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『チヨの森⑧』子どもサスペンス劇場
第八章 疑問
当然、そこには誰もいません。
ただ、念と言うか、人の想いみたいなものが残っているような気がしました。怪談話のような陳腐な感覚はもちろんありません。変な話ですが、榊君が今にも手を振って近づいてくるような気がしたのです。
もちろん、山中さんのこともあったからなおさらですが。
がらんとした会議室は、当然のように静かです。
「にゃー」
久しぶりに聞いた声。そう、ミーです。あの事件以来、自宅の近くでも一回も見かけませんでした。
「なんだよ、ミー。あれから一体どこに行ってたの」
足元にすり寄ってくる思わせぶりな仕草は、相変わらずです。ご無沙汰していたことについて特に悪気もなさそうに、目をつぶりながら僕に甘えました。
ただ、そうした何気ないミーのぬくもりが僕を安心させたのは確かでした。
「お前もここで、山中さんに会ったんだもんね」
でも、もう二度と山中さんには会えません。
なんだか、わさびを食べた時みたいにツンとしてきて、じんわりと鼻の奥が痛くなりました。ほんの数週間前のことなのに、この会議室に訪れたことが、なんだか遠い昔のことのように感じられるのが不思議です。そして、山中さんと過ごした数日間という短い時間も、何年もの長い間一緒にいたような感覚がありました。それは、猫のミーも同じなのかもしれません。
相変わらずコの字型に四角く並べられた机には、一枚の航空写真が置いてありました。
それは、三十年前の森神町の風景です。
真ん中には、堂々と広がる『チヨの森』があります。
「こんなに大きな森だったんだよね。今はあんなにちっぽけな森なのに。どうしてちっぽけな森なのに、子供達の行方が分からないのかなあ」
ミーはいつの間にか机の上に置物のように綺麗に座り、写真を眺めています。
その横顔は、何か思案しているかのようでした。
神隠し、チヨの森、まこと君、榊君・・・・・・。
少しだけ不謹慎だけれど、写真を見ながら、僕は想像してみるのです。
森の中の地下深くには、実は誰にも知られていない『オアシス』のようなものがあって、心の疲れた人々は内緒で集まるのです。そこでは子供も大人も性別も関係なく、ストレスを感じずに穏やかに過ごせるのです。だから、行方不明になったみんなで、今でも幸せに暮らしているのではないかなんていう、夢物語を僕は期待するのです。
「なーんてね」
ミーは素知らぬふりで窓の縁に飛び移り、外の景色を眺め始めました。
今日も、きれいな秋の空です。
山中さんが亡くなってから数時間。
一人の人間がこの世を去ってたった数時間しか経っていないのに、どこの風景も、どの人も、電車の発車ベルも学校も、憎たらしいほど全ての生活が何も変わりません。
当たり前の、何の悲しみも含まない普段の生活。
変わったのは、僕の心の隅っこだけのようでした。
「さあ、行こうか」
会館を出て、そのまま右に曲がります。昨日と同じマンション群や、代わり映えのしない団地を左に見ながら、その森はひっそりと佇んでいます。
これまでに七人の子供達を呑み込んで、何喰わぬ顔で鎮座する『チヨの森』。
山中さんという協力者がいなくなり、一人になってしまった今、無力な僕はどうしていいのか森の前で途方に暮れていました。
「何か喋ってみてよ、ミー。何か、アドバイスしてみてよ」
時折吹き抜ける弱い風が、不気味に僕の頬をくすぐります。
―一人になったら、お前はどうせ何もできないんだろう?―
あざ笑うかのように森から吹いてくるまとわりつくような風は、そんな言葉で僕を挑発しているようでした。
―一人になるのが怖いから、正しいと思うことを自信をもってできないんだろう?―
馬鹿にしたような挑発に乗るわけではありませんが、もし、神域である森の中に敢えて一人で入ってみるとすると・・・・・・。
弱虫の僕には珍しく、そんな考えが頭をもたげました。
森には『常世』があるのでしょうか。常世には、いわゆる時間という概念が無いと言われています。常世とは、時間が止まったままの真っ暗な死者の国なのでしょうか。それとも、海の彼方にあると言われる、長寿や不老不死の明るいニライカナイのような『理想郷』が、あるのでしょうか。
物言わぬ森の前。
それまで吹いていた風が、ほんの一瞬しずかに止みました。嗅いだことの無いような爽やかな花の香りが、どこからか漂ってきます。
思い出したように下に目をやると、お地蔵様に小さな花束が手向けられていたのでした。
しゃがんでからお地蔵様を良く見ると、案外顔がリアルに彫られていました。まるで、今にも動き出しそうです。
「お地蔵様、また森に入ってもいいでしょうか?」
微笑みをたたえたままのお地蔵様は、もちろん動きません。
「そりゃそうだ。話すわけがないよな?ミー。じゃ、お地蔵様、すみませんが、みんなには内緒で森に入らせていただきます」
「どうぞ」
「えっ?」
「遠慮なさらずに」
「えっ?」
「さあ、行きましょう」
「えぇっ?」
目をこすりましたが、お地蔵様はそのまま。お地蔵様の口元もこすってみましたが、もちろん動かないようです。喋るわけはないのですから。
精神的に疲れているのでしょうか。気を取り直して立ち上がり、驚いた拍子に尻餅をついて汚れたジーパンの後ろを、勢いよくパンパンと軽くはたきました。そして、改めて聞きました。
「誰?」
すると、ミーが突然森の中へ歩き出しました。
「あっ、ミー」
その時、見えない誰かに優しく手を引かれたような感覚がしました。ちょうど、物語『不思議の国のアリス』で、白ウサギを追掛けながらアリスが穴に迷い込むシーンのようでした。案外怖く感じません。このタイミングで森に入ることが当然のことと決まっていたかのように、僕はするすると中へ踏み込みました。
振り返ると森の入り口はすでに遙か遠く、耳の中がシーンと鳴りました。これが耳鳴りというものなのでしょう。
しばらく歩くと、先に森に入っていたミーが、良く、食べ物屋で見かける招き猫の瀬戸物のように、じいっと僕を待っていました。
「ミー、勝手に行っちゃだめだよ」
僕は、ミーを抱き上げようとしました。
「ここからは、私があなた様をご案内させていただきます」
踏み出しかけた右足が空中で居場所を無くして停止しました。
おまけに、思考能力も完全に停止しました。
僕とミーの他には、誰もいないはずです。恐怖と不意打ちの驚きで、体が硬直してしまいました。
頭だけ動かして周りを見回してみますが、僕の他に日本語を話しそうな生命体は、確かに間違いなくいません。
下に目を移しました。
ミーを見ました。
「そんなわけない」と、僕は首を左右に振りました。ミーは、いつもと変わらない表情で、僕のことを見上げています。
「まさかね」
「そのまさかでございます」
「そんな馬鹿な」
「コホン。そんな馬(うま)や鹿(しか)ではございませんよ。改めまして自己紹介させていただきます。私、猫左右衛門と申します」
いつもと変わらない表情で、僕のことを見上げています。
「狸に化かされているのかな」
「狸とは失礼な。私は正真正銘のかわいい猫ちゃんです」
情報が多くて目眩がしました。
雌だと思っていたミーは、男の子でした。しかも、本当の名前はめっぽう古風です。武士みたいです。というか、それよりも何よりも、毛繕いと猫じゃらしの好きな猫が、人間の言葉を、日本語を流暢に話しているのです。
それも、渋くて低音の良い声で。
「あなた様に、秘密を打ち明ける日がくるなんて」
そんな今時、幼稚園生でも信じないでしょう。猫と話せると思っているのは、せいぜい小さな子供まででしょう。
漫画の主人公のように、僕は思い切り頭を振ってみました。頬をつねってもみました。耳を引っ張ったり太股をグーパンチで強めに叩いてみたり。
「い、痛い・・・・・・」
この目の前の不可思議な事実を取り払うように・・・・・・。
このとんでもない状態から、早く打破しなければなりません。
「でも、本当でございますから、しようがありませんね。あっはっは」
喋ったのは、間違いなく目の前のミーでした。しかも、とてつもなく丁寧な言葉で。
「えええっ」
「その、私、秘密にしておりましたが、実はしゃべれるのでございますよ」
ミーは照れたように、右前足を上手に耳の横に持っていきました。
「しかも・・・・・・綺麗な言葉遣い」
「しかしですよ。こんなことで驚いていては、これから『チヨの森』で起こることに立ち向かえませんよ。大介様、覚悟をお決めになったのであれば、お気持ちをしっかり持っていただかないと」
これ以上びっくりすることがあるのでしょうか。僕はとても不安になりましたが、辺りは見たことのない風景が広がっているばかりです。いや、もしかしたら、それはいつもと変わらない場所なのですが、僕の頭の中の『恐怖』が、勝手に作り出した幻想なのかもしれないと思いました。
「もう、ここまで来たら前に進むしかございません」
猫左右衛門は、凛々しく森の奥を指さして、こう言いました。
「さあ、森の秘密を暴くのでございます。そして、神隠しとやらを解決しようではありませんか!」
気圧されたように僕は素直に頷きました。というよりも、ついて行きたくなるような説得力のある声です。ですから僕は、ミーではなく、本当は猫左右衛門という名前の猫の後を、ついて行くことに決めました。
「と、ここまででございます。やっぱり森は小さいままでございます」
この森の秘密を暴くとは言ったものの、この狭さの中に、何の秘密があるというのでしょう。どこをどう難しく見たって、やはり小さいままです。
先ほど広く見えたのは、きっとミーのことで動揺していたからでしょう。入り口からまっすぐに五分程、三~四○○歩くらい歩けば、ほら、あっという間に僕が毎日通う第七小学校が見えてきました。茂みをかき分けると、向こう側がしっかりと見えます。
森はやはり、ぐるりと頭を一回転させれば見渡せてしまいます。
「これでは、もはや森ではありませんね。林と言った方が正しいかもしれません」
目を低い木の高さで横にずらすと、鬱蒼とした木々の隙間がまばらに開いて、外部からの光が大量に洩れています。その光で地面に映った木々の影が、教会のステンドグラスみたいにきれいな柄を描きました。
そこで、改めて確かめてみようと取り出したのは、唯一山中さんから預かっていた手作りの地図です。それは今、僕の両手にしっかりと握られています。
結局、この地図が山中さんの形見になってしまいました。
あれは、山中さんが亡くなる一日前でした。下校しようとしていた僕に、校門の前で手を振る山中さんがいたのです。
周りの目を気にするように、僕はうつむき加減のまま言葉少なに歩き出すと、おもむろに手渡されました。
「これを、君に託しておくことにしたんだ。実は昨日、久しぶりに夢を見てね。まことが『お父さん、もういいよ』ってね。あいつがいなくなってから約三十年、初めて夢に現れた。それまでは、熱心にお願いしても出て来てくれなかったのに。だからきっと、ここらが潮時かと思ってね」
解決していない失踪事件。それなのに、山中さんはどことなく満足気でした。
その時の様子を思い出しながら地図をゆっくりと両手で広げてみると、相変わらず、山中さんが描いた上手で瑞々しい森神町の全体図が目に飛び込んできます。
そして、この地図に描かれたきれいな『チヨの森』は、今僕がいるところなのだと思うと、空恐ろしい気がして体が震えました。
その時です。
「誰か来ます!」
ミーが前足を地面に近づけ背中を大きく山型にし、入り口の方を向いて嵐を吹きました。
「誰か、いるのかい?」
それは、聞いたことのある声でしたが、少し様子が違うようでした。
「たぶん、大介君だよね」
ボス猿でした。
怒りで毛の逆立ったミーを抱き上げ、僕は軽く会釈をしました。毛の逆立ったミーの興奮は冷めやらず、僕はなだめるのに苦労しましたが、ただならぬミーの様子に驚くばかりでした。
「ここには、もう来てはいけないと言ったじゃないか。大人の言うことを聞かないとね。もっと素直で良い子だと思っていたけど」
どことなく、同い年の友達が卑下する時のような言い方です。
「すみませんでした」
「もうこれからは、ここには来ないと約束してくれるかい?」
手足を懸命にばたつかせながら、ミーは必死に僕の手から逃れようとしています。
「ちゃんと約束してくれないと、本当に困るんだ」
一歩、ゆっくりとボス猿が僕の方へ近づきました。シャリッと足元の芝生が踏みつけられた音がしました。
「さあ、一緒に帰ろうか」
また一歩、ボス猿が近づいてきました。
シャリ、シャリ、シャリ。
そのままゆっくりと手を僕に向けた瞬間、ミーがボス猿に飛びついて、その人差し指に勢いよく噛みつきました。ギャッという声と共に、僕は入り口へと走り出しました。
「まっ、待ってー」
ボス猿の悲痛な声を置き去りに、真っ直ぐ木々を掻き分けて森を出て、お地蔵様に会釈し、必死で表の大通りに出ました。いつもはちっとも言うことを聞かない僕の鈍足は、信じられないほど軽やかに地面を蹴り上げました。華麗な股上げ走行で、人生一の出来です。
これなら今度の運動会に、リレーの選手になれそうです。
「はあ。なんで逃げたんだ」
息を切らしながらミーに問いかけましたが、ミーはただ「みゃー」と言うばかり。
「でも、ボス猿様子がおかしかったし。なんだかミーに助けられたね。ありがとう」
「みゃーん」
「あれ?さっきあんなにぺらぺら喋ってたじゃない」
「みゃ、みゃ、みゃー」
「みゃーみゃー」と鳴くミーを抱き上げ、お互いの鼻と鼻がくっつくくらいに顔を寄せました。
「ほら、さっきみたいに渋い声で喋ってごらん」
ミーの脇の下に手を入れて、左右に振りましたが鳴くばかり。
「やっぱり、さっきのは、僕の頭で作り出した夢だったのかな。なんだか残念」
「みゃみゃみゃーん」
気のせいか、ミーも僕との意思疎通ができないことに、心なしか不服そうな表情でいます。しかし諦めたように、いつもと同じ、僕の右側にぴったりと張り付きながら歩き出しました。
それから、流れ星のように通り過ぎる人々の波に逆らうように、僕とミーは自宅へと向かいました。森からの道のり、こんなに家までが遠いと感じたことはありません。後ろを振り返りながら、急ぎ足で進みました。
気になるのは、ボス猿の行動です。どうしてあのタイミングで、あの森に入ってきたのでしょうか。
「ここで一旦さよならだよ。夕飯が終わったらエサをあげるからね。あと一時間くらいしたら玄関で待ってて」
「にゃーん」
ミーはしっかりと僕を見上げて返事をしました。もちろん、猫語で。
「やっぱり、みゃーかあ。さっきみたいに会話できたら、心強いんだけど。ラジオのディスクジョッキーみたいな格好いい声、あれ、もう一度聞かせてよ」
形を確かめるようにゆっくりとミーの頭をなでると、グルルルルと甘えた声で鳴きました。
自宅のドアを閉める前、門の前を確かめました。原付に乗った帰宅中らしいサラリーマンが一人、通過しただけです。大丈夫、誰もいないようです。胸を撫で下ろして、改めてドアの鍵をしっかりと施錠しました。
浮かぶのは、森でのボス猿の顔です。
ボス猿は何かに怯え、何かを探っています。それは事件のことというよりも、森を探っている人のことに怯え、また探っているように思えるのです。
一回目に森に行った時は山中さんと一緒でしたが、すぐに警察が来ました。
そして今日。僕はボス猿に、市民会館で会いました。そして森でも。
言い換えれば、今は僕のことを探っているということでしょうか。それとも、考え過ぎなのでしょうか。
ボス猿は、僕の家を知っています。
森では逃げたものの、その現実的な事実が僕の心を激しく混乱させました。ここまで訪ねてくることも、考えておかなければなりません。
色々な不安を抱えたまま、僕は普段より明るめの「ただいま」の声と共に、夕飯の香り漂うリビングへと向かいました。
ピンポーン。
その音が鳴ったのは、リビングルームの時計が午後九時半を少し回った時でした。
いつものように、まだ父親は帰ってきていません。
「悪いけど、ダイ、ちょっと玄関出てくれるー?」
お風呂場から母親が元気よく声を張り上げました。夕飯が終わると、母親は弟を先に寝かせ付けるため、一緒にお風呂に入ります。
これが我が家の日課です。
「わかったー」
インターホンの受話器を取りました。画像には、帽子をかぶった人が映っています。
「はい、どちら様ですか」
その声の主は、少しだけ考えたような間がありました。
「夜分遅くにすみません。お届け物です」
「あ、ちょっとお待ちください」
宅配便が来たらこれを使いなさいと言われている三文判を、台所の横にある引き出しから取り出しました。
リビングの茶色いドアを開けました。
電気の付いていない夜の廊下は、自分の家なのに、距離は短いけれど少し恐いです。
一畳くらいの玄関には、母親の突っ掛けサンダルと、晴れの日でも履いている弟のお気に入りの長靴と、僕のスニーカーが置いてあります。
ドアの右側が細く磨りガラスになっていて、少しだけ外が見えるようになっています。月明かりが漏れ出して、薄ぼんやりと玄関を照らしています。そこには誰も立っていないようです。
どうやら、宅配の人は門の外で待っているようです。
玄関の電気を点けてから、ゆっくりとドアを開けました。そして門の方へ視線を投げました。
誰もいません。
「いたずらか」
と、リビングに戻ろうとした次の瞬間、僕の意識は薬品の刺激臭と共に、どこかに飛んでいきました。
そう、まるで神隠しに遭ったみたいに・・・・・・。
どのくらい眠っていたのでしょう。そんなには経っていないように思います。
目をゆっくりと開けると、僕は真っ暗な部屋にいました。埃の匂いがして、籠もった汚い空気が目に染みます。ぼやけて輪郭は分かりませんが、隣りには男の人が一人いるようでした。
「気がついたかな?大介くん」
懐中電灯が、僕の顔に当てられました。ずっと目を閉じていたので、まだ明かりになれていません。霞んだ焦点が真ん中に集まりだして、だんだんと合ってきました。
ここは多分、森神七小の体育倉庫でしょう。少し校舎の裏手にあるこの人気のない倉庫に、一度だけボールを片付けに入ったことがあります。ここは昼でも静かで、あまり生徒だけでは近づくことはない場所です。
「こ、ここは」
僕の眠る横にいたのは、ボス猿でした。
「ワタシとしては、大介君に手荒い真似はしたくなかったんだけど」
体育マットが何枚も何枚も重ねて収納されてあり、鉄のかごにはバスケットボールが何個も入れてあるのが見えました。昨日の体育で使った、七段の跳び箱もあります。
「あの森をうろちょろされると、困るんだよね。榊君もそうだったんだけど、聖地とされている森をぐちゃぐちゃと歩き回るからさ、困るんだよ」
静かに囁くような声です。でもそれでいて安心感を与えてくれるのではなく、恐怖心を煽るような、イライラした声でした。
「もう『神隠し』は事実上迷宮入りになっていてね。捜査としては打ち切りになっているんだよ。それなのにさ、あの変な髪型したガキが警察署にまでやってきて、色々と事件のことを生意気に尋ねてきやがって」
ボス猿は自分の小指の爪を噛みました。
「もう、あの事件はとっくの昔に未解決事件として終わったんだよ。真犯人が見つからないから、本当に天狗の仕業じゃないかなって言っている、有名大学のアホ民俗学者もいるそうだ。天狗とは結構。ははは。でもね、犯人は天狗じゃないんだな。だからチヨの森の『神隠し』は、この前の榊君でおしまい。ジ・エンド」
薄気味の悪い笑みを浮かべながら、ボス猿は僕に話し続けました。
「榊君をね、犠牲にするつもりはなかったんだよ。事件としての形は終わっているからね。でもね、あんまりにもあの子が森についてしつこく調査しているもんだからさ。そいでもって、あの山中って爺さん。いやあ、まさか和光真の父親だったなんてね。何の因果かと、呪われているのかと思ったよ。ま、車で完全に死ぬまで何回も行ったり来たりして轢いてやったけど」
暗闇の中、倉庫にはボス猿の気持ち悪い高笑いが、響き渡りました。音が壁を蹴って、隅々まで笑い声が充満しています。
「君もだよ、大介君。君があまりにもしつこいから、君のことまで誘拐しなくちゃいけない事になったんだ。このままだと、ワタシが犯人だということがわかってしまいそうだったからね」
「は、犯人・・・・・・」
「そうだよ?ワタシこと虎革が、『神隠し』の犯人さんだよ。驚いた?」
ボス猿はジャケットの内ポケットから煙草を取り出して、マッチに火を付けました。
浮かび上がった顔は、普段のボス猿とは似ても似つかない、鬼のようでした。
「でもさ、ワタシは事件について責められている理由が分からないんだよね。ワタシは悪いことをしたとは、露ほども思っていないからね。だってさ、だってさ、ワタシは淋しそうな子供を六人も、いや七人救ってあげたんだよ。友達から仲間はずれにされてかわいそうだと思ったから、わざわざ大人のワタシが、遊び相手になってあげたんじゃない」
ボス猿は、にやにやして僕を見ました。
「ワタシが神から与えられた役目は、ワタシと同じように淋しい子供をこの世から救い出してあげるということ。仲間外れにされるってさ、とっても辛いからさ。自分自身が一番良く知っているし」
そう言うボス猿の横顔には、内側から滲み出てくるように寂しさが現れました。
「仲間外れの理由なんて、大体はくだらないことさ。子供っていうのは残酷でね、たいしたことのない事件をきっかけに、面白半分で嫌われ者を作り出すのさ。そうすれば、自分がはみ出さずに済むからね」
例えば、父親の友達の真君はそうでした。たった一回みんなの前でお漏らしてしまったことで、それからの小学校生活がねじれていきました。
「あのマッシュルームも、学校で仲間はずれだったんだろ?大介君も実は、あまり仲良くなかったんだよね?でも仕方なく仲の良い『フリ』をしてやってたんだろ?ワタシにはそれが分かったから、かわいそうに思ってさ。無理矢理に友達ぶって、正義の味方気取り?」
僕は息を呑みました。自分でも定まっていなかった不安定な心の闇を、ふいに突かれたような気がしました。
自信がグラリと揺らぎました。
「でも、演技って伝わるんだよね。ワタシもそうだったけど、嫌々友達ごっこしてくれていると分かるんだ。それが分かると、なんだか逆に惨めになってくる」
榊君は、分かっていたのでしょうか。僕の中の違和感を知っていて、それでも坂道で僕に手を振っていたのでしょうか。
「ほら、悲しそうな顔してる。まさに図星だったわけだ。ひははははは」
ボス猿は僕を指さしながら後ろにひっくり返り、のたうち回ってお腹を抱えました。
「ほらね、ほらね。やっぱりそうだよ。本当はあんな奴嫌いなのに、変な正義感を振りかざしているつもりだったんだろ!ヒーローにでもなった気でいたんだろ?お見通しなんだよ!いらないんだよ、そんな余計なお節介はさ!」
「違うっ!」
薄気味悪い笑い声は、僕の声をも掻き消すようにしばらく続きました。
「僕は、僕は榊君とこれから仲良くなろうとしていたんだ!」
ボス猿は急に笑いを止めると、悲しそうな瞳で僕を睨み付けました。
「違わないよ。君は、大介君は、仲良くなるつもりなんてなかったんだよ。面倒くさくてしようがなかったんだよ。子供のくせに子供らしくないし、なんだか鼻につく。でも、榊君が『神隠し』とやらで突然いなくなったから、やっと気になっただけなんだ。今回の事件が起こらなかったら、一生榊君とは仲良くなんてならなかったんだ。だから、ワタシはある意味『人助け』をした。榊君に、一瞬でも友達を作ってあげた。夢を見せてあげた。そして、夢を見たままこの世から連れ出してあげたんだ。辛い現実の世界から、解き放してあげたんじゃないか!」
「そんな・・・・・・」
「お望みなら、君の遊び相手にもなってあげるよ」
「ふざけるな!」
「おおっと、大介君。そんな態度に出てもいいのかな?」
ボス猿は、僕の首を乱暴に片手で持ち上げながら掴みました。ライオンの鋭い牙が、有無を言わさずシマウマを仕留めるように、それは僕の急所をしっかりと押さえました。
呼吸が苦しくて、頭の血管が切れそうです。
「さ、さかき、くん、のことも・・・・・・」
「そう、こうしたよ?ワタシ、マッシュルームのことも、こうやって遊んであげたよ。えらいでしょ?えらいでしょ?」
ボス猿の爪が、僕の首に深く食い込み始めました。
「マッシュルーム、苦しそうでさあ。楽しかったよ。でも、案外しぶといっていうかさあ。最後まで生意気だった」
一瞬、榊君が側にいるような気がしました。
「だって、あのマッシュルーム、大介君は本当に僕の友達だったなんて言い通したんだから」
榊君・・・・・・、助けて・・・・・・。
「ふー。こういう時の一服はたまらないなぁ」
そして、心から笑っていない目で僕を見つめて言いました。
「大好きな子供を、この世から解き放つ前の一服」