
『チヨの森②』子どもサスペンス劇場
第二章 接近
♪夕焼け小焼けで日が暮れて~
山のお寺の鐘が鳴る~♪
(『夕焼け小焼け』
仲村雨紅作詞・草川信作曲)
十月になると、子供たちに遊びを終え家に帰るよう促す時刻を知らせる市役所の音楽が、四時半にスピーカーで流れるようになります。まだまだ外は明るくて太陽は遊び足りないようですが、決まりですから仕方ありません。
そのルールは小学校内でも同様ですから、僕は途中まで読み終えた本を閉じて、そそくさと帰り支度を始めたわけです。
「今日は烏森君の郷土愛に触れることができて、僕も有意義な時間を過ごすことができたよ。よかったら明後日の日曜日に『森神の森を語り継ぐ会』に参加しない?行ったことがあるかどうかわからないけれど、元五小(第五小学校)があった五丁目にある市役所会館の二階で、午後一時半から。会費は一円もかからないし、もちろん資格は一切問わない。資格をあえて言うとするならば、そうだなあ。この森神町を愛しているということだけ。君が来ることを待っているよ。あ、そうそう部屋番号は二○六。もし場所が分からなかったら、僕の家に電話してくれればいいし」
僕は榊君への返事も曖昧に、図書カードをあいうえお順に戸棚に仕舞うと、やけに重たいランドセルを急いで右肩に掛けました。
「困ったなあ。『なんちゃら会』になんか、大事な休みの日に行くわけないじゃないか・・・・・・」
図書室を出て、最初の角を曲がったところで言った呟き。
榊君には聞こえていないと思っていました。
「待ってるよ。烏森君、君はきっと来るだろう」
帰り道に見上げた、紫色と橙色のマーブル模様の空。四歳の時のクリスマスに父親に初めて買ってもらった、平仮名ばかりの絵本で見た空に似ています。話の内容はちっとも覚えていないけれど、空の色がとてもきれいな本だったことだけは覚えています。今、その絵本は弟に引き継いだ後、弟がどこかへ失くしてしまいました。
明日の天気はやっと晴れなのでしょうか。このところ、「秋晴れ」という名前にふさわしく気持よく晴れたという日が少なくて、洗濯物がよく乾かないらしいのです。そのせいなのか、お母さんが訳もなく不機嫌で、八つ当たりに困っていたところなので助かりました。
「みゃーお」
ソックスを履いているみたいに四本の足が白い白足猫のミー(勝手に僕の家族が付けている名前なので、本当の名前ではありません)が、いつも通りに駐車場の脇からそっと出てきて、僕の足元に体をすり寄せてきました。この猫は野良猫で、特に僕の家で飼っているというわけではありません。最初のうちは革製の細くて赤い首輪を付けていたように思うのですが、それもいつの間にやらどこかにいってしまったようです。いつの頃からか気まぐれに家の玄関に現れては、家族の足元に身をよじらせてくるので、なんとなく餌をやったり可愛がったりしている風来坊です。
「ただいま。今日は少し寒かったね」
野良猫のくせになんだか毛艶が良くて、どうして雨が降った翌日でも、洗剤で洗ってもらっているように清潔なのかは謎です。たまに、とてもいい石けんの香りもするし。でもきっと要領のいいミーのことだから、我が家以外の他にも故意にしている馴染みの家が数カ所あるのでしょう。
「今日はお腹空いてる?」
返事は聞こえませんでしたが、なんとなくミーが頷いたように見えたので、僕は玄関で待っているように合図しました。
「隣りのバラおばさんには見つからないようにするんだよ。おばさんは動物が大嫌いだから。特に猫。いいね?」
「バラおばさん」とは、どうしてもバラ柄の服が好きで毎日のようにバラ柄のワンピースを着ている、お隣りさんのことです。苗字は角掘(すみぼり)さんと言いますが、見た目で表現した方が覚えやすいので僕が名付けました。
母親には、
「失礼だから、バラおばさんと呼ぶことは止めなさい」
と、言われていますが・・・・・・。母親こそ、最初に角掘さんを見たときに、バラの魔女みたいって、吹き出しながら父親に言っていたくせに。
僕の言う通りに、利口なミーは定位置の傘立ての横にちょこんと座り、角堀さんに見つからないようにしておとなしく待ってくれているようです。
夕暮れ時、僕の家のドアからは、想像するだけでお腹の虫が鳴き出しそうなクリームシチューのいい香りが外に洩れています。
まるで、この乾いた冷たい秋の空気をも温めてくれるようです。
お母さんと僕と弟だけの夕飯が終わると、残業を終えた父親が帰ってきました。
最近はこのご時世、長引く不況と人員削減のおかげで連日残業続きです。それでも本人は、「クビにならないだけましだ」と言っています。
忙しさでよっぽど疲れているのか、鏡餅のようだった大きなお腹も、最近は少し小さくなってきたようです。
「ダイは学校、どうだ?」
ふんわりと柔軟剤の香りがする、お馴染みのグレーのスウェットに着替え、父親は発泡酒の缶を冷蔵庫から取り出します。それから決まって、こう言います。
「かーっ、このために仕事してる」
と。
母親財務大臣のマニフェストにより、父親のビールも経費削減のため我が家では発泡酒に変更となったのだそうです。
そのうち母親厚生労働大臣の命令でノンアルコールビールになるかもしれません。
お風呂上がり、まだ濡れたままの髪の毛をバスタオルで拭きながら食卓の料理をつまみました。
「楽しいか?」
これだけは、毎日必ず聞いてくる台詞です。でも、僕はこれだけで十分うれしいです。
だから、決まって答えはこう答えています。
「大丈夫。とても楽しいよ」
翌々日の日曜日、秋らしくとても空が高くていいお天気でした。
母親は、それまでの鬱憤を晴らすかのごとく、昨日に引き続き、朝起きた途端に盛大に洗濯機を回していました。
その後は、弟と一緒に近くのスイミングスクールに出かけていて、今は留守です。僕も先月まで同じスイミングスクールに通っていましたが、前から癖になっていた左耳の中耳炎がひどいので、今月は大事を取ってプールに近づいていません。
日曜日の午前十時近く。
隣のバラおばさんは、ご自慢の庭でガーデニングを楽しんでいます。なんでも自分の庭がとあるガーデニング雑誌に取り上げられたとか何とかで、今まで以上に舞い上がっているのだそうです。ですので余計に、我が家の洗濯機の音に負けないくらい大音量の鼻歌が、朝七時から聞こえていました。多分、ご町内に響き渡っていたことと思います。
朝食を食べ終わりまどろんでいると、いつものようにミーの声がしたので、中庭でしばし戯れてみます。
「はー。今日はいい天気だね、ミー。何かして遊ばなくちゃ損だよね」
と、少し演劇風に大きな声で言ってみましたが、反応はありません。本当はお父さんとキャッチボールをしたいと思っていましたが、この時間になっても疲れて眠っていたので、諦めました。
また、いくらでも時間はあるから。今は休ませてあげようと。
「この後どうしようか、ミー」
「みゃー」
「天気もいいし、時間もあるし」
「にゃー、にゃー、にゃー」
「どこか行かないと、もったいないよね」
「みゃ、みゃー」
「やっぱりそうしてみる?」
「みゃー」
「気になるしね」
「みゃー」
「はあ」
そして・・・・・・。
大いに不本意ではありましたが、榊君の言うとおり(黒魔術でもかけられたのかもしれません)、僕は五丁目にある市民会館の扉を重々しく開くことになったのです。
何度も言いますが、本当にこれは不本意です。
だって、あの榊君の言うとおりにするなんて・・・・・・。
でも後でわかることになりますが、これは不本意なんかじゃなかったのです。不思議な運命の縁の糸が、この場所へと僕を導くことになったのです。
僕は、少しの不安と好奇心を胸に、煤けたコンクリートの建物の二階にある、冷たくて鳥居みたいな朱色の扉を開けたのです。
いっせいに黒と白の色をした頭がこちらを向きました。結構な数です。僕は正直人見知りなので、この状況は相当パニックです。
全員が、敵に見えました。なんだか、たんぽぽの綿帽子がこちらに同時に飛んできたようで、鼻がむずむずするような変な違和感を覚えました.
「いらっしゃい」
誰よりもいち早く言ったのは、両手を大きく振りながらこちらに合図を送る、マスク姿の榊君でした。不思議でした。休日にまで会いたくないはずのその顔に、どうしてだかホッとしたような、救われたような気分になったのです。海外のチームに入るサッカー選手は、最初こういう気持ちなんだろうなあ、などと想像しながら、たくさんの突き刺さるアウェーな視線から逃れるように、僕は急いで榊君の隣りに座りました。
部屋の大きさは、ちょうど僕が通っている小学校の教室と同じくらいの会議室でしょうか。元々あった第五小学校は、急激な児童減少により統合され二十年前に閉鎖。その後改築され、すぐに市民会館として使用されるようになったのだそうです。
掲示板には、昔の森神町の写真や江戸時代の古地図、偉そうに髭を蓄えた紳士の肖像画が、睨み付けるように何枚か飾ってありました。ちょうどそれは、夜中になると喋りだしそうな音楽室のベートーヴェンやシューベルトの肖像みたいに。
大体人数は二十人以上はいたでしょうか。部屋いっぱいにコの字型に並べられた机に、所狭しと腰掛けているおじいちゃんとおばあちゃん達。森神町中のご老人達が一同に介したのではないかと思うほどの人数です。最初は興味津々で観察していましたが、珍客である僕の姿に飽きると、あっという間に前に向き直っています。少しだけ埃っぽい昭和なままのその集会所で、ペットボトルの水の蓋を開けもせずに語っているそのご老人達。唾を飛ばしながら隣りの人とも議論を戦わせています。なんだか、政治家達が国会で開く会議よりも白熱しているように見えます。居眠りしている人なんて、一人もいません。目を反らすこともなく、それぞれが真剣な表情を議長のような役割の人に向けながら、レポート用紙にメモを取り始めました。
「やっぱり来てくれると思った。待っていたよ」
少し鼻声の嬉しそうな榊君は、僕にそっと今日のレジュメを渡しました。
「榊君、風邪?」
「あああ、ちょっと昨日眠れなくてね」
心なしか、榊君の頬が赤くなったような気がしました。僕が、榊君の赤くなった頬を不思議に思った視線に気づいたのか、彼は急いで状況の説明を始めました。
「今、里田さんの横で話しているのは、山中猛さん。彼は、息子さんがいわゆる『神隠し』にあったお父さんで、今だに行方不明のままなんだ。当時、第三小学校での犠牲者さ」
無精髭の山中さんは、ホワイトボードに大きな字で書いていました。
―我が息子、真、今いずこ―
見つかっていない息子さんの消息を、少し頭髪が薄くなり白髪になった今でも探し続けている父親。
それも、うんと昔のことというよりも、山中さんにとってはつい最近のことのように鮮明に、かつ生々しく当時の様子を語っていました。僕は初め、息子さんの失踪がまだつい最近の事件なのだと勘違いするほどでした。
語るというよりも、訴えるといった方が近いかもしれません。
涙こそ流してはいませんでしたが、非常に興奮していました。決して諦めてはいないようで、ホワイトボードに『チヨの森』の細かい地図を広げ、ここに当時、小さいけれど沼があったということを力説していました。
「本当にここには沼があったんです。でも、どういう理由からか今は埋め立てられてしまったらしい。だから、証拠がなくなってしまった。当時ここにはきちんとした囲いはなく、誰でも簡単に入れるようになっていたんです。きっと真は、ここの沼に住むと言われていた七色鯉を見に行って、何らかの事故にあったのだと思われるのです。なぜなら、その前の日にたまたま、私が七色鯉の話をしたからです」
緻密に描かれた地図には、赤い×印がいくつも書かれていました。その赤い×印は、紛れもなく命の印です。
「あの赤字で書かれている×印は、それぞれの行方不明者が最後に目撃された場所なんだ」
ちらっと覗き見た榊君の大学ノートは、繊細な文字が蟻のようにびっしりと書かれていて、真っ黒でした。榊君の人柄が、そのまま現れているようなノート。
地図に記された一定していない×印。なんの関係性も見つけられないように、でも、それはきちんと『チヨの森』の周りを取り囲むように六カ所ありました。
「この『チヨの森』には、幼児を好むよからぬ不審者がいたという証言も少数ながらつかめています。でも、その不審者が捕まることはありませんでした。当時、犯人は若い男だということまで分かっていたのに、確固たる証拠が出てきてない。しかし分かっていたのは、連れ去られたすべての子供達が七色鯉の話に興味を持っていたということ。きっと犯人は、七色鯉の話をして子供達を油断させて・・・・・・。七色鯉の話なんか、真にしなければよかった。私のせいだ。そうだ、私のせいなんだ!」
山中さんは、目眩を起こしたように体を揺らすと、突然がくんと膝を落としました。慌てて回りのおじいさん達がその体を支えます。辺りは騒然となりました。
自分を責めているのでしょうか。山中さんは興奮した気持ちを押さえきれない様子で、自分で自分の肩を抱き、落ち着くまでしばらく全身を震わせていました。
山中さんの発表の後も、続々と森神町における神隠しの実例や、沼での昔話と当時の証言を元に撮影された写真や記事がスライドで流されました。そこには、今の『チヨの森』とは似てもにつかない、鬱蒼としたオドロオドロしい森の姿。舐めるようなカメラワークで、その大きな森が真っ暗な部屋の真っ白な壁一面に映し出されました。これは、『神隠しの森』として一世風靡していた当時の姿を撮った、朝のワイドショー番組の映像なのだそうです。見ているだけで森に引きずり込まれてしまうのではないかと、僕は思わず仰け反ったほどでした。
「怖いだろ?あれが、本当の『チヨの森』の姿だよ。今の姿は仮の姿。何が潜んでいてもわからないような、今では想像もつかないほどとてつもなく大きな森だったんだ」
魔女、いや、鬼それとも天狗?妖怪や化け物、それだけではなく、人間を喰い殺すような獣も存在しそうな森。生い茂る木々の葉からは、そうした「何者か」の獲物を待っているような呼吸の音が聞こえてきそうなほどだったのです。
でも何故か、僕には森が悲しそうに見えたことも、また真実でした。
研究会はそれから二時間程続き、興奮も冷めやらぬままに幕を閉じました。まだまだ喋り足りなさそうな老人達は、僕に優しく微笑み、ゆっくりとしたリズムで会釈をしてから退出していきました。名残惜しそうに、でもどことなく軽やかに。
「この後ご老人達は懇親会なんだけど、お酒を飲む会だから僕たちは遠慮しようね。ご老人達は、どっちかって言うと研究会より『飲み会』が主役だから。ところで、びっくりしただろう?山中さんは、この研究会で唯一残っている、神隠しにあった児童を持つ当事者なんだ。他の行方不明児童を持つ親達や家族なんかは、ずいぶん昔に全員引っ越していった。いやあ、普段は山中さん冷静なんだけど、今日は珍しかったよ。僕も少々びっくりしたくらいなんだ」
山中さんはまだ、資料を整理しながら部屋に残っていました。スライドで発表した写真は、もう今までに何百回も映し出された写真なのだそうです。
「山中さん、お疲れ様でした」
榊君は、片付けている山中さんの横に行き、タイミングを計るかのように少し間をおいてから、僕を手招きしました。
「彼が今度新しく参加することになったクラスメイトの烏森君です。どうぞよろしく お願いします。ほら」
なぜだか、榊君は僕の上司気取りで、偉そうに顎を突き出し挨拶をするよう促してきました。こういうところが、榊君の友達を作る上でマイナスに働いているのだろうと思います。
「あっ、はあ、烏森大介です。よろしく、お願いします」
獲物を狙う狼のようです。その鋭い眼差しで僕を一瞬一瞥しただけで、山中さんは僕にこう言いました。
「興味本位なら、やめた方がいい。この研究会は子供が好奇心で足を踏み入れるような簡単な学級会ごっこじゃないんだから。『チヨの森』の恐ろしさは、舐めないほうがいい。関わらない方がいい」
なぜだろう、何も知らぬまま参加した僕は怒られました。
「まあまあ、山中さん。興味本位ではないから安心してください。ね?烏森くん」
目を瞬いて、榊君は頷くように合図しました。
「うっ。は、はあ」
頭に来ましたが、でも、わかるような気がしたのです。自分が今まで調べてきた息子へと続く場所に、面白半分で踏み入れられたくない、そんな繊細で壊れやすい気持ちが痛い程伝わってきたのです。
―でも、わかってほしいのです―
そんな山中さんの心の声も、一緒に聞こえた気がしました。
一通り片付け終えると、そのまま何も言わずに山中さんは僕らの前から去っていきました。
子供の反抗期は難しいけれど、大人も難しいです。
「今日は来てくれて本当に嬉しかったよ。来週の『森神の森を語り継ぐ会』は、久しぶりに外に出て、フィールドワークだって言ってた」
「フィールドワークって?」
「君に分かるように簡単に言えば、ようするに野外調査のことだよ。現場に実際に行って、調査や作業をすることさ。野外と言っても僕らの場合は、『チヨの森』をぐるりと回って現場を再度確認するというものなんだ。当時の地図と照らし合わせながら写真を撮ったり、森の大きさを計測してみたり。来られたら、来てみるとおもしろいよ」
「あっ、榊君、お大事に」
息つく暇もなく「じゃ」と右手を挙げて僕にさよならを告げた榊君は、本当に嬉しそうでした。
だって、スキップしていましたから。
「みゃーお」
声に気づいて下を見ると、どこから来たのかミーが僕を出迎えました。
「こんな所まで来たの?ミーの縄張りって、意外と範囲が広いんだね。というか、良く僕がここにいるって分かったね」
「みゃー」
顎の下を手の甲でなでると、とろけ落ちそうな表情で体をくねらせるミー。家の近所以外で会ったことがなかったので驚きましたが、そのまま一緒に帰ることにしました。
「ミーは、どう思う?」
学校では見たことのない、イキイキとした表情が印象的でした。
「榊君ってちょっと変だよね。でも、案外いい奴かもね」
「にゃーん」
マッシュルーム頭の榊君がひらひらと、坂を下りては振り返り、また手を振って僕を見ます。
「まだ手、振ってるよ」
「みゃー」
何度も何度も、榊君は僕に手を振って見せました。まったく、明日になれば学校で会えるのにです。
「面白い奴だね」
「にゃん」
「そう思う?
「みゃーん」
「もしかしたら、第一印象で人は決めちゃいけないかもしれないよね」
ミーにそう言って、僕も手を振りました。
まさか、これが榊君との最後になるとは思いもせずに・・・・・・。