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『チヨの森⑥』子どもサスペンス劇場
第六章 告白
デザイン性は二の次で、白くて四角くて、まるで豆腐のような冷たそうな五階建ての森神署は、思ったよりも静かでした。
ずっと住んでいたけれど、警察署を意識して見たのは今日が初めてでした。
「結構、大きいんだ」
一番上の階からは、道場があるのでしょうか。剣道の稽古をしているような声が時折聞こえていました。
署内に緊張して中に入ると、広く開けた場所に受付があり、警察の制服を着ていなければ普通の会社のように落ち着いています。よく掃除されたロビーには、観葉植物が置いてあり、案外気さくな雰囲気だったので、僕はホッと胸を撫で下ろしました。悪いことをしていないのに、圧迫感を感じるというか、こういう緊張した気分になるというのが、警察署の独特の雰囲気なのでしょうか。
「さあ、二階に」
黒ウサギに促されて、僕らは二階に行きました。
簡単に『刑事課』とプラスチックのプレートの貼られた雑念とした部屋は、十四~五人の男女が忙しそうに立ったり座ったりしていました。透明ガラスのドアの中に入ると、喫茶店で嗅ぐようなコーヒーのいい香りがして、にこやかなおじさんが近寄ってきました。
「おお、坊主。これ食べるかい?」
『教育係』と腕章を付けた目の優しいおじさんは、僕に二つ入りのチョコクッキーの小さな袋を渡しました。
「ありがとうございます」
意外に警察署は平気だと思い、山中さんとボス猿と黒ウサギの後ろに付いて、部屋の奥の奥の『取調室』へと入って行きました。
「烏森君は、ここでストップね。この、まあまあイケているお姉ちゃんとこの席で待ってて」
さっきクッキーをくれたおじさんは、笑いながら僕にそう言うと、ドアの前で手をかざしました。
「『ミス森神署』に向かってまあまあイケているとは失礼な。セクハラだし、もし言うならすごい美人と言ってくださいな。さて、初めまして。私は、赤羽陽子と言います」
いつの間にやら隣りには、僕とそんなに変わらない背丈の、お雛様みたいな女性警官が立っていました。
「あら、猫ちゃんも一緒?これは烏森君の飼い猫かな?」
僕の気づかない間にリュックサックから顔だけ出したミーは、ミスお雛様に見つかっていました。というよりも、すでに手中に収まっていました。
「いえ、違うんです。でも、ウチで可愛がってるから、飼ってるのと同じようなものかもしれないです」
「そっかあ。お前、良かったね」
ミーは、『ミスお雛様』に頭をこねくり回されながら、喉を嬉しそうにゴロゴロ鳴らしていました。つくづく調子のいい奴です。
「まずは、謝らなければなりません。申し訳ございませんでした」
ボス猿と黒ウサギは、山中さんの前で地面にくっつきそうな程深々と頭を下げました。
「いえ、いいんです。通報があったんじゃあ、変質者と疑われても仕方ない。ただ、理由も聞かずに手錠を掛けられたのは心外ですし、正直びっくりしてしまいました」
「まったくです」と黒ウサギは頭を掻きながら、居心地悪そうにしています。
「こいつはどうも早合点というかせっかちというか。本当、わたしが責任を持って厳重に教育し直します。本当に不徳の致すところです」
ボス猿は黒ウサギの後頭部を大きな手でわしづかみにして、また頭を前に倒しました。
「でも、これだけはお聞きしてよろしいでしょうか?どうして大介君と二人であの場所に行ったのですか?」
チヨの森での態度とは打って変わって、ボス猿と黒ウサギの二人は、山中さんを丁寧に、お客様のように扱いました。
「お茶でもどうぞ」
特に黒ウサギは、失敗を挽回するのに必死のようです。
「チヨの森は、昔、私の息子がある日突然いなくなった場所でして。当時は『神隠し事件』などと、世間では大変騒がれましたが、今じゃあすっかり風化してしまって。そんな時、あの少年、いや、烏森君のお友達であり私の研究仲間でもある榊君がいなくなったものだから。昔の事件と何か共通点があるんじゃないかと探っておりまして」
ボス猿の右眉毛が、動いたか動いていないかくらいに、微妙に引きつりしました。
「失礼ですが、お宅の坊ちゃんがいなくなったのはいつ頃のことですか?」
と、何気なく聞いた黒ウサギは「はっ」とした顔をして、合点がいったようにボス猿に振り向きました。
「虎革さん、あの、もしかして、ずっと昔から虎革さんが追ってるっていう・・・・・・」
ボス猿は、ずれた眼鏡を手で上に少し上げながら静かに頷くと、
「そう、三十年前でパタっと起こらなくなってしまった、あの『森神町の神隠し事件』だよ。そうですか、それは大変失礼いたしました。それで、つかぬ事をお伺いしますが、山中さんの坊ちゃんは何小でしたか?」
「南市立森神第三小学校の一年一組、和光真です」
「へぇ、そうなの。あの森って、昔はそんなに大きかったんだ。今じゃ、見る影もないけどね」
ミスお雛様は、警察署対抗の柔道大会で二位を獲得した筋肉質な腕でミーを抱きながら、僕の前に座っていました。
「で、烏森君があの森の中に入ったのは初めてなのね?」
「はい」
ふーん、と何気ない会話をしながら、右手はしっかりとメモ用紙に何か記録しているようです。僕も、簡単ではありますが、いわゆる取り調べというものを受けているといったところでしょうか。
「あの、山中さんという人とは面識があるのよね?なんちゃら研究会とかいう、おじいちゃんおばあちゃん達が一生懸命に勉強している・・・・・・」
「はいそうです。だから、山中さんは悪くないです。森には、僕が行きたくて行ったんです。無理矢理とか、そう言ったことは全然無いです!」
少し語気が強くなりました。手錠を掛けられた山中さんはかわいそうで仕方ありませんでした。何も悪いことはしていないのに、息子さんの事件の手がかりを見つけているだけなのに、周りの人の勝手な判断で犯人扱いされたのですから。
自分自身でも分からないほどに、今回のことで心は動揺していたのでしょう。僕はいつのまにか興奮と共に、自然と涙が出てきてしまったのです。鼻水が出て、ミスお雛様の顔が滲んで見えてきました。
その様子を見て慌てたように、
「大丈夫、大丈夫よ、烏森君。山中さんは犯人なんかじゃないわ。勘違いした私たち警官が悪いの。大丈夫だから、お願いだから泣かないで」
と言いました。
「あー、赤羽が男の子泣かした~!またこれで一人、未来のお婿さん候補を取り逃がしたぞ」
教育おじさんの茶化す声で、それまで静かだった刑事課の部屋がドッと笑いに包まれました。
「もう、嫌!セクハラおやじ!」
それからしばらくして、山中さんは二人の刑事と共に、取調室から落ち着いた様子で出てきました。探すようにしばらく目を泳がせてから、僕を発見すると少し笑顔を見せました。
「君にも悪いことをしたね。大介君、榊君のことは我々警察が頑張って探し出すから、任せてくれないかな?だからお願いする。もう、危険な場所や危険な行動はしないと約束してほしい」
僕らが森神署を出ると、すっかり辺りは暗くなっていて、急にホッと肩の力が抜けました。すると現金なもので、思い出したように、お腹の虫もグ~と、一声間抜けに鳴きました。
「俺のせいで、すまなかった。もう、これで調査はしないことにするよ。また捕まるのは嫌だからね」
ヘタクソな笑顔で僕を見下ろす山中さんの視線から逃げるように空を仰ぐと、いつもなら見えないはずの星がやけに今日は輝いて見えました。多分、あの黄金に輝いているひときわ目立つ星は、理科の時間に習った木星でしょうか。
「それ、本気ですか?」
「え?」
と、びっくりしたように肩を上下させながら、山中さんは僕を見ました。
「こんなことで諦めていたら、息子さんや榊君は見つからないんじゃないでしょうか。そんな弱気なこと言うの、山中さんらしくないです」
そう。このままでは終わらすことはできないのです。
何日か前にファミリーレストランで山中さんからメモをもらった時、何やら、僕はあの場所で榊君の声を聞いたような気がしたのですから。助けてほしいと言われた気がしたのですから。
ここまで来たら、中途半端は嫌です。
「もちろん俺は諦めていないよ。でも、君を巻き込むことは止めることにするよ。一人で頑張ることにする。そうしないと、君の親御さんにも申し訳が立たない」
警察署の階段を下りると、誰かの視線を感じました。ボス猿が連絡したのか、道路の端の街灯に照らされた、見覚えのある姿が見えました。
「ダイ。無事だったか」
お父さんは、スウェットにジャンパーを引っかけて、普段と変わらない様子で右手を挙げて僕に手を振りました。リュックサックの中のミーも、父親に向かって盛んに話しかけているようです。
「あの人は、君のお父さんか?俺はなんて謝ればいいんだ。殴られても仕方ないくらいだよ」
山中さんは決心したように立ち止まり、帽子を急いで脱いで、父親に慌てて駆け寄りながら挨拶しました。どういういきさつで僕を誘い、そのことで僕に迷惑を掛けましたとか、今後は僕を無断で連れ出るようなことは一切しませんだとか、僕を叱らないでくださいだとか。そういった全てのことを、頭を下げながら何度も何度も熱心に説明していました。父親はただ目を見張り、特に返事をするでもなく、山中さんの様子を一心不乱にじっと見つめていました。その父親の表情は、まるで、引き出しの奥深くに仕舞い込んで放っておいた何かを、思い出そうとしているような面持ちでした。
僕は疲れていたのか、その様子をぼんやりと見ていました。
しかし、父親の言った一言で、僕は首のうしろを誰かに強く引っ張られたように意識が戻ってきました。
「そうか!まことくんの、お父さん!」
山中さんの目は見開いて、一瞬魂が抜けたかのように固まっていました。父親もこれ、同様です。
「なんで、真のこと」
「和光君、まこと君のお父さんですか。苗字が違ったので、接点が見つかりませんでした。分かりませんでした」
「あなたは?」
「僕、まこと君とよく遊んでいたんです」
「あなたは、真の友達だったんですか」
「僕は、まこと君がいなくなった時に一緒にいた、久松慎太郎です」
その言葉に促されるように、山中さんの意識がどこか遠くまで遡っているように見えました。そして、記憶のスイッチが入った途端、懐かしさと嬉しさと照れくささと悲しみが同時に来たような、泣き笑いの顔になりました。
「慎ちゃん・・・・・・、もしかして、あの、よく真と一緒に遊んでくれていた慎ちゃんなのか?」
「あの時、僕は一緒にいたのに助けることができなかった。そのうちにまこと君の家族は引っ越ししてしまったと聞きました。だから謝ることも何もできずに、どうしようと考えていました。こうして三十年以上も経ってしまいました」
頬に光る涙が、父親を幼く見せました。一瞬ですが、七歳の慎太郎の顔が父親の顔に重なったように思えました。
「慎ちゃんのせいじゃない。慎ちゃんが悪いんじゃないんだよ。悪いのは、真を連れ去った誰かなんだから」
山中さんの分厚い大きな手が、父親のなで肩にそっと触れました。すると父親は、空気が抜けた風船人形のようにその場に崩れ落ちたのです。そして、雄叫びにも似た声で咽び泣き始めました。
「学校でも守ってやれなかった。僕は、まこと君を守ってやることができなかったんです。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
山中さんの細い目が、一層細くなり、しゃがみ込む父親に言いました。
「君は、慎ちゃんだけは、真の友達になってくれたんじゃないか。真がいつも話していたんだよ。慎ちゃんは遠足の時に一緒にお弁当を食べてくれて、班を分ける時も係で二人のペアになる時も、いつも必ず声を掛けてくれたって。慎ちゃんは、慎ちゃんだけは味方になってくれたってね。真は、慎ちゃんのことが大好きだった。だからどうか、自分を責めるのはもう止めてくれないか」
帰り道、一言も話さずに、僕は履きすぎてかかとの糸が解れている自分の靴を見ながら歩きました。そろそろ新しい靴をおねだりしてもいい時期かもしれません。
「・・・・・・」
まだ、横にいる父親から、涙の匂いがしている気がしたので、あんまりじっと見るのは悪いかなあと思い、つい黙ったままで歩きました。
それに、僕も父親の顔を見たら泣きそうだったのです。
「寒いなあ、ダイ。風邪引きそうだな」
鼻声の父親は、いつもより明るめのトーンで、でもどこか湿っているような声でした。話すきっかけを探っているようです。
「でも、パパの心の中は、なんだか暖かい」
ミーの声はまったくしないので、多分眠りこんでいるのでしょう。どっしりと重いリュックサックの僕の背中は、秋も深い十月なのに、嘘みたいにたくさん汗をかいていました。
そして僕は黙って頷きました。
「パパな、正義の味方なんかじゃない。平社員だし、イケメンでもない。普通の、メタボに悩む二人の子持ちの四十五のオヤジだ。そんな普通のパパだけど、この世で大嫌いなことがある。それは、人をいじめたり人を傷つけたり、そういうことをすること。ただ、それが大嫌いなだけなんだ。だから、誰かが意地悪されているのを見ると、体がチクチクしてくる。息苦しくなる。ただ、それだけなんだ」
僕に、小学一年生の慎太郎が一生懸命話しかけています。
「まこと君は、クラスでいじめられ始めていたんだ。でも、パパだけそのことに気づいていなかった。入学して三ヶ月位した頃かなあ、席替えがあって。最初はまこと君はパパの隣りの席だったんだけど。いざ席替えが始まると、まこと君の席の隣りに誰も座りたがらなかったんだ。困った担任の先生がくじ引きで公平に決めようとしたんだけど、それでも全然ダメだった」
「どうして?」
顔を上げた僕に、父親は優しく微笑みました。
「まこと君、少しだけ体が弱くて。お腹も壊しやすかったんだと思う。大人になった今思えばなんてことないけれど、小学生の頃って、学校のトイレでウンチするって結構勇気がいることだったんだ。だから、まこと君はきっとトイレ我慢しちゃったんだろうなあ。一年生になって初めての学級会の最中、緊張していたんだと思う。みんなの前でお漏らししちゃったことがあったんだ」
思い出したように、また鼻をぐすんと鳴らしました。父親がこんなに泣き虫だったなんて。
「あだ名を付けられてね。『まこと』じゃなくて、『ゲリト』って。子供の時って、あだ名の付け方そのままじゃない?それからずっと、まこと君はいじめられ続けていたんだ。ことあるごとに、臭い、汚い、菌がうつるって言われて」
そのあとも、七歳の父親は、言葉の雪崩が起きたかのように、まこと君の思い出を話し続けました。話の筋が前後したり、あっちに行ったりこっちに行ったり迷走しながら。自分を慰めるように、そして、自分を悔いるように。
「パパは、本当はまこと君と遊ぶよりも、他の友達と遊びたかったのかもしれない。でも、まこと君をみんなの前でかばった手前、今更後戻りできなくて。まこと君と遊んでいると、必然的にパパもクラスで孤立していったんだ。少し、後悔した。それを、まこと君は薄々感じていたんだと思う。だから、ある日まこと君は突然いなくなった。もしかしたら、神隠しなんかじゃなくて、自分からいなくなったのかもしれない。パパの胸の奥の奥の気持ちを知って、悲しくなって、自分でいなくなったのかもしれない。まこと君がいなくなった時、そんなふうに思ったんだ」
深呼吸すると、冷たい空気が一気に肺に充満しました。そのせいで僕がブルルと背中を震わせたので、ミーが起きてしまったようです。
がさごそと、生き物のぬくもりが改めて伝わってきました。
「パパも、他のみんなと同じだった。結局、まこと君のことを仲間はずれにしていたんだよ。表立ってやらなくても、心の中で思っていれば同罪だ。そう、パパも『いじめ』集団の一員だったんだ」
悲しそうな父親の目が、僕に真価を問うように訴えかけてきました。
そう思うかい?パパは、ダメな人間かい?
「だから、まこと君はパパのせいでいなくなった。今でもたまに、夢を見るんだよ。いつも夢の中のまこと君は笑ってる。変わらぬ七歳のままのまこと君が、こんなパパに微笑みかけてくれるんだ」
言葉の一つ一つが冷たい北風に乗り、僕の目の前を通り過ぎていきました。
そして何事もなかったかのように町は静まりかえり、家までのあと何分かを、久しぶりに父親の手をしっかりと握りながら歩いたのでした。