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『チヨの森⑦』子どもサスペンス劇場
第七章 混乱
その日、家に帰ってからは父親と一言も話しませんでした。時間も遅かったこともありましたが、なんだかお互いに気恥ずかしかったのかもしれません。
母親は、お風呂から上がると山の如くどっしりと待ち構えていました。色々と山中さんのことやら何やらを、鶏のように慌ただしく僕に聞いてきましたが、詳しくは説明しませんでした。
ただ、榊君を探しに行っただけなのだと。
「ママ心配だわ。最初はママも榊君を探そうなんて思っていたけれど、やっぱり危険な場所なのよ、『チヨの森』は。いくら森の面積が小さくなったとはいえね。それに、山中さんという人の事だって詳しく知っているわけでもないのだし。神隠し研究会とかなんとかで知り合ったばかりの人でしょ?素性も知れないし」
普段、オカルトチックなコトが大好きなはずの母親も、森の何ともいえない本物の香りがする恐ろしさに、肝を冷やしているようでした。テレビで指のすき間から見る怪談番組とは勝手が違うのでしょう。
だからでしょうか、何だか物言いが断定的です。
「でも、森で何かがあったわけじゃないし。今回は、近所の人が間違って警察に通報しちゃっただけから。それと、山中さんの悪口言うのはやめてよ」
「俺からもお願いする。山中さんは、悪い人じゃない。それは誓って言える」
母親の勝手な物言いに業を煮やした父親も、僕に加勢してくれました。
「でも、やっぱりダメ。なんだか山中さんという人、強引で不思議な感じがするし」
山中さんのことまでも、異次元空間の人物であるかのように話し始め、正直うんざりしました。
「もう、いいよ。寝る」
「あっ、ちょっと、まだこっちの話終わってない!」
母親の金切り声を背に、僕は二階の子供部屋へと逃げるように駆け上がっていきました。
しんと静まりかえった夜の二階は、自分の家なのに何だか別の家のように感じられます。
乾燥するとキシキシと鳴る階段が、恐怖を倍増するようです。
子供部屋には、すでに小学校一年生になったばかりのヨシが眠っていました。七歳の割にはとても体が小さく泣き虫で、最近になってやっと母親とではなく、僕と一緒に眠れるようになったばかりです。
「おにいちゃん」
ふいに声がしたので、僕は飛び上がらんばかりに驚きましたが、ヨシの声だと我に返り、眠っているはずのヨシの顔をのぞき込みました。
「おにいちゃん、山中っておじさんと、怖い森に行ったの?」
目をこすりながら、ヨシは僕に話しかけてきました。きっと、彼なりに心配してくれたのでしょう。
「怖い森って、ママに聞いたの?」
「うん。ママが『チヨの森』って」
「そうだよ。『チヨの森』に行ってきた。友達を見つけに」
「友達は、いた?」
「うううん。いないよ。どこにもいなかった」
「そっか」
月明かりが優しくカーテンを通して、部屋に差し込んでいます。その光が、ふっくらしたヨシのほっぺたを、そっと撫でているようでした。
「ほら、ヨシはもう寝なくちゃ」
「そうだね。明日また森に行かなくちゃ」
寝ぼけている様子で、うつろに僕の顔を見ていました。
思い出したように振り向いて見た机の上には、開いたままの本がそのままになってありました。
「『老人と海』。読まなくちゃな」
図書館で借りたままのヘミングウェイの存在を、すっかり忘れていました。図書カードを見ると、借りてから十日も経っていました。
榊君と、図書委員を一緒にしていた頃に借りた本です。まだ十日しか月日が経っていないのだと思うと、信じられないです。
人心地ついて再度声を掛けようとしましたが、もうヨシはすやすやと寝息をたてて夢の中のようです。
これからはどうしたらいいのか、僕は一人布団の中で思案しました。もう、山中さんと会うことはないかもしれません。というよりも、山中さんに許してもらえないかもしれません。そうなると、自分一人で森へと立ち向かうことになるのかもしれません。
そうこうしているうちに、僕も夢の中へと引きずり込まれるように眠りに落ちました。
朝日が、いつもより力強い光で僕の部屋を射抜くように照らしました。ゆっくりと目を覚ますと、朝の六時半。今日が月曜日だということを思い出しました。
「うわっ」
背中に軽く寒気を覚え、記憶の大きな波が突然押し寄せました。そして、すっかり忘れていた算数の宿題をランドセルから引っ張り出したのです。
「これやんなきゃ、今日は当てられる日だ」
今年から担任になった先生の意向で、平等にするとかなんとか、宿題も毎日交代で日直が当てられるという、我がクラス独自のシステムなのです。
「はあ、よりによって少数のかけ算。これ面倒くさいから嫌いなんだよな」
弟のヨシには聞こえない程度の小さな声でぼやいていると、一階にある自宅の電話が、何回もけたたましく鳴りました。
母親が取ったようです。話の内容は聞き取れませんが、こんな早朝から電話なんて、不安な気持ちがよぎります。
受話器をできる限り慎重に置く音が聞こえました。
母親が、父親に何かささやくように話をしています。一階からの声は、海の中に潜った時に聞こえる外の音のように籠もっていて、二階からでは聞き取りづらいですが。
やがて階段をスリッパでゆっくりと上がってくる二人。
そして、そのまま二人のスリッパは、まっすぐ僕の部屋の前にやってきました。
音をあまり立てないように扉が開きました。
「おっ、起きてたのか」
寝癖頭の父親が、机に向かう僕に驚きました。口元に人差し指をかざして、ヨシに気づかれないように一階まで下りて来いと、僕に身振り手振りをしてみせました。
太陽の光に反射して、力なく微笑む父親の目が、うっすらと赤くなっているのがわかりました。
「まあ、落ち着いてここに座って」
何も分からず、僕は特に落ち着いていない訳ではないのですが、父親は僕にではなく自分自身に言い聞かせたのかもしれません。
「実は今、森神署の虎革っていう刑事さんから電話があって」
テレビが付いていなくて静かなリビングルームは、広く感じます。今まで人のぬくもりがなかったせいなのか、ひんやりとして部屋全体の空気が張り詰めていました。
秋の朝、冬のように寒く思えます。だからなのか、何だか気持ちが落ち着きません。
母親は押し黙ったまま台所へ行き、まだ洗ったあとの水滴が乾いていない透明のコーヒーグラスに牛乳を入れて、電子レンジを作動させました。
「山中さん、今朝早くに亡くなったそうだ」
父親は、震える声で丁寧に言いました。
「えっ・・・・・・」
「チン」
電子レンジが間抜けな音を立て、ホットミルクの出来上がりを知らせました。
台所では、砂糖を一さじ入れる音と、クルクルクルとかき混ぜる音がしました。
「はい、牛乳」
母親が戻ってきました。
僕の目の前に置かれたホットミルクからは、雲が発生しているみたいにモクモクと元気よく湯気がのぼりました。その蒸気が顔に当たって、僕の口の周りが湿りました。
外では色々な生活の音が聞こえ始めました。お向かいの家が、立て付けの悪い雨戸を開ける音が聞こえました。いつも散歩している犬が、カラスを追い払うように元気に吠えます。雀たちは、今日も一日の作戦会議をしています。
そうした全てのいつもの音が、何だか今日だけは湿ったように聞こえます。
「ひき逃げらしい。犯人は逃走中だそうだ」
一人暮らしの山中さんは毎朝、『チヨの森』までの散歩を日課としていました。まだ夜も明け切らないような薄暗い時間にも、歩いていたのだそうです。
いつもと同じ朝。
今日は、多分良い天気です。さっきカーテンを通して入ってきた太陽光がそう思わせます。普段散歩に出ない人でも、きっと胸を弾ませて、どこかに出掛けたくなるような天気でしょう。
外に出て確認したわけではないですが、きっと泣けてくるような青空が、見事に広がっていることでしょう。
授業は、朝急いで片付けた宿題を発表してから何も覚えていません。毎時間頬杖をついて、以前に書いておいたデタラメなパラパラ漫画を何度も見ています。
ひたすら男の子が歩く、そんなパラパラ漫画です。
四時間目の体育になり、体を動かして汗をかいて、やっと自分が学校にいることを思い出しました。
この頃は、僕と事件に飽きたせいなのか、クラスメイトも余計なことは言ってこなくなりました。触らぬ神に祟りなし、と言ったところなのかもしれません。
学校が終わると、自然に市役所会館へと足が向いていました。
僕が、山中さんと初めて出会った場所です。会館のコンクリートの壁に入った稲妻みたいな形のヒビも、相変わらずです。
入りたいけれど入りたくないような気持ちで、うろうろと入口の前を往復していると、聞いたことのある声が聞こえました。
「大介君!」
そこにはボス猿虎革さんがいました。
薄茶色の背広がよれよれで、ネクタイはしていませんでした。頭もボサボサで、きっと眠っていないのだろうという目をしていました。今までの精悍な印象とはがらりと変わった、違う一面を持ったボス猿でした。
「このたびは、突然のことで大介君も驚いたよなあ」
垂れた眉毛がより一層垂れ下がって、癖のある歩き方で僕の近くに寄ってきました。そして僕の顔を見てから目をスライドさせ、市役所会館を見上げました。
「山中さん、今頃天国で息子さんに会えたかなあ。でも、犯人捕まえられなくて心残りだったろうなあ」
そう言ってから、「あっ」という顔をして、
「だからといって、一人で森に行こうなんて考えちゃだめだぞ」
繕うように、ボス猿はわざと大きな声で笑いました。
何も喋らない僕をそのままに、「早く帰りなさい」と言い残し、ボス猿は署に戻っていきました。
心残り。
そうか。きっと、山中さんは心残りのはずです。
だから、僕がここで立ち止まるわけにはいきません。それまでは、何も知らなかった頃は、不安も孤独も感じませんでした。人がいなくなっても、知らなかったら悲しみも感じることはありませんでした。
でも、今は違います。
誰かを失う喪失感を、心の底から感じるようになりました。大事な友達、そして父親の大事な友達。その父親。三十年も昔から続いていて、解決されていない神隠し。そこに足を踏み込んで山中さんの遺志を心に受け止めてしまった僕は、もう後戻りできないところまで来ているのです。
何か手がかりを。
そして、何の迷いもなく、足は市役所会館の二階へと走り出していたのです。