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『チヨの森⑨』子どもサスペンス劇場
第九章 決着
みゃー、みゃー、みゃー、みゃー、みゃー。
聞こえてきたのは、僕が恐怖と不安で身体をこわばらせていた時でした。
どこからでしょう。壁を、この部屋の壁をカリカリと爪で引っ掻きながら猫が鳴いています。倉庫の表の方から聞こえてきているようです。
慌てたボス猿は、僕を掴んでいた手を一瞬放しました。その拍子に僕は、自由になった体を転がすように、声のする方へ近づきました。
「ミッ、ミー!」
僕の必死な声に答えるように、鳴き声は益々大きくなってきました。
そして、この危機的状況の中で僕は、暢気にこう思いました。
なんだ、ミーはやっぱり喋れないのか。
「ミー、僕はここだよ。ここにいる!」
「うるさい!」というボス猿の怒号と、ガツンという後頭部に受けた大きな衝撃が重なりました。そして、ガラスのような、金属を蹴破るような音と塗炭屋根が崩れるような音。片栗粉みたいな細かい石灰の白い粉が、部屋中に舞い上がりました。
その粉が、もろに僕の喉を突き刺します。
「虎革!もう逃げられないぞ!」
この威勢の良い男の声は、黒ウサギの声でしょうか。思ったよりも、頼りになります。
そして、がやがやと騒がしい何人もの声と走り来る足音、サイレンの音。
赤いフラッシュの光が、嫌というほどクルクルと回転しているのが、遠のいていく意識の中でも分かりました。
これで、どうやら助かるようです。体中の力が抜けて、魂まで抜けた気がしました。
「大介!」
「ダイ!しっかりして!」
短い間しか離れていないはずなのに、不思議と懐かしいです。父親と母親が僕の名前を呼んでいます。手の甲は、とってもくすぐったくて温かいです。多分、ミーが舐めているのでしょう。
「大介君、もう大丈夫だよ」
榊君の声です。
「大介君」
山中さんもいます。
「だいすけ君」
「ダイスケ君」
「大介様」
山でコダマが歌っているように、耳の中で色々な声が僕の名前を呼びました。
ざわざわと、風が静かにそよいでいます。音がないのに安心で、温かくてそして心が穏やかでいられる場所。
ここは、『チヨの森』です。
僕は森の中心にある沼の跡地に座り、膝で眠るミーの頭を撫でています。周りの音は何も聞こえません。森には、僕らだけです。
「こんにちは。大介君」
坊主頭のその男の子は、なぜだか知らないけれど僕の名前を知っていました。そしてゆっくりと横に座ると、こんな話を始めました。
「この沼には、とても綺麗な鯉が住んでいるんだよ。僕のお父さんが教えてくれたの。そして、その鯉は『地下の番人』、別名『チヨ者』と言われているんだ。なぜ鯉が『チヨ者』と呼ばれているかというと、鯉が立派な髭を蓄えた姿が、昔この森に住んでいたと言われている知恵のある長生きの老人に似ているからなんだって。そしてね、実はこの沼の下には地下世界があって、とても良いところなんだよ。その上、その世界がこの森の入り口につながっているんだ。そう、そこには今、お地蔵様が立っている」
「お地蔵様?ああ、入り口の所の」
「そう。そこの下にね、鼠のお家があって、そこにみんなで住んでるの」
「みんなって?」
男の子は少しだけ淋しそうに、でもにっこり笑って言いました。
「神隠し、された僕たち」
男の子の周りは、いつの間にかたくさんの白い鼠が取り囲んでいました。数千匹はいるでしょうか。見たことのない程の数です。あまりにたくさん居すぎて、気持ちが悪くなるくらいです。そのたくさんの鼠達が力を併せて男の子を持ち上げて、どこかに運んでいきます。
僕は、ハッと気づきました。
「君は、もしかして和光真君?」
男の子は振り返り、思い切り元気よく手を振りました。何度も、何度も。
そう、榊君が僕の前から永遠に消える前にしたように。
「みゃー」
僕が鼠に驚いて動けないでいると、男の子を追うように、ミーも僕を置いて小さな鼠を追い掛けて行ってしまいました。
「あっ、ミー」
すると今度は、テレポーテーションしたように、僕は一瞬の内に森の入り口に来ています。そこに、ミーが座っていました。
「どうも大介様、お久しぶりです猫左右衛門でございます」
ミーは、軽く頭をもたげて人間のするように会釈しました。
「ああ、ミー。やっぱり喋れるんだね」
「ははは。喋れますとも。ただ、この森の中でだけですが」
「そうなのか。普段は喋れないんだね、残念」
人間の言葉は喋れるけれど、僕が頭を撫でると、いつものようにミーは猫語でゴロゴロと喉を鳴らしました。
「実はここには、鼠たちの住む世界があります。それは、森の番人である、チヨ地蔵様の下にあります。下にありますよ、大介様」
「さっきも、真君に聞いたんだよ。あっ、どこに行くの?ミー?」
「チヨ地蔵様ですよ、下ですよ。そこに、みんないるのです」
「ミー、待って!」
「榊様が、待っていらっしゃいますよ」
そこで、僕は目が覚めました。
ピーピーピーという機械音と、真っ白な布団。真っ白な天井と真っ白なカーテン。少し呼吸が苦しい口には、プラスチックのマスクのようなものが取り付けられていて、左腕には点滴がされてありました。まったく見覚えの無い部屋です。どうやら僕は、病院のベッドの上にいるようです。
そして、目を動かすと、心配そうな顔の父親と母親と弟のヨシ。
「ああ、良かった。ダイが帰ってきた」
この世に生を受けて意識があるようになってから初めて、肋骨が折れるかと思うほど強く父親に抱きしめられました。僕の頭を触る手は分厚くて、このまま潰されてしまうのではないかと思ったほど力強いものでした。
「良かった、良かった。本当に良かった」
どうやら僕は、ボス猿に誘拐されて数時間、倉庫に監禁されていたのだそうです。ミーが見つけてくれなかったら、もしかしたら僕は殺されていたかもしれません。
「ダイ、神隠しは終わった。お前が終わらせたんだ」
父親はただただ涙を流していました。
「パパができなかったこと、ダイがやってくれたな。まこと君のお父さんも、きっと天国で喜んでいるよ」
山中さん、もう少しだけ早かったら、一緒に喜べましたね。
「もう、何も怖がることはないぞ。しっかりと体を休めればいい。たくさん眠ればいいさ」
「おにいちゃん、大丈夫?」
ヨシは、目に涙をいっぱい浮かべて僕の顔をのぞき込みました。
「大丈夫だよ。ヨシ」
僕はヨシの頭を撫でました。ヨシの髪の毛は、この世に帰ってきた、そう実感できる手触りでした。
「それからな。ダイ、元気になったら、大泉刑事に御礼を言うんだよ」
一瞬、名前と顔が一致しませんでした。
そうか、大泉刑事・・・・・・。大泉刑事。ああ、黒ウサギが僕を助けてくれたのだそうです。
というのは、父親からの話によると、ある時期から黒ウサギは、ボス猿を不審に思い出したというのです。そのキッカケになったのが、僕と山中さんが森にいる所を連行された日。あの日は確かに近所の主婦から通報があったから現場に急行したらしいのですが、黒ウサギが警察署から携帯電話に連絡を取ると、何故かボス猿は最初からあの周辺にいたらしいのです。
もしかしたらボス猿は、『神隠し』の証拠となる何かを発見されることを恐れ、山中さんと僕のことを、ずっと付けていたのかもしれません。
「大介君、恐い思いをさせて申し訳なかった」
あれから一週間。元気になって退院したその日に、我が家に黒ウサギがやってきました。
「退院して間もないのに悪いけれど、少しだけ事件のことについてお話させてもらうよ。辛い話だから、嫌だったら言って」
そして黒ウサギは、三十年以上前から発生していた一連の『神隠し』について話してくれました。
昭和五十年、二月×日。晴天のおだやかな冬の日。何の前触れもなく、最初の神隠し事件が起きました。
時刻は、午後二時四十五分頃。犠牲者は森神第二小学校三年五組の板橋タモツ君。小柄でおとなしい男の子だったそうです。彼は当時、クラスメートの数人と、ジャンケンをして、負けたら全員のランドセルを持つ、というゲームをしていました。
「はい、板橋の負けー!」
「ああ、また負けた」
「ジャンケン弱いなあ、板橋は」
板橋君は、クラスメイトの男の子達に毎日ランドセルを持たされていました。雨の日も風の日も雪の日も。
そして、晴れた二月のあの日も。
「おい!遅いぞ、板橋!早く来いよ」
「ちょ、ちょっと待ってよー」
「ハハハハハ。ちょっと待ってよーん、だって」
「あんまり遅いと、野球に入れてやんないからな」
六つの黒いランドセルの重みを一度に受けた板橋君の肩は、もう悲鳴を上げていました。それでも必死で頑張りました。
理由は一つ。みんなと野球をやりたかったからです。
でも友達は、遙か遠く前に行ってしまっています。もう、ほとんど見えないくらいに。
「はあ。困ったなあ」
蜃気楼のようにどんどんと離れる友達との距離。板橋君は道端に座り込み、少し休むことにしました。
と、その時です。
「ねえ、ランドセルそんなにたくさん持ったら重いだろう?お兄ちゃんも持ってあげるよ」
誰もいないはずの『チヨの森』の中から出てきたのは、優しそうな垂れ目の男でした。駅前の交番で見かけたことのある紺色の制服を着ていたので、多分警察の人だということが分かりました。年齢は、まだ若そうです。
「君、いつも友達にランドセル持たされているだろう?かわいそうだと思ってね。ねえ、あんなの友達じゃないと思わない?」
板橋君は、アッと思いました。図星だと思いました。
そうか、わざとランドセルを自分にばかり持たせるのは、友達じゃないかもしれない。自分もいつの日からか、そう思っていたのです。でも、その気持ちを見ないようにしていました。だって、みんなと一緒に野球をして遊びたいのですから。
なので、まるでその男に、自分の隠していた本当の気持ちを言い当てられたかのようでびっくりしました。
「やっぱり、友達じゃないのかなあ」
板橋君は、男に一瞬気を許しました。
「そうだよ。あんなの友達じゃないよ。だって、君、そうやってランドセル持たされていることに疑問を感じていただろ?」
畳みかけるように話しかけてくるその男は、板橋君の顔に、自分の顔をとても近づけてきました。口からは、ミント味のガムの香りと、ほんのりと煙草の香りがしました。
そして、その若い男は、癖なのか、しきりに小指の爪を噛んでいました。
「僕もね、友達っていないんだ。いわゆる親友ってやつ。だからね、いつも一人で居るんだ。ねえそれより、森の中にね、とても綺麗な沼があるのを知ってる?七色鯉がいるって言われている沼なんだけど」
板橋君も聞いたことがありました。でも、学校では絶対に一人で近づいてはいけないと言われている沼でした。
「で、でも。森の中には入っちゃいけないって先生が」
一瞬、その男のことが恐いと思いました。
「大丈夫だよ。お兄さん、こう見えても、正義の味方のお巡りさんだよ?だから安全、大丈夫。そこにはとっても綺麗な鯉が住んでいるんだって。お兄ちゃんと一緒に見に行ってみない?」
少し、好奇心が頭をもたげました。野球に入れてくれない友達よりも、綺麗な鯉を一緒に見に行ってくれる秘密の友達。
「でも・・・・・・」
「ほら、僕たちが友達になった証に」
男は、板橋君の手のひらに、美味しそうな飴玉をそっと握らせました。それが合図のように、ランドセルをそのままにして、男に手を引かれ森の中へと入っていきました。
そして、板橋君の姿を二度と見ることはなかったのです。
「その後も、森神第一小学校二年生の春日学君。森神第三小学校一年生の和光真君、森神第四小学校三年生の目黒太郎君、森神第五小学校二年生の高島輝男君。そして第六小学校六年生の三田桃香ちゃん」
「和光真君」の名前を聞くと、すぐに父親の貧乏ゆすりが始まりました。それには構わず黒ウサギは、警察手帳に記してある被害者の名前を、淡々と台詞のように羅列しました。
「当時の最後の被害者だけ高学年で女子ですが、彼女はどうやら、たまたま虎革の犯行現場を見てしまったようなのです。ですので、高島君が行方不明になってからすぐにいなくなっています。多分、殺害されたのは同日でしょう」
虎革は、桃香ちゃんに姿を見られたので動揺し、急いで犯行に及んだのでしょう。
「そして、最後の被害者は君の友達の榊友広君。東京都南市立森神第七小学校五年三組。友広は、『友達』に、心が『広い』と書く」
間が開きました。
「調書には、大介君のことを、榊友広君の『友達』としておいていいよね?」
僕が頷いた次の瞬間、押し殺していた感情の糸が切れたのでしょう。少しだけつり上がった黒ウサギの目から、切ない水が流れました。ポタリと大きな音を立てて、その温かな滴が、フローリングの茶色い床に落ちました。そこだけ小さな水たまりができたようです。
僕は、手帳に書かれた名前を、黒ウサギは仕事だから冷静に台詞のように言っていたのだと思っていました。それはまるで、ファミリーレストランで、ウェイトレスの人が言葉に抑揚をつけずに対応している様子に似ていました。
でも、そうではなかったのです。気持ちを込めたら泣き出しそうだったから、わざと抑揚を付けずに読んでいたのだと、僕はその時にやっとわかりました。
「榊君は、『チヨの森』を熱心に研究してたんや。昔の資料や本、色々と勉強していたらしい。そりゃあ熱心だったと、研究会仲間のおじいちゃんおばあちゃん達が口を揃えて言っとったから間違いない。もしかしたら、榊君は知りすぎたのかもしれない。思い返してみれば、森神署にも良く来ていた。でも、対応していたのは、いつも決まって虎革だった。虎革が・・・・・・」
悔しくて、僕は言葉を失いました。母親は、それを見ないようにしてお茶を入れ替えに台所に立ち、父親は窓の外へ視線を飛ばしました。
すると、窓の外から何かが鳴いている声が聞こえてきました。
「あ、鳶や・・・・・・」
鼻水を垂らしたままの黒ウサギが、窓の方に目をやりました。僕もつられて目を窓に向けると、少し間をおいて、外でピーヒョロヒョロヒョロと鳶が一羽鳴きました。
そして、とってもとっても悲しそうに、切ない別れを惜しむかのように、もう一度鳶が泣きました。
「ほんまに、ほんまに俺は後悔しとる。もっと、もっと虎革のことに早く気づいとったら。榊君を死なせずに済んだし、大介君にも恐い思いをさせずに済んだんや」
黒ウサギは、ほんますまん、ほんまにすんませんと、これまで出さずにいた関西弁で何度も床に頭を擦りつけて僕に謝りました。慌てて父親が静止すると、黒ウサギの顔は、より一層涙と鼻水でぐちゃぐちゃでした。
「ホッとしてもうて、我慢しとった関西弁、ため込んどいた分だけ出てもうたわ。東京では使うな言うて言われとったけど、もうええわ」
それから黒ウサギはバツが悪そうに、
「虎革が、山中さんのひき逃げの件も自供した。ほなまた来るわ。あ、それより大介君が森神署に遊びに来てもろても構わん。お雛様も待っとるで」と言い残し、振り返ることなく我が家を後にしました。
退院してから三日後、僕は小学校に登校しました。
なぜだか見慣れた風景のはずの校庭や体育館や渡り廊下が、違って見えました。
僕の監禁場所となった犯行現場の体育倉庫は、周りを黄色いテープで張り巡らされ、近づけないようにされてありました。体格のいい警察官が一人、羽根の付いたジャンパーを着て、寒そうに見張り番をしていました。
重苦しい気持ちで教室に入ると、友達が一斉に僕の机を取り囲み、根掘り葉掘り事件について聞きに来ました。
そら来た。
「ねえ、『チヨの森』の地下に閉じ込められたって本当?」
「刑事が犯人だったの?」
「榊の亡霊が助けてくれたって」
「神隠しに遭ったんじゃないかって、みんな心配してたんだよ」
「誘拐された気持ちってどんなの?」
パパラッチに追掛けられるスターのようですが、嬉しい気分ではありません。授業が始まるまで、週刊誌の記事の見出しになりそうな質問をどんどんぶつけられました。覚悟していましたが馬鹿馬鹿しくて、言い返す気にもなりませんでした。
ついこの前まで、僕を除け者にしていたくせに。
「榊の亡霊が逆ギレして、烏森を誘拐させたんじゃない?」
「そうかもそうかも。あいつ陰湿そうだったから」
「い、いい加減に・・・・・・」
僕が、思わず拳を握りそうになったその時でした。
「いい加減にしろよ。大介、久しぶりに学校に来たんだぞ。俺だったら、こんな学校になんか、二度と、金輪際来たくなくなるようなことを経験したのに。それに、榊のこと悪く言うの、やめたらどうだ。いい加減恥ずかしくないのか!」
辻堂でした。こいつは、僕の親友です。唯一と言ってもいいでしょう。余計な事は言いませんが、肝心な事は言ってくれる友達です。そして、榊君の事件があった翌日にかばってくれたのも、辻堂でした。
「辻堂、ありがとう。僕は大丈夫だよ」
「でも、大介」
「いいんだ。こういう風になるって、覚悟して来たから。でも、これだけは言わせてほしい。榊君は、みんなが思うような奴じゃない。とても良い奴だったんだ。僕らがそれを、見ようとしなかっただけなんだ。だから悪く言わないでほしい!」
一瞬の静寂が、あんなに騒がしかった教室を包みました。
「幽霊、通った」
子供達は、急に静かになるとそんな風に言います。
「もう、やめようぜ。なんだか怖いよ」
「榊が通ったんじゃないの」
クラスメイト達は青ざめた顔で僕の側を離れ、個々の席へと戻っていきました。それからは、水を打ったようにしんとしたままで先生が来るのを待ちました。
ホームルームは淡々と始まり、先生も気を遣って、僕にあまり触れずに終わりました。
授業が始まり、いつもの喧噪が戻ってきました。
それをBGMにしながら見る、ついこの間までは気にも留めなかった教室の一番後ろの窓側の席。机の上には、可愛らしい花が飾られていました。
その花は凛としていて出しゃばらなくて、名前は分からないけれど、まるで榊君のようだと思いました。
でも、そこだけぽっかりと空気の穴ができているようで、僕は切なくなりました。
あの印象的なマッシュルームカットは、もう見ることができません。
悲しい事件が解決して犯人が捕まっても、やっぱり榊君の姿はありません。
取っ付きにくいオーラを漂わせた榊君が、難しそうな本を読む姿は、もう二度と見ることはできないのです。