文章には人格が出る
この記事を読んで驚いた。内容ではない。彼女の文章の上達ぶりについてだ。
https://woman.nikkei.com/atcl/column/23/082800128/060400018/?P=3
ぶっちゃけて言うが、小島慶子さんの文章は、今までそんなに好きではなかった。彼女の本を読み、女性誌で何度か彼女の書いたものをパラパラと見て「有名人はいいよな。この程度で連載できて」と歯ぎしりをしていた。
そう、嫉妬である
彼女のように美貌もあって、仕事に理解のある夫もいて、子どもも2人いて……という女性は嫉妬を受けることが多いのだろう。私も彼女には心の奥底では嫉妬していた。文章も好みではないから、彼女の書くものは(トピックはすごく興味のあるものが多かったのだけど)、読まないことにしていた。
彼女の文章が上達したのは、もちろん書く力が上達したこともあるが、それよりも彼女の人生から無駄なものがそぎ落とされたことが大きいのだと思う。心の中に溜まっていた滓(おり)やケガレがすべて出たような印象を受けた。
それくらい文章には、ものすごく人格が出る。
先日、扶桑社の編集者さんとその話になった。私はどちらかというと自分の文章に向き合っている時間の方が長いのだけど、編集者はいろんな人の文章を見る仕事だから、特に分かるそうだ。
彼は「文章を読むと、その人の今のメンタルの状態がわかる」と言っていた。彼は自分でもライターをしていたことがあったから、余計にそうなのかもしれない。
彼はノンフィクションのジャンルで書いていたことが多かったのだが、彼の文章はすごくうまい。芯のようなものがしっかりある。「この人は小説とかエッセイを書いても面白いんだろうな」と思った。
逆もまたしかりだ。
最近のWeb記事では、読んでいて「これ、筆者は書きたくて書いてる記事じゃないんだろうな」と思うものもいくつかある。
AIを使っているとか、そういうことを言いたいわけではない。「本当はどうでもいいと思ってるけど、とりあえず書いておくか」というのが文章から見え隠れしているのだ。
ノンフィクションの記事なら当たり前じゃないか、と思う人もいるかもしれない。たしかにライターという仕事上、自分の主張は入れるべきではいけない。ただ伝えるために書くから。
それでもそこに1行でもいいから、自分の主張をそっと忍ばせる。それが醍醐味だったりする。出版社によっては編集者さんにばっさりと切られてしまう時もあるが……。
文字の間に見かける、魂からのシャウト、そして「これを伝えたいんだ!」というヴォイス。筆者のそれを体感するのが、文章を読むことの醍醐味だったりする。
でも「自分の書く文章に酔いすぎているな」という印象の人もいる。
「ここでその表現はちょっと重たいよね」というのを使って、読者を置いきぼりにしてしまうタイプの人だ。私はどちらかというとその傾向がある笑。
吉本ばななさんと村上春樹さんの人は、そのさじ加減がすごくうまい。一流作家だから当たり前だし、お前は何様だ!という感じだが。
彼らは嫌なことがあった時は淡々と書く。嬉しいことがあった時は読者を置き去りにせずに表現する。これは実はすごく難しい。私もまだまだ道の途中だ。彼らがいる世界のスタート地点にも立っていない。
そんな道半ばの私は、小島慶子さんのこの記事を読んで勇気をもらった。いくつになっても文章は上達するのだ。いいものを書くために、内面も磨いていこうと思う。