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『ギターの先生④』
第4練習 ワタシと覗き男とオバケ少年
「ひ!」
まさか自分が、「ひ」と言う日が来るとは微塵も思わなかったが、
本日ただいまワタシは口にしていた。
目の前に見えている少年は、明らかにこの世のものではないと確信している。
ただならぬ寒気と鳥肌と体の硬直。目は開いているのにまったくどこの筋肉も動かすことができない。
そして何より、最初はいなくて店長がドアを開けて閉めた瞬間に部屋にいたという、人間ではあり得ない移動。
「聞こえてるんでしょ?おばさん」
さっきからむかついている。本人は十分自覚しているが、こんなにも連呼されると本当に心から、むかつく。
「おばさんおばさんって、吐き捨てるように。さっきから何?失礼じゃない?お知らせもなしに突然出てきてさ。なんでそんなに上からなのよ」
頭ではそのセリフを言っているつもりだったけれど、口は言うことを利かない。
だけれども、その高校生と思われる何物かはワタシの気持ちを正確に理解したようだった。
「ごめん。なさい」
しょぼんとした様子の少年は、足を一歩こちらに向かって踏み出した。
そしてワタシのギターを指さしてニコリと微笑んだ。
「あなた様は、どんな音楽が好きなの?」
少年の頭の中のコンピューターを総動員して導き出した、失礼ではないと思われるワタシへの呼び方が「あなた様」だった。
素直に言い換えてくれたことがなんだか可愛らしくて、オバケということを忘れて親近感がわいた。
娘のおんぷと同じような年齢なのもその理由だ。
「それより」
この硬直状態の体をどうにかしてほしい、と目を見ながら心の中で伝えてみた。
少年は一瞬天井に視線を泳がせたが、すぐに向き直り頷いた。
ミラーボールが音楽に合わせて呑気に回っている。
一瞬ワタシが目を離した隙に少年はワタシの隣に座り、ギターを熱心に見つめていた。
多分相当なギター好きなのだろう。
食べてしまうのではないかと思うくらいの勢いだ。
気が付くとワタシの体は自由を取り戻していた。
安心してアイスコーヒーを飲む。なんだか乾いていた口に潤いが戻り、改めて少年と会話をしてみようと試みた。
「ああ、ギターの音が聞こえたからさ。すんごい下手くそな」
まだ表には出していないつもりだったけれど、言葉は外に出てしまっていたのか。
ん?下手くそ?
「違うよ。あなた様が頭の中で思ったことは、オレにその時点で聞こえてるから」
少年よ、めちゃくちゃ便利なシステムだけれど、初対面のオバサンに下手くそ?
「そう。だって、下手くそだよ」
そりゃそうでしょうよ。今日初めてギター教室に行き始めることを決めたのだから。
「へえ、そうなんだ。で、なんでギターなの?」
聞かれて思った。
そうだ、どうしてワタシは数ある楽器の中からギターを始めたのだろう。
あの日パパにもおんぷにも夕飯を振られて、ふと独りぼっちだと気付いて。
勝手に、自分みたいな主婦は平日夜のゴハン屋さんに一人でお酒を飲みに行ってはいけないのではないかという固定観念を、押し付けていた。
そんな時に前から気になっていたお店にえいやっと飛び込んで、そこで出会ったギターの音色。
そして、色男。
「ほほほお。色男ね」
少年はニヤニヤしながら腕を組み、ワタシを小馬鹿にしたような風で見てきた。
高校生にもなると、こうした想像を働かせるのが一番楽しい時期なのだから
好奇心の格好の餌食だ。
「でもさ、理由なんてそんなもんでいいんじゃない?俺も結局モテたくてギター始めたから」
偉そうに長い脚を組んで、自然な流れでワタシが注文した野菜スティックに手を伸ばした。
しかし、少年の指は朝採れきゅうりを捉えられずにむなしく空気を掴んだ。
「あ、食べられないんだった。ちぇ」
食べるとか飲むという行為は、具体的にできないらしい。念力で何とかなりそうなものだが、無理なのだそう。
「大好きな炭酸も飲めないしさ。本当いやだ」
何度もきゅうりを掴もうとチャレンジするが、すべて失敗。
ワタシがきゅうり本体を掴んで少年の口に持っていこうとするが、それも無駄だということが分かった。
「なんだか、あなた様楽しそうじゃない?」
必死に嘴を前に突き出して食らいつこうとする雛鳥に、餌をあげる親鳥の気分でワタシは少年にきゅうりを何とか食べさせようとしていた。
思い出す。娘に離乳食を与えていた頃。
ニンジンと白身魚を少しの塩で茹でてすりつぶす。ゴハンをドロドロに柔らかくしてから混ぜてオレンジ色のおじやにした。
「あーんして。オレンジ色できれいきれいねえ。」
そんなことを言ったとて、ミルクの方が断然好きなわけで、全力で拒否をする娘。
開け放った窓の外からは、楽しそうに公園で遊ぶ保育園児たちの声が聞こえ、自動車が行き交い時折鳥たちが鳴き、人々がおだやかに生活している音が聞こえてくる。
空は眩しいくらいに青く、目に染みるほど澄んでいた。
白地にピンクと水色の小花柄のカーテンが優しい風で踊るようにはためく。
一方ワタシと娘が2人が戦う平日のダイニング。
外の平和な様子とは一線を画し、娘は体操選手のように背中を反り返らせてから、ちゃぶ台をひっくり返す昭和の親父のようにお皿をひっくり返す。
今度はそのお皿がぶちまけられる様子にびっくりして大声で泣く。
散乱したおじやの見た目はまあ汚らしく、さっきまでの食べ物という地位から一気にゴミへと格下げになった。
雑巾で床を拭く。上から娘の唾液が頭のてっぺんに降りいだ。
ワタシは一体何をしているのだろう。
この世で、ワタシだけが悲惨なのだろうか。
まるで地獄絵図だった。
どうしようもなく涙がこみ上げてきて、娘と一緒に泣きじゃくった。
一番メンタルがやられたのは、この時だったかもしれない。
そんなことを、急に思い出していた。
「もういいよ。諦める。見て食べたつもりになるよ」
少年は両手を頭の後ろに組み、面倒くさそうにため息をついた。
可哀そうになりながら、ワタシはそのつまんでいたきゅうりをかじった。
「おいしい!」
水分がこんなにあるきゅうりは久しぶりに食べたかもしれない。そして、このお店オリジナルっぽい味噌。たまらなく酸味とスパイシーさが上手に混ざっている。
「いいなあ。きゅうり食べられて」
少年が口をとがらせるので、面白がってきゅうりを目の前で行ったり来たりさせた。
と、また視線を感じる。
店長だった。
確実に心配している様子で慌てて目をそらして部屋の前から立ち去った。
一体いつから観察されていたのだろうか。
多分、ワタシは変人扱いされるんだろうな。
「とりあえず、手を貸すよ」
少年は言った。
「色男、だろ?褒められたいだろ?色男に」
少年の手には、いつの間にか見知らぬギターが握られていた。
古めかしい、そして年期の入ったもののように見受けられた。
「こちらの世界のモノには触れられないみたいだから。急遽持ってきた」
そう言うと、少年は奏で始めた。
いままで物言わぬ楽器だったギターが、眠りから覚めたように唄い始めた。
それはどこか悲しげで、それでいて説得力のある音色だった。
ただのカラオケボックスは上等な劇場になり、ワタシはまたその音色たちに
包まれた。
「いい顔するね、あなた様」
いつの間にか演奏は終わっていた。
この曲、どこかで聴いたことがある。小さい頃か。
テレビか何かで耳にして、確か小学校でも歌った記憶があった。
「この曲だよ」
カラオケボックスの部屋の画面から、懐かしいメロディーが流れてくる。
忘れていたはずの、でもずっと胸の奥にしまってあった大切なものを発見した時のような気持ち。
好きだった、この曲。
「だろ?いい曲だよね。俺小学校で習って感動して泣いちゃって」
チクリと心に痛みがきた。
今の痛みは、きっとワタシの中の昔のワタシが指で刺したんだ。
「この曲を人前で演奏することを目標に、週に一回俺はここで待ってる」
少年は右手を差し出した。
「また来週、ここで会おう。練習あるのみ。家帰っても頑張れよ」
部屋から出ると、店長が受付からしわくちゃの顔で覗き込んだ。
肩で息をしている。走ったのか?それに泣いている?
「また来てくださいね」
こいつ、また覗いていたな。