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『チヨの森③』子どもサスペンス劇場
第三章 決心
それは突然でした。
小学校に向かう時から、近所のおばさん達が、ゴミ袋を片手に深刻な顔で立ち話をしていました。
もちろん、ウチのお隣さんであるバラおばさんも然りです。
「あら、おはよう。大介君、学校大変ねえ。ほら、なんだか・・・・・・」
もっと喋りたさそうなバラおばさんの前を耳に蓋をして、会釈だけして足早に行き過ぎました。
耳の中に飛び込んでくる、興味本位の様々な憶測の話や誇張した噂。
嘘であってほしい、嘘だ、嘘だ、そんなの嘘だ・・・・・・。
嫌でも聞こえる、僕が最近よく知っている名前。
教室に入ってからも、否応なしに嫌な話が聞こえてきました。
「あいつが行方不明になったらしいよ」
「どうせ、注目浴びたくて、家出でもしたんじゃないの」
「あいつが?」
「誘拐とか」
「って、誰だっけ、それ」
「行方不明でしょ?」
「うそー、でもなんであいつなの」
「関係なくない?よく知らねえし、あいつのこと」
「神隠しとかって、うちのお母さん言ってたよ」
「神隠しされてるくらいで、いいんじゃないの?あいつ」
「存在感なかったし。これで存在価値があるって認められたってか」
耳障りな騒音。
落ち着きと品がない笑い声。
机と椅子を乱暴に扱う音。
いつもなら気にも留めないことなのに、今日に限ってはとても心に突き刺さるのです。
榊君のこと、何も知らないくせに。
でも、昨日までの自分もあの中にいたのかと思うと、僕はなんだか背中の後ろがぞくっとして、落ち込んでしまいました。
通常は簡単に教室だけで行うはずの朝礼は、その日に限って体育館に全校生徒が招集されて、重苦しい雰囲気の中で厳粛に始まりました。
校長先生が舞台に立つ前から沸き立つような緊張感が漂い、生徒たちはざわざわとしたままです。そんな時、音の狭間を裂くように校長先生が重い口を開きました。
「みなさん、おはようございます。すでに知っている人もいるかと思いますが、実はとても残念な出来事が起こりました。五年三組の榊友広君が、昨日の午後、地元のご老人達との研究会が終わったあとから、行方不明になってしまいました。本日早朝六時から、地元の警察と消防や自警団の方々、そしてご家族が捜索にあたっています。心配は要りません。きっと榊君は帰ってくると信じています。皆さんも、信じて待ちましょう」
少しだけ、沈黙が体育館を占領しました。
「あ、幽霊が通った」
誰とは無しに、そう言いました。一瞬の静寂を、僕たちはそのように表現していました。
今も、幽霊が通ったのでしょうか。
その後すぐでした。
五年三組からは、くすくすと小さな笑いが起きました。先生達が慌てて静止しようとしました。それでも止まない、小さくて嫌らしい笑い声。悪魔のような非常識な笑い声はいったん始まると中々終わらず、連鎖するように他のクラスや他の学年にも伝染していきました。
さわさわと頬に髪の毛が触れて、手でぬぐってもまた髪の毛が触れてきてイライラする感覚。なぜだろう。
不思議なことに僕の眠っていた良心が叫び、喉を通って生まれ出るようにこの世に産声を上げました。
「なんで笑うんだ!可笑しいことなんてひとつもないだろう!」
静まりかえった体育館。それまで聞こえなかった換気扇の音が、ブヲーンと大きく響いてきました。自分でも、あまりのことにびっくりして真っ赤な顔になっているところ、担任の天神先生に肩を優しく叩かれ、
「朝礼が終わったら、ちょっと職員室に来てくれないか」
と、言われました。
僕は、最後の榊君の目撃者だったのです。
「よく来てくれた、烏森。まあ、ここに座って」
いつもは近づきたくもない雑念とした様子の職員室。僕が入り口に到着すると、今にも雪崩を起こしそうな書類の山をかき分けて、天神先生が応接セットの方へ手招きしました。その姿はというか髪型は、富士山の東側のてっぺんから出てきた、生まれたての朝日のようです。独身時代は毎日一着のジャージばかり着ていて、女子生徒や保護者に不人気でした。しかし去年お見合い結婚したお陰か、最近は清潔感が出てきました。
「さっきは、うん。なかなか勇気のある行動で、先生は感激したな。おまえ、ああいうところあったんだな。見直した」
右手にキャラメル、左手には飴玉を持って僕の側に近寄ってきました。
先生は、最近のご時世と奥様の要望により、煙草をやめたのだそうです。
「これ食べるか?先生は煙草やめてから飴ばっかり。そのおかげでこのざまだけど。って、その前からか。カッカッカ」
おどけてさすった大きなお腹には、夢と脂肪が詰まっているのだそうです。
「そのな。警察の方でも烏森に詳しい事情を聞きたいらしいんだけど。まず先生が学校で聞く、ということにしてもらったんだ。烏森もいきなり警察じゃ、嫌だろ?あっと、これ、苺味だけどいいかな」
学校で飴を食べるなんて、なんだか悪い事をするようです。先生から飴を学校でもらえるなんて思わなかったので面食らったのですが、僕は両手で可愛らしいピンク色の包み紙に包まれた飴を丁寧に受け取りました。さっき出した大きな声で痛くなった喉に、苺の飴が優しさをコーティングしてくれるように、気持ちが穏やかになりました。
「んー、と。それで日曜日なんだけど、研究会とやらに烏森も誘われて行って、そんで、それが終わったあとにそれぞれ家路に着いた、と。あっ、別れたのは坂道の所だったっけか?森の近くの」
先生は、スーパーの広告チラシの裏紙に、箇条書きで僕の言うこと一つ一つを書き留めていました。
「はあ、やっぱ先生こういうの慣れてないから嫌だな」
さっき食べたばかりだったようですが、また一つ、先生は乱暴にキャラメルを口に放り込みました。これでは太るのは当たり前です。
その間僕はと言うと、雲一つない天気のいい青空を眺めながら、BGMのように天神先生の声を聞いていました。
「烏森くん。そうかそうか。ははは」
途中、わざとおどけた様子で校長先生が乱入して、場を和ませてくれるのが分かりました。
「さっきみんなに注意した姿は、立派だったぞ」
その後は校長先生も加わって、どんな研究会だったのか、誰が出席していたのか、場所はどこなのか、最後に見た榊君はどんな様子だったのか・・・・・・。
「お疲れ。もう、教室戻っていいぞ」
天神先生と校長先生に全てを喋り終わって、心身共にクタクタになりました。
職員室の入り口で振り向くと、校長先生は奥の机で、さっきとは打って変わって真剣な表情をしながらどこかへ電話をかけていました。
とってもとっても大変なことが起きたのだと、改めて、子供心に心配になったのです。
「おっ、ヒーローのお出ましだ」
「正義の味方、烏森大介参上!!」
手を叩いて、嫌味な歓迎を受けました。
「なんで笑うんだ!」
「おかしいことなんて、おかしいことなんて、ひとちゅもないだろう!」
予感は的中です。
普段は特に目立っているわけではない僕は、みんなの暇つぶしの恰好の餌食です。
「僕は、変わり者でひとりぼっち榊の、味方でーす!」
「したがって変わり者をかばった僕も、変わり者でひとりぼっちでーす!」
一部の男子のギャハハハハという大音量の笑い声が、教室中に轟きました。
それまでは、少なくとも友達だと思っていたクラスメイトの声です。
いつも一人だった榊君。思い起こしてみれば、彼はいつも一人でした。僕は、一人でいるのは彼がただ変わっているんだとばかり思っていましたが、これで分かったような気がします。友達というのは、簡単なことで友達ではなくなってしまうものなのだということを。
彼は、独自の考えを持って、敢えてこの三十人の中で孤立していたのかもしれません。
「烏森、気にすんな」
辻堂は、幼稚園の時からの僕の親友です。率直に言えば、こんな時僕にはかばってくれる親友がいるのです。
でも、榊君には、いなかったんだ・・・・・・。
その日は、何にも頭に入ってきませんでした。何を言われても、何を聞かれても、僕はマネキン人形のようにだんまりを決め込んで座っていました。言葉の通じない異国で異人達に囲まれているようで、意識してぼんやりとしていました。
五時限目が終わり、再び天神先生に呼ばれました。その時に、やっと意識が戻ったように思います。いえ、窒息していた頭に酸素が入ってきたような感覚でした。
「何度も悪いんだけど、これから警察の人が来て、烏森に話を聞きたいらしいんだ。お母さんもいらっしゃるから、一緒に。帰りの会が終わったら、もう一度職員室に来てくれないか」
僕から搾り取るものは、もう露ほども残っていないです。榊君と別れてから、その後のことは何も知らないのだから。どう聞かれても、何度聞かれても、答えられないものは答えられないのです。
レモンを力強く絞って絞って絞りすぎれば、もう一滴も水分は出てきません。
僕だって、彼が忽然と姿を消してしまったことが信じられないのだから。
青ざめた表情の母親が、居心地悪そうに応接セットにちょこんと座っていました。一年生の弟も一緒です。訳が分からない様子で、弟は僕に手を振りながら少し興奮しているように見えました。その場違いな姿を見て、僕の固まっていた心がほっとして、溶けた気がしました。
「大介」
お母さんは、先生と僕を手招きします。ドアからは見えませんでしたが、鋭い目つきをした私服警察官らしき二人が僕を待ち構えていました。
「やあ、大介君。こんにちは」
アメリカのSF映画にありました。
「君は、今回のことは見ていないんだよ、エイリアンは見ていないんだよ、だから安心しなさい」と言ってきそうな風貌です。
「緊張しなくても大丈夫だよ。少しだけ、昨日の話を聞かせてもらえればいいだけだから」
努めて優しくしようとしてくれていますが、チンパンジーのボス猿のような小柄なおじさんは、名前を「虎革」といい、眼鏡の奥の目がまったく笑っていません。その隣りに佇んでいる相棒は、若くて漁師のように色黒です。名前は「大泉」といい、そして、やっぱり目は笑っていませんでした。
「なるほど。その研究会とやらが終わって、大介君は榊君とさよならしたわけだね」
「他に何か、変わっている様子はなかったかな?例えば、家出したいとか言っていたり、学校のこととかで嫌なことがあったりとか」
「悩んでいるとか、考え込んでいる様子はなかったかな?」
「大介君にだけ話してくれたこととか、なかったかな?」
「なんでも、感じたことを話してくれればいいんだけどね」
機関銃のごとく飛んでくる質問で、僕は体中に穴が開いてしまいそうでした。その後も、刑事二人と母親と担任の大人四人に、これまた体中に穴が開いてしまいそうなほど見つめられました。
「特に、何も。普通でした」
本当に普通でした。いや、むしろ普通ではなかったのかもしれません。だって、榊君があんなに嬉しそうに笑ったところを、学校で見たことがなかったのですから。でも、大人達にはそのことは言いませんでした。
いつも一人で休み時間を過ごしていた榊君。彼に嘘でも話しかけるような子は、いなかったのです。と、いうこともはっきりと言えないほど、注意して見ていなかったので覚えていないくらいです。
そう、だから僕は、榊君の友達の名前をあげることができませんでした。そして、警察の人は僕を、榊君の友達だと思って話を聞いているようです。それも、違います。「なりかけていた」と言った方がニュアンスとしていいのかもしれません。
だから僕は、少しだけ嘘を付いているような、後ろめたい気持ちになりました。
いつの間にか、時計を見てみると午後五時を少し過ぎたところでした。最初は簡単に話をするだけと言っていたのに、もうかれこれ一時間も経っています。矢継ぎ早に繰り出される警察からの質問に、さすがの僕も疲れてきて、五分おきに欠伸をするほどになりました。
「そう、ありがとう。よく分かったよ。心配することはないよ。榊君はきっと、すぐに警察で見つけるからね」
「よろしくお願いします」と頭を下げ、僕は母親と弟と学校を後にしました。
帰り道はあまり言葉を発さずに、黙々と前を向いて歩きました。いつものように弟が拳で腕にパンチしてきても、今日はまったく痛みを感じません。リアクションのない僕の態度に飽きたのか、弟も前を向いて黙々と歩き始めました。時折、母親が僕に事件のコトについて質問してきましたがどれも上の空で、耳には残りません。
なんだか道を歩いているというよりは、ふわふわとクラゲのように海を漂っているようだと、僕はその時思いました。
「それで榊君って、どんな子だったの?」
ぼんやりしていた背中に、いきなり冷たい水を引っかけられたみたいにびくっとして、母親を見上げました。いくつかの質問のうちで、唯一耳に届いた言葉だったのです。そしてその質問は厳しいものだということも理解しました。なぜなら僕は、榊君がどんな子だったのか説明できない自分に、気づいたからです。
「どんな子って・・・・・・。静かな子?」
と、疑問形で正直な印象を言ってみました。
図書委員になって初めて言葉を交わして、なんだか鼻に付くタイプだと思ったあの日。でもそうではなく、取っつきにくいけれど、案外面白いかもしれないと思ったことも話してみました。
「そっか。じゃあ、あんまり友達がいないタイプだったのかな?もしそうだとしたら、ダイが研究会に来てくれたこと、榊君はとても嬉しかったんじゃないかしら」
僕も、そう思います。だからこそ、坂を下る時、わざわざ僕の方に振り返ってちぎれそうなくらいに手を振ったのです。心から楽しそうに。
「その研究会って、いわゆる『神隠し』を勉強する会なんでしょ?あのほら、近所でも変わってるって有名な山中さんが来てるっていう」
疲れた弟をおんぶしながら、母親は言いました。
「チヨの森って、あそこの小さな草むらみたいな所でしょ?あれが昔は竹藪のある大きな森だったって。それだけはバラおばさん、いけない、角堀さんから聞いて、お母さんも知ってるのよ」
改めて『神隠し』という言葉に恐怖を覚えました。榊君が参加していたあの会では、確かに『神隠し』を勉強していました。『神隠し』というのは、物語の中だけだと思っていました。だから、現実味などまったくなかったのです。しかし、空想の物語同様、その会の終了後に、まさに榊君は神隠しのように姿を消してしまいました。
今頃、彼はどこにいて、どうしているのでしょうか。
また、ひとりぼっちなのでしょうか。
「でも、あとは警察や大人に任せれば大丈夫。きっと榊君は戻ってくるわ。ダイがそんなに思い詰めることないわ。だってダイに責任はないんだもの」
道は月明かり以外もう真っ暗で、帰宅を急ぐサラリーマンや学生達が足早に通り過ぎてゆきます。
「さあ。今日はもう遅くなっちゃったから、たまにはファミレスで何か食べて帰ろうか。ほら、ヨシ君起きてください」
母親の背中でよだれを垂らしていたヨシは、心地よい眠りから現実に無理矢理引き戻され、面倒くさそうに地面に立ちました。
到着したファミリーレストランは、週末でもないのに思っていたよりも混んでいて、一組のカップルが禁煙席を待っていました。
「いらっしゃいませ。ダイニーズへようこそ。お客様は何名様ですか?」
黒縁眼鏡のウェイトレスさんがにこやかに寄ってきて、サイボーグのように、抑揚を付けずお決まりのフレーズを言いながら接客をしています。店内は楽しげに食事をする音や人々の声で、有線放送のBGMもかき消されていました。
「三名で、禁煙席をお願いします」
「申し訳ございません。禁煙席はただいま満席となっておりますので、こちらで少々お待ちいただいてもよろしかったですか?」
「よろしかったですよ」と、心の中で返事をしてから僕は待合席に座りました。
ヨシは、いつものようにおもちゃが置いてある棚に走り寄り、しゃがみ、そして心身共にロックオンしました。きっと、食事が終わって会計して帰る時にはまた何か欲しくなって、盛大に駄々をこねるのでしょう。
と、何気なく店内を見渡した時です。
「な、何か殺気を感じる」と、僕の背中が強い視線をキャッチしています。こちらをじっと見つめている人がレジの横にあるカウンター席にいることに気づきました。
山中さんでした。
一瞬視線が合ったのですが、その目があまりにも鋭かったので視線を反らしました。この前研究会で一度会ったきりだから、向こうだって僕のことは覚えていないだろうと鷹をくくったのです。
でも、その考えは間違っていることに数秒後に気づかされました。
山中さんは、吸っていた煙草を灰皿に穴が空きそうなほど力強くねじ込みました。そのあと、くたびれたベージュの上着の中を何やら探している様子です。銃でも出すのでしょうか。
「お客様三名様大変お待たせいたしました。中央のお席でよろしければ・・・・・・」
「いいですよ。真ん中の席でかまわないです」
食器のぶつかる音、飲み物を啜る音やウェイトレスを呼ぶ声が混ざり合っている空間へ、母親と弟は揃って向かいました。ふと見ると、山中さんは何やら机に向かって書いているようです。ああ良かった、銃じゃなかったと変な安心をして僕も席に向かおうとしました。
とその時、山中さんは意を決したように立ち上がり、脇目もふらず、まっすぐ僕の方へ歩いてきました。「うううううわ、来た」と、僕の心は破裂寸前の風船のようです。
「ふん」
という、鼻息ともため息ともつかない勢いのある声で、くしゃくしゃの紙を押しつけてきました。
「えっ?」
「ほら!」
僕の手に紙を持たせると、足早に山中さんはレジに向かい、会計を済ませました。
「いや、あの・・・・・・」
「今度の日曜待ってるぞ。とにかくメモを読め」
遠くで僕の名前を呼ぶ母親の声を聞きながら、山中さんの丸めた紙を、おっかなびっくり開いてみました。
するとそこには、山中さんをそのまま文字にしたような、きりりと背筋が伸びるような美しい字がありました。
今度の研究会の後、
息子と榊君を探す旅に出る
君の力を借りたい
「?」
僕の頭は、混乱しました。
「ダイ!」
また母親の呼ぶ声。僕の回りを飛び交う音。ぐるぐるメリーゴーラウンドのように人々が行き交います。軽い目眩を覚え、再度メモを読みました。
このメモの内容は一体?
追いかけようとしましたが、もう山中さんの姿はどこにもありません。山中さんさえ、神隠しに遭ったかのように見えなくなりました。
「ダイ、どうしたの?早く席に着いて」
心配そうにやってきた母親に、どう説明したらよいのやら、何とも言えませんでした。
これはどういうことなのでしょう。どうして僕に、こんな紙を渡したのでしょうか。
その紙はとても薄いですが、僕に十分な重圧を感じさせました。
「何?どうしたの。早く、座るわよ」
「大丈夫。何でも、ないよ」
手に持ったままの紙を慌ててジーパンのポケットにねじ込み、ちゃんと入っているかどうかをまた外側から確認しました。
山中さんからのメッセージは、とても僕に背負えるようなレベルではないということは分かっています。しかし、そこへ行かなければいけないような、義務のような、使命のような気さえするのです。
ファミレスの雑踏に体をゆだねて、榊君を思いました。
様々なテンポの、聞いたことのない曲が次から次へと延々と途切れることなく流れています。多分、僕が生まれる前の曲なのでしょう。「なつかしのメロディー」とかなんとかで、登場しそうな曲でしょうか。そんなことには構わずに、弟のヨシは楽しそうに紙ナプキンで折り紙を始めました。
「この曲お母さんが好きなバンドが歌っていた曲なのよ。良く聞いてたな、懐かしい」
誰もそんなことは尋ねていないのに、一言つぶやきました。
「なんて名前のバンド?」
という僕の質問にも答えずに、母親は久しぶりの外食に心を躍らせているようで、メニューを食い入るように眺めています。
軽いテンポで、切ない歌声が耳に入りやすい曲です。
「へえ。なんて曲?」
僕は榊君のマッシュルームカットを思い出していました。
「『ベイビーフェイス』よ」
からすもり・・・・・・くん・・・・・・
『ベイビーフェイス』の曲と曲の合間に、彼の声が聞こえたような気がして、思わず後ろを振り返りました。それは、遠くから風が運んできたような、でも、すぐ近くで聞こえたような。
「前向きに進んでいく、勇気の歌よ」
母親は当たり前のように言いました。
ふと窓に映る自分の顔が、意識とは別の部分で、山中さんからのメッセージを間違いなく受け止めているように見えました。
心は、決まっていました。
いつもと違う精悍なその表情のまま、僕はポケットの中のメモを触り、誓うように力強く確かめたのでした。