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小説「夏眠」:サマー•ハイバネーション[9]診察までが辛い

葉菜が精神科クリニックで初診を終えてから、約一週間が過ぎた。抗うつ剤の効果はまだ現れず、むしろ副作用のようなものを感じる日々が続いていた。
頭の中がぼんやりとして、体が鉛のように重い。朝、鏡に映る自分の顔が、まるで他人のように見えることもあった。そんな状態で仕事に行くのは、まさに拷問だった。

そういえば、クリニックの沢村先生が薬について説明してくれてたな。あの時、メモ書きを渡してくれた。
あのメモはどこに入れたんだっけ?
あの日使った青色のバッグの中を探した。すると内ポケットから小さなメモが見えた。
「お薬は効くまで少し時間がかかります。副作用とかがあったり辛い時はどうぞお電話ください」
そうだった抗うつ剤は作用が現れるまで時間がかかるって診察の最後に説明してくださったんだった。私がぼんやりしてたからメモ書きしてこうやって渡してくださったのに忘れてた。
本当に私ってダメだなあ...。

会社に行ってデスクに座っても、目の前の画面はかすみがかかったように見えるだけで、集中することができない。
上司の指示が耳に入らず、同僚の声もどこか遠くで響いているように感じる。
食欲もなく、会社のランチミーティングで昼食に出された弁当をただ眺めるだけで、何も口に運べない。
ふらふらとトイレに行って鏡を見た時、自分の頬がげっそりとこけているのに気づき、やはりこれはただの疲れではないと悟った。

「いよいよ休職か…?」葉菜は自分に問いかけた。心のどこかで、もう無理をしてはいけないと警告が鳴っているのが分かっていた。

でも、一方で、仕事を辞めることが怖かった。働けなくなった自分が、社会から取り残されてしまうのではないかという不安が、暗い影のように葉菜に付きまとっていた。
金だって有り余るほどあるわけではないし、姉さんに援助しないといけないしどうしよう。

そんなある日、会社を早退した葉菜は、帰り道で突然、道端にしゃがみ込んでしまった。目の前が真っ暗になり、息が詰まるような感覚に襲われた。近くを通りかかった親切な女性が声をかけてくれたが、その声すら遠くに感じた。何とか自宅までたどり着き、ベッドに倒れ込んだ葉菜は、ただただ涙が溢れて止まらなかった。

「もう、どうすればいいんだろう…」

その夜、薬の袋を手に取りながら、葉菜はふと考えた。この薬が効いてくれる日が本当に来るのだろうか。
そう思うたびに、遠くの光がまた遠ざかっていくような気がした。だけど、もう後戻りはできない。
葉菜は、ただ自分に「やっていくしかない」と言い聞かせることしかできなかった。その夜、葉菜はベッドに横たわりながら、手の中で薬袋を握りしめていた。小さな白い錠剤が、彼女の唯一の救いのように思える反面、全く頼りにならないもののようにも感じられる。頭の中では、ただぐるぐると同じ思考が繰り返されるばかりだった。

「この薬が本当に効くのか…?効いてくれる日なんて来るのか…?」自問自答の繰り返しが、ますます不安と焦燥感を増幅させる。遠ざかっていく未来の光を思い浮かべると、まるで砂漠で幻を追いかけているような虚無感が葉菜を包み込んだ。薬を飲むことで、何かが変わると信じたい気持ちと、その期待が裏切られるかもしれないという恐怖が、心の中で激しくせめぎ合っている。

目を閉じても、頭の中で黒い影が揺れ動き、眠ろうとしてもその影がどこまでも追いかけてくる。心が休まる瞬間がない。暗闇の中で目を見開き、ただ天井を見つめる葉菜の胸は、恐怖と絶望で締め付けられたように痛かった。

「もし、このまま何も変わらなかったら…」その思いが、ふと脳裏をよぎる。薬を飲んでも、症状が良くならなかったら?このまま仕事にも行けなくなり、何もかも失ってしまったら?葉菜は、その考えに耐えきれず、強く枕を握りしめた。全身が冷たい汗でびっしょりと濡れていることに気づいたが、それすらどうでもいいような気がしていた。

絶望の深淵に引き込まれる感覚が、葉菜をじわじわと蝕んでいく。頭の中で声が囁く。「もう、やめてしまえばいいんじゃないか。何もかも放り出してしまえば、楽になるかもしれない…」

しかし、そんな考えを打ち消そうと、葉菜は必死に自分に言い聞かせる。「やるしかないんだ…今はただ、耐えるしかないんだ…」しかし、その言葉はまるで遠くから響いてくるように感じられ、自分自身ですら信じられないものに思えた。暗闇に包まれた中で、葉菜は自分が壊れかけていることを感じながら、ただ時間が過ぎ去るのを待つしかなかった。

目を閉じると、まるで深い海の底に沈んでいくような感覚が押し寄せる。浮かび上がろうと必死にもがくが、その度に重みが増し、どんどん沈んでいくような感覚に襲われた。何もかもが無力に思え、自分の存在が薄れていくような錯覚に捕らわれた。

「このまま、消えてしまいたい…」

そんな思いがふと浮かんだ時、葉菜ははっと我に返った。自分が今、何を考えようとしていたのかに気づき、恐怖で震えた。すぐに、薬の袋を握りしめた手を離し、枕元に置いた。これ以上、この暗闇に飲み込まれるわけにはいかない。明日もまた、同じような一日が待っているのかもしれない。それでも、葉菜は自分に言い聞かせるしかなかった。「やっていくしかないんだ」と。

その言葉が、彼女にとって唯一の救いであり、そして同時に重い枷のようにも感じられていた。

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