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『栗ケ丘7⑤』


第4幕 オジジの秘密とマドンナ先生とハローブリーフマン

今日は、朝からバケツをひっくり返したような雨が降っている。空は一面厚ぼったい雲で覆われていて、増殖したら地上まで食い尽くしそうなくらいだ。一年のうちにひと月ほどの季節のくせに、どうして梅雨はこんなに存在感があるのだろう。だから毎年こいつのせいで、昔の古傷がひどく痛む。

「ナナ。梅雨は辛いなあ。ああ、腰が痛い。十時か。ちょっと『マロン』でモーニング食べてくるから、いい子で待っておいで」
あの忌まわしい事件から、もうすぐ十四年と九ヶ月。奥丸線沿線、沢村市栗ヶ丘町で起きた児童失踪事件は、犯人の有力な目撃情報もないまま暗礁に乗り上げている。

行方不明の子供は新藤早苗の息子、達矢七歳、当時小学校一年生になったばかりだった。
「オジジ、いらっしゃいませ」
『マロン』という名前の喫茶店は、栗林が良く見える曲がり角にひっそりと店を構えている。
達矢くんの最後の元気な姿での目撃情報は、栗林の中で泣きながら一本の栗の木を見つめていた、というものだった。
この店の女主人は、新藤早苗四十八歳。女手ひとつで育てていた大事な一人息子が、ある日突然失踪してしまったわけだ。
「おそよう。早苗さんいつものやつね。それから、今日はコーヒー濃い目で」
オジジの指定席は、悲しい栗林を見渡せる一番窓側の特等席。
「いいの?カフェインたくさん取っちゃって」
「いいのいいの。ミルクと砂糖をたっぷり入れれば大丈夫。棺桶に片足突っ込むようになったら、何を食べても飲んでも一緒だよ。ノープロブレム」「あら、いやね。そんなこと言わないで長生きしなくちゃ。『ノア』を愛する子供達の為にも」

ポコポコと控えめな音を立てて、コーヒーメーカーが眠りを吹き飛ばすような香ばしい匂いを放つ。店内を見渡せるカウンターに立つ早苗は、いつも何かを抱えているような、怯えた表情に見える。
「はい、お待ちどうさま。フレンチトーストと、うんと濃い目の特製コーヒーよ」
「はい、お待たされさま」
コーヒーカップから立ち上る白い湯気が、栗林を取り巻く怪しい靄のように、いつまでも静かにゆらめいていた。


「おはようございます。先生方の中にはもうご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、最近栗ヶ丘町に出没する変質者についてです」
朝の定例職員室会議。NHKのアナウンサーのような語り口調で話しているのは、栗ヶ丘小学校校長、長岡徳次郎だ。
「あの、一人でいる子どもにブリーフを見せるという」
「そうです。その、なんですか。子供達の間では『ハローブリーフマン』と呼ばれているそうですが」
『ブリーフ』という、何とも言えないフレーズが朝から聞こえたことに、職員室は失笑に包まれた。出没場所や時刻は様々で、その時によって変わるためにまったく見当がつかない。
「なんでも、晴れているのにビニール傘を持っていて真っ赤なコートを着て、何やら文字の書いてあるブリーフを履いているとか」
「いえいえ、校長違いますよ。僕のクラスの生徒が被害にあったのですが、髪をピンク色に染めて、オレンジ色のビニール傘を持って黄緑色のブリーフを履いて」
「え?私のクラスの子は、オレンジ色のブリーフ履いて赤い髪の毛で、黄緑色の傘を持っているって」
「違う違う。ピンクのスカーフを巻いて黄緑色の頭をしているんですよ。それで、熊の柄の傘を差していて」
お聞きの通り、目撃情報は錯綜している。それはそうだろう。目の前に色とりどりの布を纏った人が突然現れ、ましてやブリーフを一方的に見せられてしまうのだから。子どもだけではなく、大人だって前触れもなく出会えば冷静な判断力は失われて当然だろう。
「まあとにかく、それだけ目立つ服装でいるということは、すぐに捕まると思うんですけどね。ゆり子先生のクラスでは被害はないですか?」

セミロングのストレートヘア、切れ長の涼しげな目元と艶やかな唇、パンツ姿のすらっとした立ち姿は、その名の通り、本当に百合の花のようだ。この美人教師は、正一とかおりそれから秋彦のクラス、つまり五年三組の担任、野中ゆり子だ。
有能なゆり子が栗ヶ丘小学校に赴任してきたのは、二年前。前の学校は東京都内の某有名私立小学校だったそうだ。給料だって断然こちらより良いし、ブランドとしての聞こえだって、前の学校の方がいいに決まっている。詳しい理由は語らないらしいが、ゆり子自身が自ら強く希望してやってきたのだという。
当時、ゆり子先生の美しさは赴任前から町中の噂になっており、本人が小学校にやって来た日は、中学校の先生や消防署の職員、忙しいはずのお巡りさんや栗林秋造や鬼丸銀太までもが、仕事を放り投げて見物に来たらしい。その時勝手に一目惚れした秋造と銀太は、今でも毎日ゆり子先生にちょっかいを出しに来る。
とんでもない輩だ。
「はい、まだわたしのクラスでは被害に遭ったという報告は受けていませんので、多分大丈夫かと思います。でも、同じ五年の米村先生のクラスで被害者が出ているとうかがっています。父兄の方達も不安かと思いますので、一応保護者会を開いて説明をしておいたほうがいいのではないかと」
「そうですね。それはよい考えです。では早速、来週にでも全校生徒の父兄を体育館に呼んで、説明会を開きましょう。では山形先生、帰りまでにプリントを作成しておいてください。それでは今日もよろしくお願いします」

会議が終了した途端、競うように職員室になだれ込んできたのは、栗林秋造と鬼丸銀太だ。
「ゆり子先生、おはようございます!」
色白で面長、公家のような顔立ちの秋造と鬼瓦のようないかつい顔立ちの銀太が二人並ぶと、あまりの様子の違いに笑いをこらえるのが難しいくらいだ。

「秋彦くんのお父様、文太くんのお父様、おはようございます」
迷惑そうな表情は微塵も見せずに、ゆり子先生は淡々とあしらう。愛想笑いにも気付かず、二人のお馬鹿コンビはゆり子先生に早足で近づいた。
「いやあ、相変わらずおきれいで」
「本当に。俺が結婚してなかったらアタックしちゃうんだけどなあ。いや、結婚してても、かな?でへへ」
スケベオヤジ全開でゆり子に擦り寄る。まったく恥かしい限りだ。そして、このご時世でこの行動は犯罪だ。セクハラだ。
「せっかく来ていただいたのにすみません。これから朝礼ですので、失礼致します」
「いえいえいいんです。ちょっと学校に用事があったものですから。先生はどうぞ教室に行って下さい。がんばって」
秋造はPTA会長だからともかく、銀太は用事など全くないが、毎日やって来る。

ゆり子先生が職員室を颯爽と立ち去ると、花畑のような甘い香りが漂う。「本当に」
「ゆり子先生はいいですな。栗林さんが羨ましい。文太の担任だったらよかったのに」
秋造と文太の鼻の下は、三十センチ定規でも足りないほどに、長く伸びきっていた。

栗ヶ丘小学校の朝は、いつもこの風景からスタートする。


六時間目の終業ベルが鳴り終わり、生徒達はみなランドセルの中に教科書を仕舞い始めた。
「しっかし、ハローブリーフマン引くよな」
「引く引く。だってブリーフ見せてくるんだぜ?やばくない?しかし、なんて書いてあるんだろう、ブリーフに」
「どうでもいいわ、言葉なんて」
ドッとクラス中が笑い声で沸き立つ。すでに子供たちの間では好奇心が勝ってしまい、恐怖より興味の方が強いようだ。
悟が被害に遭ってから、二週間ほど経った。その間に立て続けに五人もの栗ヶ丘小学校の生徒がブリーフの洗礼を受けてしまった。
降って湧いたような奇妙な不審者のお陰で、小学校の話題は朝から晩まで「ハローブリーフマン」で持ちきりだ。

「はあい、みんな聞いて。ほら、中川くんいい?後ろ向かないの!えーっと、みんなもお父さんやお母さんから聞いていると思うんだけど、最近栗林の付近に変なおじさんが出没しているらしいの。ま、おじさんというか…。説明に、ちょっと困るけど」
「ハローブリーフマンは変態でしょー?ゆり子先生」
クラス一威勢のいい市村奈子の呼びかけに、クラス中が笑いの渦に巻き込まれた。学校が対応するよりも先に、子供達の間ではすでに「ハローブリーフマン」は一躍有名になっているのだ。近所のへんてこりんな事件の匂いを嗅ぎつける速さは、大人よりも子供の方が長けている。
「はいはい。ほら笑わないの。いい?真面目に聞いてよ。前々から栗林の方にはあまり近づかないようにとは言っていますが、更に気をつけてくださいね。これからはわからないけれど、今まで被害に遭っているのはとりあえず全員男の子なので、男の子は特に気をつけてね。あと、できれば集団下校というか、友達同志で声掛け合って大勢で帰るようにして」
「ほら、やっぱり変態なのよ」
「はい。市村さん余計なこと言わない。じゃあ今からお知らせのプリント配るから、ご両親に必ず見せて下さいね。あ、あと、お知らせの内容は、来週緊急の保護者会を開くというものです。今日家に帰ったら、出席できるかどうか聞いてきて下さい。それで明日の朝の会で、先生に必ず報告すること。はい、じゃあ今日はこれでおしまい」




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