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『チヨの森⑤』子どもサスペンス劇場
第五章 難関
僕は、呆然と立ち尽くしました。目の前に広がるブラックホール、いや、その会議室には、誰もいませんでした。僕と山中さんの二人だけです。あと、リュックの中のミー。
「すまん。だました」
えっ、と恐怖を覚えましたが、もう遅いようです。「狐につままれる」とは、こういうことなのでしょうか。
僕の後ろのドアは、鍵を掛けられ、もうずっと前から開いたことのないように静かに黙っています。
とうとう僕は、異界への入口にたどり着いてしまったかのでしょうか。一瞬で体中が凍りつきました。
「今回は榊君のことがあったから、研究会自体がお休み。しばらく再開の見通しもつかないだろうなあ」
そんなあ、と思いながら山中さんのことを少し睨みました。それでもなおこの状況におびえ続けていると、山中さんは僕に構わず、机いっぱいに森神町の地図を広げていました。
「こ、これ!」
「ふん。俺が書いた」
目を見張りました。それは、例えば新聞広告で大々的に宣伝しているような、マニアが通販で購入するような、見事な絵地図でした。こんなきれいな地図を、僕は今まで生きてきて(たったの十一年ですが)見たことがありません。インターネットで手軽に見られる地図とはまったく異質のものでした。
真ん中には緑豊かなチヨの森が、堂々と描かれており、その周りを様々な色の屋根をした住宅や畑、学校、隅々に葉脈のように広がる道路や病院、もちろん六道の辻がその周りを取り囲むように描かれています。自動車や人々の歩く様子まで描かれていて、本格的でした。
「すごいですね。これ」
「お世辞はいらない」
「お世辞じゃないです。だって、CGみたいです」
「CGって?」
「えーと、コンピューターグラフィックです」
「ふん。そんなフィックは、知らん」
さっきまで心の中で充満していた不信感と恐怖心はどこかに吹き飛ばされ、僕はしばしこの綺麗な地図に目を奪われていました。
それはまるで、鳥が空から眺めた映像をそのまま写真で撮り、それを元に絵にしたようだったからです。
「こんな。元々は町の中で、こんなに森が面積を取っていたんですね」
「そうだ。今の十倍はあったぞ。間違いなくな」
それからも、山中さんは我を忘れたように森神町のことについて話し始めました。神社やお寺以外に何もなかった町は、おもちゃの模型が組立つように、警察署ができ消防署ができました。病院、小学校、スーパーマーケット、その他公共の施設など次々と完成し、命を吹き込まれるように町が呼吸をし始めたのだそうです。
「と、いうわけなんだ。だから、『チヨの森』の一部分だったこの道。君が榊君と別れた坂道は何かがある、というより何かがいる。間違いなくだ」
「何かが・・・・・・」
「そう、何かが・・・・・・」
「みゃー」
「そう、みゃーが・・・・・・」
間の抜けた猫の声。それは、僕たちが放しているのと同じ高さで聞こえたような気がしました。
「みゃーお」
山中さんの一つも変えない表情と冷たい視線に、僕は猫真似をして慌てて隠そうとしましたが、もう間に合いません。
ミーは空気を読まずに、山中さんの前まで来て体をくねらせました。
「ここは、動物禁止だぞ」
山中さんからの厳しい視線に肩を小さくする僕を横目に、ミーは無関心を決め込んで、ずんずんと机の上を歩き出し地図に到達しました。ミーのつま先は、まるで順番が決まっているかのように道路の曲線を器用にとらえていました。
「あっ」
ある部分に座ったミー。のんびりと毛繕いを始めました。
「あちゃ」
ミーが座り込んだそこは、チヨの森が始まる、ちょうどスタート地点に当たる所でした。
「どうやら、早く森に行けってことらしいな」
山中さんの手が、ミーに伸びました。
「あっ」
僕は最悪の事態を想像して目を覆いました。
「かわいいなあ、よしよし」
そんな僕の心配をよそに、山中さんはその大きな手で、ミーの頭を優しく触りました。
僕らは、その後すぐに荷物をまとめ、早速森にやってきました。
『立ち入り禁止』と書かれた看板は、これまでの雨や風でだいぶ痛んで、そこかしこが錆びて捲れあがり、塗装が取れかかっています。
周辺の雑草は生えっぱなしで、地面が見えないほどです。
そして、これまで気づいたことがありませんでしたが、森の入り口のその横には、誰が建てたのか、小さな祠とお地蔵様が安置されてありました。時代はそんなに古くなさそうです。そう、『神隠し』が流行した、ちょうど三十年の年月を感じさせるような佇まいでした。
ささやかながら、花束も手向けてありました。新しいお菓子や飴はきっと、研究会のおじいちゃんおばあちゃん達でしょう。お地蔵様が食べきれないほどにお菓子が山盛りになっていました。
そして森を見ました。あまりにもひっそりと佇んでいるその森に、僕は恐怖を感じませんでした。
というよりも、不思議なことに、切なさを強く感じたのです。
「もう、引き返せないぞ。帰るなら今だ」
お地蔵様に念入りに手を合わせながら、山中さんはそう言いました。その言葉は、僕に向けて言っているというよりも、自分自身に言い聞かせているようにも思えました。
「大丈夫です。覚悟はできています」
その時、つむじ風のような変な風が僕らを取り囲むように吹きました。
「みゃー」
背中のリュックから、ミーが地面に、忍者のように上手にヒラリと着地すると、その風は一層強く吹き荒れました。
「あっ、だめだよ、ミー」
ミーは僕らを森へと促すように、ゆっくりと中へ進んでいきます。道などないように見えるけれど、まるでミーには目的地までの道順がわかっているかのようにスムーズです。さっき、会議室で地図の上を上手に道なりに歩いたのと同じでした。こんな風に時々見せるミーの行動力は、不思議と正解まで導いてくれます。
「じゃあ、行こう」
ぎゅっと握りしめたリュックサックの肩紐にさらに力を込め、『立ち入り禁止』の看板の横を通り過ぎて、前へと進み始めました。
どこまで行っても同じ風景が広がっていました。すぐ側の道路を通る自動車の音もしっかりと聞こえてきます。
普段と同じ、森神町の日常です。
「この辺が、中心部だ」
山中さんは慣れた様子で足を止め、今までとは違い、少しだけぬかるんだ感じの地面にしゃがみ込みました。そして右手を土に付け、確かめるように触りました。
「ここが、七色鯉がいたという沼の跡だ。今ではすっかり埋め立てられているが」
あっけないほどすぐに、そこに僕らはたどり着きました。ミーもちょこんと座って欠伸をしています。
「ミー、だめだろ先に行っちゃ」
ミーを抱き上げると、ぷにゅぷにゅとした肉球が、土でしっとりと湿っているのが分かります。
「こいつを見てみると、安心してもいられないぞ。狭いと言っても、やはり『神隠し』の森だ、ここは。ほら」
ガサガサして分厚い山中さんの手の中には、年季の入った丸い方位磁針があります。その針は、行く先を定められずにただクルクルと回転し続けていました。
「これは?」
「この辺には磁場があるってことだ。わずか道路から数十メートルしか離れていない所なのに、ここだけが不思議な空間だってことだろうな」
僕と山中さんの周りからは、確かに雑踏が全て聞こえます。おばさん達の立ち話の声や、学校の校庭で遊んでいる子供達の歓声。全て聞こえるのです。
「どうしてここに、入り込んじまったんだろう。真がどうして。あの子は物騒な所になんか、一人で行くような子じゃなかった。気が小さかった。不思議でならないんだよ」
山中さんのしゃがみ込んだ横に、ミーが座りました。まるで、慰めているかのように山中さんの顔をのぞき込みました。
「その、山中さん、奥さんとか、他にご家族は?」
何か話さなくちゃ。
このタイミングで、そんな突拍子もないことを聞いてしまった自分にびっくりしつつも、ずっと興味があったことでした。だって、山中さんが、とっても寂しそうだったからです。もし、長い間一人ぼっちでこの悲しい事実に向き合っているとするならば、僕だったら耐えられないでしょう。
ミーを撫でていた山中さんは、唐突な質問にびっくりした顔で僕の顔をのぞき込みましたが、すぐに笑顔になりました。
「・・・・・・。家内は、真の母親は、事件の心労で十五年前に死んじまった。俺は、家内の家に婿として入っていたんだが、息子も見つからないし、いつまでも家内の苗字を名乗っているのも気まずくて。家内が死んですぐ籍を抜いたんだ。ま、難しい話でわからんだろうが。だから、俺は今は一人だ。戸籍上でもこの世でも、正真正銘のたった一人」
「そう、ですか・・・・・・」
この森から見上げる丸くて狭い空は、とても深く青くて。入ったことはないけれど、多分、うっかり入ってしまった一匹の蛙が、井戸の中から見上げているようだと思いました。
きれいだけれど切なくて、果てしもなく続く空の遠くの遠くには果てがなく、どこまで追掛けても雲があるように見えます。もう二度と、外の世界には出られないような不安感もありました。
「多分、真は死んでるだろう。それは俺だって分かってるんだ。でも、死体が出てこない。だから納得がいかないんだ。この目で確かに真の体を見ない限り、死んでいるという納得ができないんだ。だから、ずっと探している。そして、弔ってやりたい。もちろん、犯人も見つけたい」
山中さんは、泣いていました。僕も涙がこぼれてきました。山中さんは急いで袖に口を当てて、僕に背中を向けました。
大人も、泣くのですね。
それまで大きく見えていた、少し曲がった背中が、小刻みに震えて一回り小さく感じられました。
ひとりぼっちの真君を、ひとりぼっちの山中さんが捜していて、そして真君のお母さんはひとりぼっちでこの世を去ってしまったのです。三つの寂しさは交わることなく、常に一方通行だったのだと、僕は、山中さんの背中を見ながら、ぼんやりと考えていました。
すると突然、森の入り口の方からパトカーのサイレンが強烈な音量で聞こえてきました。耳をつんざくような心臓に悪い音は、とても近い場所で止まっています。
「この中に、人がいるかー!」
静かだった森に、大きな怒号が雷のようにとどろきました。まさに青天の霹靂です。
「なんだろう?」
僕はミーを抱きかかえたまま、急いで山中さんに近づきました。山中さんは入口の方へ歩み寄り意識を集中し、黙ったまま頭を横に振りました。
「わからん。なんの騒ぎだろう」
茂みをかき分け、山中さんが少し体を声のする外側へと向きを変えたその時でした。
「お前、何してる!」
木々の間から現れた一人の警官が、乱暴に山中さんの右腕をとらえました。
すると、間髪入れずにもう一人の警官が、山中さんの持っていた方位磁針とショルダーバッグを取り上げました。その動きには、なんの遠慮も容赦もありませんでした。繰り返し訓練を受け、手順を体にたたき込んだ人の動きなのでしょう。なんだかダンスのステップのように見えました。
「君、大丈夫か?何も変なことされていないか?」
良く状況が飲み込めないまま、僕は泣き笑いの顔で曖昧に頷きました。ミーが体を半分以上空中に浮かせて、今にも僕の手から前のめりに逃げ出しそうです。
「さきほど近所から、小学生の男の子を森に連れ込んだ、怪しい男がいると通報があった。ちょっと署までご同行願う」
「いや、ちょっと、その、違うぞ。何を言ってるんだ!」
「理由は後で聞く。署まで来るんだ!」
山中さんは、警官に必死で説明しようとしていました。僕も警官に理由を説明しようとしましたが、まったく取り合ってくれません。
「男の子、泣いてるじゃないか。何をしたんだ!言い訳はいいから、とりあえず署まで来い!」
山中さんの手首には、テレビでしか見たことがなかった、冷たくて痛そうな黒い手錠がかけられました。
僕の目の前の風景が、昼間なのに、夜みたいに真っ暗になった気がしました。
「待って。ここは、この森は俺の息子が行方不明になった場所で・・・・・・」
「いいから、来い!」
森の入り口は騒然となっていました。黒山の人だかりができていて、皆、好奇の目を山中さんと僕に向けていました。ヒソヒソ話をしている学校の同級生もいました。
「私が通報したのよ。ボク、大丈夫だった?」
まったく見知らぬ女の人が、これ見よがしに周りの人に聞こえるようにわざと大きな声でそう言うと、僕の肩を気安く触ってきました。
「変態が捕まったのか?」
「ブログに載せようぜ」
嬉しそうに、携帯で動画を撮っている中学生もいました。
「君も、ちょっと署まで来てもらうからね。心配しなくてもいいよ。少し話を聞かせてもらうだけから。ほら!危ないから!そこ、どいてどいて!」
山中さんが乗せられたパトカーの後ろのパトカーに乗り込むと、窓の外からのぞき込んでくる無遠慮な顔がたくさんあります。買い物袋を下げたまま、にやにやしているバラおばさんが目にとまりました。
なんだか、森の中ではなく町の中で、妖怪に出会ってしまったような妙な気分になりました。
みんなが楽しそうな、嫌な視線で僕を品定めしているようです。僕はその、まるで見せ物を見ているような妖怪達の視線から避けるように、体を深くシートに沈み込ませました。
もっと、もっと深く地面の底まで沈みたいと思いました。それまでちゃっかりリュックに隠れていたミーも、キョロキョロと落ち着きません。
「大変なことになったよ、ミー。どうしよう」
パトカーが少し走り出して人の視線から隠れなくても良くなると、シートに座り直してから、僕は前のパトカーを見ました。
山中さんのゴマ白髪の後頭部が見えました。さっきまで泣いていた山中さん。こんなことになるなんて思っても見ませんでした。
「君、榊君の友達の大介君だよね。僕のこと覚えてる?」
聞き覚えのある声にふと横を見ると、前に学校で話をした若い警察官でした。
「この前は制服着ていなかったからね。分からなかっただろ?今日はこんなに格好良くて。また会ったね。大介君とは何だか縁がありそうだ。自分の名前は大泉です」
今日築地で水揚げされた、活きのいい黒光りした鮪のような肌は相変わらずで、目は何日も眠っていないかのように真っ赤に充血していました。
なんだか黒ウサギのようです。
「今回はどうして森になんて行ったの?だめじゃない、知らない人と入っちゃ。小学校の高学年なんだから、分かるでしょ?しっかりしないと」
眉を八の字にして、困った顔を作りながら黒ウサギ警官は僕に言いました。
「知らない人じゃありません。山中さんはとてもいい人で、榊君に誘われて行った研究会の人なんです」
「うええ、そうなの?まずいなそりゃ。でもとりあえず署まではつきあってね。ああ、上司に言わなきゃ」
黒ウサギ警官はそう言うと、慌てて無線で前のパトカーに連絡し始めました。無線の向こうで喋る、上司のボス猿も驚いている様子で、そのやりとりはしばらく続きました。でも、これで山中さんの容疑は晴れそうです。
「でもね、大介君。あの森は立ち入り禁止だから、どっちにしたって許可無しに入ったらだめなんだよ。それだけは覚えておいて」
僕はそれには答えず、見慣れた森神町の風景を、パトカーの窓からぼんやりと眺めていました。
思っているほど、僕は町のことを知らないのかもしれません。よそ者を見るような人々の視線は、後味が悪くて、忘れることができません。
「みゃー」
「ミー、ダメだよ外に出ちゃ」
「みゃーん」
「ああっ、猫がいる!僕、猫アレルギーなんだよな」
そういうと黒ウサギは、急いでハンカチで鼻を押さえました。
そして、特大の「ハックション」のくしゃみと共に、僕らは森神署に到着したのでした。