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『栗ケ丘7③』

第2幕 そして僕らは「ノア」で会う

僕ら六人と一匹が初めて出会ったのは、みずみずしい新緑の香りがそこかしこで漂い始める四月の終わりの金曜日だった。
転校してきて約一ヶ月、僕は狭いながらも見所満載の栗ヶ丘の町を自転車で冒険して回っていたが、唯一足を踏み入れていない場所があった。地図にも二重丸の印をつけてあるし、何度も通って中の様子を窺ったことのある場所。都区には無かった、子供だけのオアシス。子供が大好きなものだけを、安い値段で売ってくれている場所。
「この店を知らないと栗ケ丘キッズとは言えないからね。一応紹介しておくよ」
当時五年三組の学級委員だった秋彦が、転校してきたばかりの僕を誘って、足を踏み入れたかったけれど踏み入れたことの無かった、例の『ノア』に連れて来てくれた。

大きく掲げられた看板には、「こどものおかし・ノア」という、なんとも荒っぽ過ぎるくらいの手書き風な字で、大胆に書かれてある。
「ここは栗ヶ丘で唯一、昔ながらの駄菓子を売っている、ノスタルジックかつムーディーな店なんだよね。店の主人は町の人からオジジと呼ばれている。年齢は多分七十歳前後じゃないかな。そのオジジ、実は昔は裏社会で活躍していたんじゃないかと恐れられて、町一番の悪からも一目置かれているんだよね。それから不思議なのは、この辺の子供の名前をフルネームで言えること。いくら記憶力がいいからってそこまでの人はいないよね。プライベートの情報としては、多分独り身。奥さんやお子さんはいないようなんだよね。ずっと独身だったのか先立たれてしまったのかは分からないけれど…」この後、実際店に入るまで五分以上のウンチクを聞かされた。何も食べていないが、この、胃がもたれる感じはなんだろう。いい奴だとは思うが、秋彦って男はなかなか面倒くさい奴だとその時感じた。その感覚は友達になってからもずっと続き、自分の人間観察はなかなかのものだと自負した。

「こんにちは。栗ヶ丘小学校五年三組の栗林秋彦です」
店の奥は、オジジの住居となっているらしく、明るい店の外から、裸電球の薄暗い和室のコタツ(もう春なのに)に入ってお茶をすすっている姿が見えた。
「ごめんくださーい。こんにちはー、栗林秋彦です」
秋彦が、透き通るほどの色白な肌を、ほのかに赤らめながら頑張って呼びかけたが、まるで応答がない。顔は確かにこちらを見ているような気がするのだが。聞こえているのにわざと聞こえない振りをしているような、そんな違和感を感じた。
すると、膝小僧の辺りを毛むくじゃらの何かが触れた。店の暗闇からむくむくと出てきて、ウンともスンとも言わなかったので気付かなかったが、正体は小柄で可愛い雑種犬だった。
「やあ、こんにちは。君は歓迎してくれてるみたいだね。はじめまして。僕の名前は目黒正一だよ。よろしくね」
しゃがんで挨拶をすると、ピカピカ光る『7』を首から提げて、嬉しそうに尻尾を振ってくれた。そして、
「おうおう悪名高き栗林家の秋彦様か。そいでもって隣りの新入りが目黒正一か。はじめましてだな」
随分と芝居染みた喋り方で、オジジがテレビのリモコンを持ったまま僕等の方をしっかりと見据えていた。少し眼鏡をズリ下ろして、上目遣いで身を乗り出した。
「すまんすまん。ちょうど再放送のドラマがいいとこだったもんだから」
秋彦は、なんだ聞こえていたんじゃないか、と舌打ちしながら呟くと、店の中にしたり顔で入っていった。
「オジジの店に連れてこないと、栗ヶ丘の町人になったとは言えないと思いまして。五年三組の代表、学級委員としての責務として、代表者のこの僕が…」
「それで正一はどこから来たの?」
オジジはコタツから熊のように抜け出してくると、秋彦の選挙演説のような挨拶を無視し、一段高くなった自宅から店の中へ下りて来た。
「はい。この春、都区から引っ越してきました。同じ東京なのに、こちらは都区とは違ってのどかでいいです。栗林もあるし」
そうかそうかと、孫を見つめるようなオジジの顔は、とても闇の世界にいた人とは考えにくい。どこから飛び出した噂か知らないけれど、いい加減な作り話であることに間違いなさそうだ。
「そうかあ。都区は都会で空気も悪いし騒音もすごそうだ。それに比べて栗ヶ丘はいいぞう。東京都下で自然が多い。まったく正反対の、ど田舎だな。よく言えばのんびりしている、まあ悪く言えば立ち遅れているけどな。でもそこが魅力だ。よく来たな」
オジジは、都区をけなしているのか栗ヶ丘をけなしているのかわからない口調で、そう説明した。

ひとしきり話し終えると、店の中を探検させてもらった。探検と大袈裟に言ったけれど、店の大きさとしたら八坪くらいだろうか。店先には、百円を投入すると丸いカプセルに入ったおもちゃが出てくるガチャガチャマシンが二台あり、店の中には所狭しと粒揃いの駄菓子が並んでいる。
クジを引いて当たるともう一本もらえるカステラ串や、合成着色料満載の真っ赤なイカの酢漬け、束にされてザラメがたくさん付いた目にも鮮やかな色とりどりの虫歯まっしぐらな飴、小さな乾燥ヨーグルトなど様々だ。大型スーパーでは到底お目にかかれないようなレアな品々のオンパレードだ。
「うわ、これも食べたいしこれもこれも食べたい。珍しいお菓子がたくさんある。このプラスチックの水鉄砲も欲しいなあ」
どれもこれもが粗雑で嘘っぽくて、味が濃そうで。でも、おもちゃ箱をひっくり返したような、という表現がしっくりくる。浪漫がある。僕はわくわくし過ぎて血流が良くなり、汚いけれど、「大きい方」をもようしてきそうなほどだった。
「見ているだけで面白いだろ。都区じゃあこんな店ないんだろうな。そうだ正一、小遣いは持ってきたか?」
「はい。持ってます」
もしかしたらオジジが奢ってくれるかな?と少しだけ期待した目で振り返ったが、それは駄目だったようだ。
「いくら新入りだからと言って『じゃあ今日は好きなだけ持っていけ』とか言う好々爺じゃないぞ、俺は。そんなことしたら、おまんまの食い上げだからな。まあ秋彦が奢ってやるっていうんだったら話は別だけどな」
なるほど。オジジは読心術も嗜むらしい。試しに訴えかけるように見てみたが、秋彦はわざとらしく僕の目を見ないように駄菓子を触っている。

「あ、あとこのかわいい犬はなんて名前なんですか?」
正一の後を追うようにくっ付いて歩く犬の頭を撫でると、手に吸いつくように鼻をこすりつけて匂いを覚えようとしているようだ。首元を擦ると、大きな目が一本の細い糸のようになる。犬の満面の笑みを絵で描くとしたら、こんな顔なのではないだろうか。
「そいつはナナだ。性別はメス。年はわからん。捨てられてたのかどうか分からないが、この店を開店したての頃フラフラ迷い込んできたんだ。というか、三歳のかおりが連れてきた」
「かおりって、うちのクラスの花沢かおりですか?」
あの気が強くて弁が立つ、でもちょっとかわいい子か。
「べっぴんだろ?かおりは、この町で一番良心的で優秀な診療所のお医者の一人娘だ。そりゃあもう、かおりの親父さんは本当にいい医者だ。金儲け主義のどこそこの医者とは比べ物にならないくらいのな。そんな立派な親父さんの女房、つまりかおりのお母さんは、かおりが三歳の時に交通事故で亡くなっちまった。どうしてお母さんが交通事故に遭ったかというと、こいつ、ナナを助けるため。子犬のナナがフラフラと道路に飛び出して、それをかばったかおりのお母さんが轢かれちまったんだ」

知らなかった。普段気丈に振舞っている姿を見ている分には、そんな悲しい出来事は微塵も感じさせなかったからだ。気が強いのは、どうやら元々の性格ではなさそうだ。
「え?花沢さんもこの店に来るんですか?」
少しだけ、胸の辺りがぞわぞわっとした。
「来るさ。楽しみか?」
オジジはそう言って、僕に向かって悟ったような含み笑いを浮かべた。僕の心の中を、また勝手に読んでいるみたいだ。

ちっとも楽しみじゃない。あの子は真面目で堅物で、お高くとまっているというか…。近寄り難い雰囲気があるので、庶民的なこういう店に立ち寄ることが意外だっただけだ。

「オジジー、ナナ元気―?」
噂をすればなんとやら。早速お姫様の登場だ。
「いらっしゃい、かおり」
馬の尻尾のように豊かな髪を左右に揺らし、ふんわりとした薄い黄色のワンピースをはためかせながら、春風のように店にやってきた。本当に、これで大人しかったらどんなにいいだろうと、僕は肩を落とした。
「あら、へなちょこボンボン秋彦くんと新入り正一くんじゃない。二人揃ってどしたの?」

かおりちゃんの可憐な口元から発せられる台詞は、するどい矢のように突き刺さる。毒舌過ぎる。が、その表現は通常痛いほど当たっているから、誰も反論できない。
オジジはかおりの隣りで肩を震わせて笑っている。
「確かに」
「まったく」
「確かにって。オジジも正一もひどい」
それだけ言うと、かおりはオジジの住居スペースに勝手知ったるように上がりこみ、
「もー、オジジ!流しにお茶碗が山盛りじゃない。不衛生よ!ほら、みんなで洗うわよ!そこの男二人、洗いなさい!」
「え?ぼくたちも?」
「当然でしょ。わたしだけにやらせる気?うちのお父さんだって洗い物するわよ。常識でしょ、今時。あ、もしかして昔ながらの、家事は女がやるモノ的な?時代錯誤も甚だしい。そんなこと言ってるとあんたたち、モテナイわよ」
押しかけ女房のようなかおりの言動に、オジジと僕たちは頭を掻いた。そして、オジジがつぶやいた。
「まいったな。かおりには頭が上がらん」
かおりに頭が上がらないのは、どうやら僕らだけではないらしい。

僕らが『ノア』にいる間、何人の子供達が笑顔で出入りしていっただろう。時折、交番のお巡りさんが店の中を覗いて挨拶をしていったり、中学校や小学校の先生が代わる代わる立ち話をしに来たりもした。この店は、子供だけでなく、大人も受け入れてくれる安心な場所なのだ。店の名前通り、「ノアの方舟」といったところか。

「秋彦、今日は連れて来てくれてありがとう。ここは、引越ししてきてから一番気になって、入ってみたかった場所なんだ」
「だよね。これで正一も正真正銘、栗ヶ丘の町民ということだよね」
一応秋彦には感謝した。やはり子供の溜まり場に足を踏み入れておかないと、町や子供社会の事情に疎くなる。友達の輪も広がりそうだし、僕みたいな新参者には秋彦のようなお節介な紹介者がいてくれて本当に助かったと思った。そんな風に思いながらふと見ると、レジから少し離れた店の隅の方には、パンとジュース、文房具用品も少しだけ陳列されてあった。さっきは見逃していたが、中学生は、このパンやジュースをお昼に買いに来るのだろう。

その場所に、小さな人影がうろうろしている。後ろを見たり横を見たり、おしゃべりをしている僕等の様子もうかがっているのがバレバレだ。素人目に見ても不信な動きをしているのが、一目瞭然だった。
と、次の瞬間、その男の子はアニメの主人公を象った消しゴムを一つだけ握り締めると、急いでポケットにねじ込んだ。万引だ。

僕は初めて目の当たりにしたショッキングな光景に、身動きも取れずに目線だけをオジジに向けた。するとオジジは、口元に人差し指を当ててウィンクした。
「おっす。寺内健太、元気か?ちょっとこっち来い」
オジジは皺々の分厚い手で健太を自宅に招き呼んだ。健太は背中をびくっとさせると、観念したように下を向いたまま振り向き、オジジの方へ素直にやってきた。
どうやら、健太の万引は他の子供にはバレていないらしい。店の中は今まで通りの静かなざわめきが続いているだけだ。でも、僕の胸の中だけはまだ、ドキドキと騒がしい。
「正一と秋彦、ちょっと店番頼むな」

二人が並ぶレジの右横を、オジジと健太が通り過ぎた。健太は大きな耳を真っ赤にして涙を堪えていた。僕まで涙が出そうになってしまったくらいに。


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