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『道祖神』

 
「おはようございます!」

毎朝通る信号近くの三差路。
小学校に向かう僕たちを見守るおじさんが、黄色い旗を持って立っている。後ろには、いつの時代に造られたのかわからないくらい古い「道祖神」が鎮座している。誰が置いているのか、お供え物や水や花が絶えたことはない。いつもの、毎日変わらない風景。
 
あれは、雨の日。
いつもなら何人かで競争しながら帰るのだけれど、この日に限って僕のクラスだけホームルームが伸びてしまい、下校時刻が遅くなってしまった。運悪く同じ帰宅方向の友達とはぐれてしまい、一人で帰ることにした。

自動車のタイヤが雨をはじく音。湿った葉っぱからほんのり香る雨の匂い。椿の木の下を通ったら、パラポロと花びらが傘に水滴を落として遊ぶ。
その時僕は、ふっと目をやった。
道祖神のところ。見知らぬ男の子がいた。見たことがない子。
違う学区の子かな。この辺の子かな。同じくらいの年だろうか。黙ったまま、僕はその子を見つめていたらしい。気づいたその子がほほ笑んだ。僕もつられてほほ笑んだ。

「こんにちは」
僕が挨拶すると、またその子がほほ笑んだ。でも言葉はない。
言葉はないけれど、嫌な感じがなくてまるで風景みたいだった。
「帰らないの?家、こっち?」
話しかけると、その子は少し寂しそうな顔をした。弱く首を左右に振ったように見えた。もしかしたら、誰かを待っているのかもしれない。
僕は右手をそっと上げて、サヨナラと手を振った。少し歩いて後ろを見る。まだいる。もうこっちは見ていないけれど、どこも見ていないように見えた。ただまっすぐに、何かを考えているみたいに。

次の日の朝。相変わらず道祖神のところでおじさんが黄色い旗を持って立っている。
「おはようございます」
「今日はいい天気だねえ。こんな日は学校まで走りたくなるだろうけれど、駄目だよ」
おじさんはいたずらっぽく笑うとすぐに、道路の真ん中でじゃんけんを始めた子供たちを叱った。僕はそのすきにおじさんの後ろをのぞき込んでみる。誰もいない。
そして今日も、道祖神の前には新しい花が飾られていた。
 
次の日の朝。僕は日直の仕事でいつもより二十分早く登校した。
傘を持って小雨の中長い坂を上り、いつもの三差路が見えてきた。この時間だと、まだ学校の子どもはいないから多分おじさんもいないだろう。
そんなことを思いながら小走りに向かった。

オレンジ色の背の高いカーブミラーが見えてきたらもうすぐ着く。角の家のブロッコリーみたいな木がちょうど傘みたいに道祖神を守っている。
ふと見ると、誰かがしゃがんでいた。
灰色の頭とちょっと猫背の痩せた背中。道祖神を抱きしめているのかと思うほど覆いかぶさって何かをしている。
なんだろうと思い立ち止ると、その背中が立ち上がった。
目を拭っているようだ。顔を上げると、いつものおじさんだった。
残ったままの涙がまつ毛を濡らして光っていた。おじさんは慌てて旗を持った。
 
「おや。おはよう。今日は早いんだね」
おじさんが体をどかして見えた道祖神の前には、黄色いチューリップが飾られていた。
「いやあ、まいったなあ。恥ずかしいところ見られちゃったなあ」
おじさんの真後ろには、男の子がいた。
前に会った時よりもっとたくさん笑っている。
 
「あ、おはよう」
僕はその子に挨拶をした。おじさんはぎょっとした顔で僕を見た。
「今、誰に挨拶したの?」
「え?誰って。この子に」
道祖神の前で笑っている、半ズボンを履いて黄色いパーカーを着ているこの子に。少し髪の毛が茶色くて、前髪が長いこの子に。
「本当かい?」
おじさんの顔が真っ青になった。膝から崩れて道祖神の体に触れた。
「ここに、まだいるんだね。ごめんね。ごめん本当に」

その子は、おじさんの息子だそうだ。三十年前に、この三差路で暴走してきたワゴン車と衝突したのだそうだ。
「あの日、おじさんと息子はプロ野球の試合を見に行くところだったんだ。途中でチケットを忘れたことに気づいてね。先に駅へ行って待っているように言ったのがいけなかった。あの時、一緒に戻っていれば良かった。全部、全部おじさんのせいなんだ」
その時、男の子は顔を左右に激しく振った。
「おじさん、違うみたいだよ。おじさんのせいじゃないって。その子そう言ってるよ」

あの日は、ちょうどこんな雨の日だったそうだ。
僕はおじさんと男の子と道祖神に「行ってきます」を言い、いつもより慎重に、車に気を付けながら学校へと向かった。

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