都会で暮らすのに疲れた時(ゴッホ)
東京に、疲れる時がある。
住んでみると、とにかく人が多い。保育園のお迎えですれ違うママへの挨拶といった、普段なら電気のスイッチを押すような感覚でできてしまうことですら、たまらなく億劫になってしまう日もある。今日は誰にも会いませんように、と祈りながら外に出ることも存在する。
オランダ人の画家ゴッホは、スイッチを押さないどころか配線を遮断し、弟テオを除く全ての人間関係の中に希望を見出すことを諦めた。数多の恋に破れ、父と同じ牧師業を志すも打ち砕かれ、実家へ戻ると腫れ物を触るような扱いを受けての決断であった。代わりに彼が身を投じたのは、自然である。対人関係を放棄していたゴッホは、夜な夜な弟テオへ手紙を書いて胸の内を打ち明けており、こう語っている。
人生とは、実に呆れ返った実在だ。僕らはみんな、こいつに向って、どこまでも追い立てけられる。物事は、あるがままにある。陰気に考えようと陽気に考えようと、物事の性質は変わりはしない。僕は、眠れない夜なぞ、そんな風に考える、嵐の日に野っ原に寝転び、夕方が来たり、もの淋しい明け方が来たりする時、そんな風に考える。(No.345)
仕事の締め切りや書類の提出などの雑務に追われていた中で、この手紙を思い出し、自然に触れるために白金の自然教育園を訪れた。
江戸時代から生息する松の木や、発芽から最初の開花まで5年以上はかかるヤマユリに出会うと、たかだか数日の予定で陰気になっていた自分が、まさにゴッホの言うとおり人生に追い立てられているように思える。
もちろん、依然として仕事や書類は残っている。現実から逃げていると言われれば、そうなのだろう。ただ、やらなくてはならない物事の性質に変わりはないのなら、仕事だけに心を囚われず、取り掛かる時以外は、他のことに想いを寄せていても良い。
頭で分かっていつつ、家にいるとどうしても仕事のことばかり考えてしまい、夫も然りで、子どもをどちらが面倒見るか、家事をどちらがやるかで時間の奪い合いになるので、週末は外に出かけるのが良いのだろう。行先は仕事のことなんか思い出させず、知り合いにも遭遇しない、自然の中だと最高である。
都会に住むと、平日に自然に触れることが難しい。ベランダでガーデニングをしようにも、限界がある。切り花は田舎に比べて信じられないほど高い。地方移住者も確かに増えているが、依然として東京に人が住み続けるのは、多くの人が後ろ髪をひかれるように、まだ何かやり残したことがあり、此処なら叶えることができると信じるからなのだろう。
自然教育園から、自宅へ戻った。灰色のビルの隙間から除く空は、今にも雨が降りそうだ。再び追い立てられる日々に向けて、少しでも自然の余韻に浸れるように、部屋の片隅に《ひまわり》の絵葉書を飾った。