では、巨大な布の木版画にも注目したい。横2メートル半、縦1~2メートルもある綿布に、墨一色で刷った木版画2点が並べて吊るされている。宮津所蔵のムハマッド・ユスフ《三部作》(2011年)と、アジ美所蔵のタリン・パディ《終わることのない勇気》(2007年)。後者の作者は今年の国際的な芸術祭「ドクメンタ15」(ドイツ・カッセルで2022年6~9月に開催)にも出品したインドネシアのアーティスト集団で、前者はその創設メンバーの一人である。ドクメンタではタリン・パディの展示作は反ユダヤ主義思想の疑いを掛けられ、物議を醸した。だが、こうして同じ表現手法の作品を並べると、彼らの変遷や問題意識が透けて見え、ドクメンタでの批判自体の不適切性――表現の一部だけを西欧の視点から切り取って増幅したものだったのではないか――まで考えさせられる。
映像は優良な収集ジャンル
コラボレーション以外の観点では、展覧会は、宮津コレクションの収集の特徴と、「サラリーマンコレクター」が成功した秘訣の一端を垣間見せたようにも思う。もちろん全体像は不明だが、今回出展したアジア美術に限っては、写真やビデオなど映像作品が多く、かつ、質も高かった(写真が13点、ビデオが6点と、展示された宮津コレクションの実に6割を映像作品が占めた)。写真やビデオなどのエディションもの(複数制作が可能なアート)は比較的リーズナブルに購入できるという懐事情が関係しているかもしれない。また、収集時には、えてして絵画など実体のある作品を求めがちだが、ビデオは個人コレクターにとって隠れた優良ジャンルと言えそうだ(絵や写真に比べて、場所も取らず、保管・維持も気楽だ)。
ことに筆者が興味を引かれたのは、三つのビデオ作品だ。ジャン・シュージャン(張徐展)《シンシンペーパーホーム・シリーズ001 ジャン・シュージャンの腹の中》(2013~14年)、チェン・チンユェン(陳敬元)《終わりの物語》(2010年)、高嶺格《ゴッド・ブレス・アメリカ》(2002年)。いずれも作家の個人史や居住地の地政学的影響、時代背景を抜きには語れない。
台湾生まれ・育ちのチンユェンが《終わりの物語》で描くのは、戦場の島だ。ヘリコプターからの爆撃音が響く中、海底から巨大な裸の女神が現れ、島ごと持ち上げて助ける。2分31秒のアニメーションは、“You are safe”
“Don’t be nervous”というメッセージの後、“The End”の文字が大写しになって終わる。島は台湾を暗示し、上空を飛ぶヘリの様子はベトナム戦争を、また巨大な女神は「進撃の巨人」を想起させる。だが、幕切れに「あなたは安全」「心配しないで」と言われても、まったく安座できない。台湾の問題は「棚上げ」「先送り」されただけで解決していない、という強烈な皮肉が込められているようだ。
日本人の高嶺の作品は、時代を感じさせて興味深かった。動画中に男女の裸の絡みが出てくるためだ。2022年のいま制作するならば、安全な環境下で撮られたものか、出演者は行為を強制されなかったのか、インティマシー・コーディネーター(性的場面を含む映画やドラマの撮影で出演者の安全を守る第三者)が必要ではないか、といった論争を引き起こすこと必至だろう。制作からの20年で、世の常識が随分と変わったことに思いを至させられる(いずれ本作は、公共の美術館での公開が不適切とされる時代が来るかもしれない)。
筆者が本展の白眉と感じたのが、シュージャンのビデオインスタレーション《~腹の中》だ。いかにもアジア的な死生観が、シュールで「コワ可愛い」ビデオとモビール、不気味で中毒性のある音楽とともに、短いスパンでエンドレスに繰り返される。薄暗い部屋の中、床に置かれた3台の液晶パネルの中では、不気味な紙細工の人形たちが動く30秒ほどの動画がリピート再生される。部屋の天井でくるくる回るモビールは、よくよく見れば首のない紙人形だ。ビデオの内容が暗示するのは死か誕生か。円形の台の上で一匹の青い馬が横たわってもだえ(出産か断末魔か)、その周囲を、一つのビデオでは何匹もの馬が走り回り、もう一つのビデオでは一匹だけがよろよろと走る。三つめのビデオは、真ん中に顔のあるラフレシアのような巨大な花が3本、マイクを前に立ち、花びらを開閉させながら歌っている。不気味な音楽の源はこの人面花らしい。生死のあわいのような不思議な世界を創り出したシュージャンは、台湾で、葬式の際に死者に手向けて燃やす「紙紮(しさつ)」(あの世で困らないように持たせるお金など)を作る家に生まれたという。
「周縁」ゆえの価値、地域性
だが実は、シュージャンのように、民族や風土、習俗の匂いを強く感じさせた作品は少数派だった。被写体やモデルが非白人というヒントを除けば、作品だけでは、作者がどの国の出身か、ルーツがアジアなのかすら分からないものが少なくない。特に、本展の隣で同時開催していた「インド近代絵画の精華」展と比較すると、違いがよく分かる。近代美術までは確かに、インドにはインドらしさ、中国には中国らしさ、といった「地域性」「アジアらしさ」が存在していた。それが現代アートになると、地域性は希薄になり、モチーフやテーマに押されて遠景に遠のいてしまう。
逆説的ではあるが、中心がある世界で、周縁ゆえに成立する価値がある。欧米中心主義における「アジアらしさ」「アフリカらしさ」などがそうだ。このとき、周縁としての価値の源泉は、周縁であること。グローバリゼーションが行き渡り、世界が均質になった暁には、周縁は消滅し、周縁ゆえの価値はなくなる。価値観でも技法でも手法でも欧米と遜色ない作品が量産されるようになれば、「アジアのアート」「アフリカのアート」は存在しなくなる。周縁ではなく、大きく広がった中央の一部となってしまうからだ。現代はまさに、そうした時代だろう。そして、それこそが21世紀という「現代」に作られるがゆえの現代アートの宿命だろう。
グローバリゼーションによる世界の均質化
いまや、アジアの作家たちも、アートの中心地である欧米と同じ技法、手法、テーマ、価値観で作品を作り、評価を受ける。20世紀終盤から新自由主義とともに世界を席巻したグローバリゼーションの波は、アフリカやアジアなど「周縁」地域へも及んだ。インドネシアでも台湾でも、米国やアフリカでも、21世紀のいま、問題意識は似ている。保守かリベラルかといった価値観、家族の問題、ジェンダー、開発、人種差別、貧困や格差、環境破壊、気候変動、社会のひずみ……テーマは人類共通だ。
一方、作る素材やメディアのほうも世界共通になっている。絵画、写真、ビデオ、彫刻からインスタレーションまで、ほぼ全ての技法が開発し尽くされ、手法は世界中に公開されている。もはや「新しい未開の地」の「発見」は、地理上も、技法や手法でも、ほぼありえない。新しい技術であるNFTにみなが飛びついたのは、「新しい発見」にアーティストが飢えている証左とも言えよう。
失われていく「アジアらしさ」
交通網とインターネットなど情報網が発達し、人と物と情報が世界中を飛び交うグローバリゼーションの21世紀に、「地域性」が生き残る余地はあるだろうか。さらに、時間と空間を飛び越えるメタバースなどの仮想空間が、今後より比重を大きくしていくはずだ。そんな中で、「アジアの現代アート」を掲げる本美術館は、いったいいつまで「アジアらしさ」を保ち続けられるだろう。本展を概観して、そのことを強く感じた。
アジア諸国はすでに(中国ですら)西洋型モデルの中に組み込まれている、同質社会の一員だ。では何をもって「アジアらしさ」とするか。それぞれの国固有の文化や風俗は年々忘れられ、民族性や独自の文化に根ざしたアート制作はより少数派になっていくだろう。そこで「伝統的なアジアらしさ」に固執することは、幻想の中の「アジア」を追い求めること、懐古主義や異国趣味に過ぎまい。世界全体が均質になる中、アジアらしさも含め、地域ごとの特性、「地域らしさ」は失われていく運命にある。今世紀末には、「アジ美」は20世紀までのアジア地域の国民国家ごとの特色を反映した美術館だった、と過去形で語られる存在になるのかも知れない。
(フリージャーナリスト 長友佐波子、2022年10月18日)
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